2016年07月23日

【動画】吉田神社

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日本史、特に古代史については、とりあえず藤原氏の悪口を言っておけばいいというような風潮がある気がしないでもないですが。
他氏を排斥したことも権勢に驕ったことも事実ではあるにしても、藤原氏がそれだけ有力な一族になったことには、それだけの理由があるということも、同時に認めなければフェアではないように思います。
まずは何といっても中臣鎌足の功績がありますし、奈良時代に仏教政治が国富を潰えさせたあげく道鏡事件までを引き起こすにいたったとき、数次にわたってそれに対抗したのはやはり藤原の一族でした(藤原広継は玄昉を排せと乱を起こし、藤原仲麻呂と光明皇后は聖武天皇の遺臣を一掃して淳仁天皇を擁立し、道鏡事件に際しても和気清麻呂だけでなく藤原永手が活躍したといいます)。
そこに私利私欲が全くなかったとは言いませんが、行き過ぎた仏教偏重が国柄を危うくするとき、彼らが神祇氏族としての自らの出自にまったく思いを致していなかったと決めつけることも、やはり不自然であるように思います。

こちらで見たように、奈良時代の仏教というのは、神道の神々さえもが帰依する、神より上位・高位の存在として仏を位置づけ、日本人の精神的従属を要求する侵略者のようなものでした。
大帝・桓武天皇が平安遷都によってようやく南都仏教との絶縁に成功され、やや穏健な本地垂迹説が現れたとはいうものの、本地はあくまで仏のほうで、神々は仮の姿にすぎないとされてしまいました。
それを逆転させ、日本の神々こそが根本であり、仏こそが神々の仮の姿にすぎないとしたのが、根葉果実説に立つ吉田神道というところでしょうか。吉田家は自家の神道を「元本宗源神道」と称し、仏教にけがされていない純一無二の「唯一神道」であると主張。天皇陛下のお墨付きをいただき、時の武家政権と良好な関係を結び、中世・近世を通じて絶大な影響力を誇りますが……

実はこの「吉田家」「吉田神道」「吉田神社」というのも、藤原氏とゆかりの深い存在です。
(吉田家の系図についてはその後宿敵・伊勢神宮から重大な疑義が提出されましたが、最初に偽った者たちはともかく、その後代々の吉田家の人々は自らその嘘を信じていたのでは、とも思えます)

二十二社の一社にも数えられる吉田神社ですが、創祀は貞観元年(皇紀1519年・西暦859年)中納言・藤原山蔭が春日神社の神様を勧請したのが始まりと言われているようです。春日神社は言うまでもなく藤原氏の氏神ですね。
つまるところ吉田神社とは藤原氏の神社であり、吉田神道というのは藤原氏の神道であり、吉田家というのは藤原氏の末裔である(と自称していた)ことになります。

吉田神道隆盛の基を築いた吉田兼倶は、神祇権大副・神祇管領長上の肩書を持ち、
当家は、祖先天児屋命の妙業を受け継ぎ、代々これを伝えてきた。その妙業は神国の根源であり、朝家の枢要であって、他に代えようがない。当家はまさに神道の棟梁と呼ぶにふさわしく、実際に神祇官を差配している。だから神祇官に参列するときは、律令制度の序列に関係なく、最上席を占めてよい。上皇陛下はこのようにお考えである。
と豪語していたといいます。

時あたかも応仁の乱。
吉田神社も戦火で焼け落ちたといいますが、兼倶は神社の再建を図ると同時に、それ以上の「野望」を抱いたようです。
自邸内にあった斎場所「日本最上神祇斎場」を吉田山に移転し、国家的なお墨付きを獲得しようと運動し、それに成功したといいます。
「日本最上神祇斎場」こと「吉田山斎場所」は、日本全国のあらゆる天神地祇をすべて一カ所にお祀りしていると豪語する「聖地」でした。当初、独自の地位を獲得していた伊勢神宮のご祭神だけは欠如していましたが、当時の戦乱の余波でたまたま「飛神明(伊勢のご神体が伊勢から飛び去ってしまった)」という流言が流れたことから、そのご神体がお遷りになった場所こそ吉田山斎場所である、と主張して、まんまと伊勢の神様も「横取り」することに成功(以後、吉田家は伊勢神宮にとっては不倶戴天の敵になったといい、これが後に吉田家の系図への重大な疑義が伊勢から提示される伏線になるようです)。
いずれにせよ、時の土御門天皇は、兼倶に、吉田山斎場を「神国第一之霊場、本朝無双之斎庭」と認める綸旨や御宸筆を賜り、吉田家は名実ともに神道界の頂点に立ったことになります。

こちらこちらこちらなどで述べたことを繰り返すまでもなく、武家政権というのはその根拠を皇室に求めざるをえないわけですから、「天皇の勅裁を得た神道」を無視することはできません。
兼倶のパトロンは日野富子たちでしたが、その後も吉田家は織田、明智、豊臣、徳川、と、天下人とも次々に関係を取り結んでいくようです。
吉田側からすれば権力者に取り入ったとも言えますが、一方の武家政権の側からすれば、「天下」はともかく「天上」のことについては、吉田家というのは大いに頼りになる存在であり、持ちつ持たれつでもあったのかもしれません。また、そうであればこそ、幕末までの長きにわたって、吉田神道は栄ええたのでしょう。

こうしてみると吉田神道の歴史というのもずいぶん俗気にまみれた権力志向の強いものであり、それこそ「藤原氏の悪口」の格好の材料ではあるかもしれません。
と、同時に、やはり、その藤原(を自称する一族)こそが、それまで誰も成し遂げえなかった、神道の仏教からの解放を成し遂げたのだ、という「功績」も、認めざるをえないように思えるのです。

いずれにせよ神道の歴史を閑却した歴史から、本当の意味で、日本の「こころ」を見つけ出すことは相当に困難であるように思えます。
藤原氏の歴史もまた、神祇氏族としての観点から見直してみる必要がありはしないでしょうか?


吉田神道の四百年 神と葵の近世史 (講談社選書メチエ)
吉田神道の四百年 [ 井上智勝 ]
ラベル:神道 儒教 仏教
posted by 蘇芳 at 01:19| 神道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする