2016年07月14日

光明皇后


話は少しさかのぼりますが、光明皇后のお立場というのはどういうものだったのでしょう?
反日唯物史観からすれば藤原氏増長の象徴(光明子立后問題)、
愛国尊皇の情緒からすれば、皇室の慈善事業のルーツ(悲田院・施薬院)、
かもしれません。
しかし、これまで続日本紀について考察・推測・妄想してきたように、奈良朝の政変の背景に「聖武系vs舎人系」ともいうべき思想的対立があったとすれば、光明皇后は、聖武天皇の皇后でありながら舎人親王の皇子(淳仁天皇)の擁立の後ろ盾となられた方だった、とも、言えるのではないでしょうか。

こちらで確認したように、奈良時代の仏教というのは傲慢な思想的侵略者です。
奈良時代以前ならなおさらでしょう。
仏教公伝の際、崇仏派の蘇我氏に対して、物部氏とともに強くこれに反対したのが神祇氏族・中臣氏でした。
その後、蘇我馬子は物部氏を滅ぼし、崇峻天皇を弑逆したてまつって、一時は権勢をほしいままにしますが、ついに起ちあがってこれを亡ぼした英雄こそ、廃仏派の敏達天皇の後裔・中大兄皇子と、中臣鎌足でした。
この功をもって中臣は藤原の姓を賜わり、皇室の藩屏として長く栄えることになります。
侍殿防護の神勅を授かった天児屋根命の子孫を名乗る神祇氏族に相応しい働きだったと言えるでしょう。
こうした歴史(史観)をまとめたのが日本書紀であり、その編者(の一人)と見なされているのが舎人親王です。

天武天皇は敏達天皇の曾孫(玄孫)、聖武天皇はその天武天皇の曾孫にあたらせられます。
しかも聖武天皇の御生母は藤原宮子、皇后は光明皇后(藤原光明子)ですから、「日本書紀」の読者なら、聖武天皇の御代にも、神祇尊重・藤原氏の重用が行われることを予想せざるをえないところです。
実際、御代の初めのうちは、藤原四子の全盛期でした。
しかし、長屋王の変の後、疫病で四子が相次いで死去すると、藤原氏の勢力は一挙に後退。代わって政権の座についたのは橘諸兄であり、彼が重用した玄昉や吉備真備でした。そして彼らが強力に推し進めた政策こそ、仏教政治に他なりません。
光明皇后御自身の仏教信仰を一時棚上げして、あくまでその御出自からのみ考えれば、「実家」の政治的没落と、「実家」の信仰(神祇祭祀)の低迷を迎えた、という言い方もできなくはない状況です。
実際、藤原氏のなかでも式家の広嗣などは、玄昉や真備をターゲットに反乱を起こしています(あえなく敗死しますが)。
しかも藤原鎌足の大活躍を描いた「日本書紀」の編者・舎人親王に対してさえ、
舎人親王が朝堂に参入する時、諸司の官人は親王のため座席をおりて、敬意を表するに及ばない(宇治谷孟訳、以下同じ)
という、謎の詔が渙発されるありさまです。

それでも、なお、その「仏教政治」とやらが、国民の幸福増進の実を挙げる優れた政策だったのなら、国母として、納得することもおできになったでしょう。皇后御自身は仏教を崇敬されていたと言われているのですから、なおさらです。国民のためにも、信仰のためにも、仏教政治の目覚ましい成功をこそ念願されていたはずかもしれません。
しかし、実際はどうだったでしょうか?
仏教政治は、現実的な形で、そのご期待に応えることができたでしょうか?

光明皇后の発願による悲田院・施薬院は、慈善事業の嚆矢として高く評価され、美談的に顕揚されています。それはそれで構わないのですが、しかし、弱者救済の特別措置が必要になったということは、裏を返せば、この時代に、それだけ大量の「弱者」が生み出されていた、ということでもあるのではないでしょうか。
貧民や病者(病気にかかっても治療を受けられないという意味でやはり貧民でもあります)を救済することも政治の仕事の一つではあるかもしれません。
が、国民を富み栄させ、貧困率を下げること、そもそも貧民などというものを生みださないないこともまた、それ以上に重要な政治の仕事(経済政策)というものではないでしょうか。
仁徳天皇の有名な民の竈の物語はその意味で経済政策とも言えますが、悲田院・施薬院の創設は、貧困根絶のための経済的根本政策とまではいえない。一種の対処療法・弥縫策にとどまるものでしかない、と、厳しい言い方をすれば、言えるのではないでしょうか。

聖武天皇の御代に、疫病や天災が度重なったことは事実です。
病者や経済的困窮者に対する緊急措置が必要になったことは間違いないでしょう。
しかし、国政の観点からすれば、それら緊急措置は、確固とした恒常的な経済政策があったうえでの、補助的な手段として実施されるべきものでしかないようにも思えます。

では、さて、仏教政治とやらは、貧民救済・国富増進のために、どのような現実的経済政策を提示したでしょうか?
そもそも、仏教による「救済」の手段とは……?
要するに寺院の建立であり、読経であり、加持祈祷の類にすぎません。
国分寺・国分尼寺、法会、集団得度、そして大仏建立。
そんなことをくりかえせばくりかえすだけ、かえって費用がかさみ、国庫を圧迫するだけのことです。
そして国庫の財源とは要するに税金ですから……国民を救済するために税金をつかって仏事を営み、その仏事の費用のために国民を苦しめ、その苦しみを救済するためにさらに仏事を行う、という、悪循環が容易に想像できます。
ちなみに大仏建立の際には、
この富と権勢をもってこの尊像を造るのは、ことは成りやすいが、その願いを成就することは難しい。ただ徒らに人々を苦労させることがあっては、この仕事の神聖な意義を感じることができなくなり、あるいはそしりを生じて、却って罪におちいることを恐れる。
と、国民の負担に配慮された詔が渙発されており、ありがたい御仁慈の一例として今でもしばしば特筆されることがありますが……
しかし、タダほど高いものはない、は不易の真理。
税を課さず、喜捨によって建立するとして、多額の寄進が可能な富裕層の財源は、といえば……何のことはない元をただせば税金です。聖武天皇が重税を課されなくとも、時の崇仏政権に媚びへつらいたい貴族たちが、苛斂誅求を行わないという保証はどこにもないのではないでしょうか。

さらにくわえて、大仏建立の時には税を課さないということは、その他その他に必要な費用についてはその限りではないことにもなります。
聖武天皇の御代には、こちらで見たように、無計画な遷都・造営事業が行われており、
最初に平城宮の大極殿および歩廊を壊し、恭仁京へ遷し替えをしてから四年をかけ、ここにその工事がようやく終わった。それに要した経費は悉く計算できない程多額であった。その上更に紫香楽宮を造るのであるから、恭仁宮の造営は停止することになった。
というありさまで、これでは経済政策もへったくれもありません。
ちなみに「経済」とは「民」の意味なのですが……
悲田院・施薬院の発願は民の困窮を見るに見かねた国母・光明皇后のありがたい御仁慈の発露だったとして、肝心の国父・聖武天皇とそれを輔弼申し上げるべき重臣たちの仏教政治は現実的な意味での「経世済民」の政策たりえたでしょうか?

こうした国庫の蕩尽、経済政策の行き詰まりのなかで、皇紀1409年(天平勝宝元年)、八幡神を利用した大々的な(大金を投じた)セレモニーが行われ、それと前後して聖武天皇は阿部内親王(孝謙天皇)に譲位されます(大仏と八幡神参照)。
そして皇紀1416年(天平勝宝8)、聖武上皇が崩御され、遺詔によって、新田部親王の子で天武天皇の孫にあたる道祖王が孝謙天皇の皇太子として立太子されました。
道祖王の周辺には、橘奈良麻呂たち、聖武天皇の遺臣たちが結集しています。
孝謙天皇御自身も父帝と同じく、仏教に深く傾倒しておいででした。
聖武天皇の皇后であり、孝謙天皇の母后である光明皇后として、諸兄・玄昉・真備たちの仏教政治に満足しておいでだったなら、この体制で何の問題もないとお考えになるのが、自然というものではなかったでしょうか?
一般的には、光明皇后御自身も個人的には深く仏教を崇敬されていたと言われているのですから、なおさらです。

しかし、実際の歴史は、そうはならなかったようです。

まもなく橘奈良麻呂の乱が勃発。
藤原仲麻呂は、道祖王をはじめ何人もの皇族を拷問死に至らしめる過酷な弾圧をもって橘氏の権勢を亡ぼし、藤原氏の手に政権を取り戻しますが……この仲麻呂の後ろ盾になられたのが、叔母にあたる光明皇后であられたと言われています。
そして、仲麻呂は道祖王に替えて、大炊王を擁立、孝謙天皇の譲位を受け、第47代淳仁天皇が即位あそばされますが……この淳仁天皇こそは、舎人親王の第七皇子であらせられました。
「仲麻呂の後ろ盾」光明皇后は、聖武天皇の遺臣を弾圧し、聖武天皇のお定めになった皇太子を廃し、聖武天皇との間にお生まれになった孝謙天皇を退位させて、よりにもよって「舎人親王の皇子」の擁立することを、よしとされたことになります。

仏弟子・聖武天皇の皇后であり、自らも仏教を崇敬された光明皇后……にしては、ずいぶんと不可解な展開ではないでしょうか。
そこにはそれ相応の深い理由があったはずだ、と考えることは、不自然でしょうか?

一般的に、この成り行きは、藤原氏という「血縁」「閨閥」にかかわる行動と見なされがちであるように思います。
しかし、「日本書紀」編纂という舎人親王の功績や、上記の「謎の詔」に見る聖武天皇との関係、藤原氏の(本来の)信仰的立場、そして何より、仏教政治の経済政策などなどの事情を勘案して見たとき、それほど単純かつ唯物的な門閥闘争とのみ見ることは、どのくらい妥当なのでしょうか?

かつて、推古天皇は、崇仏派・蘇我氏の御出身であらせられながら、蘇我馬子の要求をことごとく退けられ、「神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ」と詔され、蘇我氏の血をひく山背大兄皇子ではなく、廃仏派・敏達天皇の後裔・田村皇子(舒明天皇)にこそ皇位を譲ろうとされました。
蘇我氏の女としてではなく、敏達天皇の皇后として、天皇として、国体の護持に大きく貢献あそばされた偉大な女帝であらせられたと申し上げて差し支えないでしょう。
それに対して、光明皇后は、もちろん天皇ではあられませんし、一見すると「実家」の藤原氏のために行動されたように見えてしまうかもしれませんが……しかし、その「御実家」はそもそも崇仏派の逆賊ではありません。元をただせば廃仏派の神祇氏族・中臣です(さすがに今さら「廃仏」は不可能だったでしょうが)。

藤原氏といえば、後の摂関政治の印象が強く、権勢に伴う増長が目についてしまいますが……
崇仏派・蘇我氏を亡ぼしたのも中臣なら、道鏡を排除して国体を救ったのも(和気清麻呂は別格としても)藤原永手。桓武天皇の擁立に功績があったとされるのは藤原百川、遷都事業(南都仏教との訣別)に邁進したのは藤原種継、と、それだけの権勢にあたいするだけの功績はあげてきた一族です。

仲麻呂の後ろ盾となられた光明皇后もまた、そうした「皇后」でありかつ「中臣」でもあられるという御立場から、明確な政治的意図、護国の信念をもって行動された国母であられた、と、見ることも、できなくはないのではないでしょうか?
悲田院や施薬院のそれにしても、「仏教的な慈悲」などを持ちださなくても、国母・皇后としての御仁慈としてだけでも、十分に説明可能なのかもしれない、と、思えなくもありません。
……われながら、私は相当(奈良以前の)仏教が嫌いなようですが💧
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歴代天皇で読む 日本の正史
光明皇后 (人物叢書)

ラベル:続日本紀
posted by 蘇芳 at 02:43| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする