2016年07月12日

【動画】「海ゆかば」


言うまでもなく名曲中の名曲で、私も大好きですが。
困ったことに原作詞者の大伴家持は意外と逆賊だったりもします。



歌詞の元となったのは万葉集所収の長歌。
 陸奥国より金を出せる詔書を賀く

葦原の 瑞穂の国を 天降り 領らしめける すめろきの 神の命の 御代かさね 天の日嗣と 領らしくる 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山河を 広み厚みと たてまつる 御調宝は 数へ得ず 尽くしもかねつ しかれども 我ご大君の 諸人を いざなひたまひ 善き事を 始めたまひて 黄金かも 確けくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国に 陸奥の 小田なる山に 黄金有りと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地の 神相珍なひ 皇祖の 御霊たすけて 遠き代に かかりしことを 朕が御世に あらはしてあれば 御食国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして 物部の 八十伴の雄を 服従の 向けのまにまに 老人も 女童児も しが願ふ 心だらひに 撫で賜ひ 治め賜へば ここをしも あやに尊み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の 其の名をば 大来目主と 負ひもちて 仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草むす屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て 大夫の 清きその名を いにしへよ 今のをつつに 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる辞立 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひつげる 言の職ぞ 梓弓 手にとりもちて 剣大刀 腰にとりはき 朝まもり 夕のまもりに 大君の 御門のまもり われをおきて 人はあらじと 弥立て 思ひしまさる 大君の 御言の幸の 聞けば貴み
「陸奥国より金を出せる」とは、こちらで冗談交じりに触れた百済王敬福のそれです。
大仏建立にかかわる長歌なのですね。
当ブログの読者なら、呪いの邪神像大仏という時点で「おや?」と思われたかもしれません。
こちらこちらを読み返すまでもなく、聖武天皇の御代は、玄昉・吉備真備・橘諸兄らの仏教暗黒政治が猖獗した時代でもありました。
また、聖武天皇が、尊皇敬神愛国の書「日本書紀」の編者、舎人親王に関して、
舎人親王が朝堂に参入する時、諸司の官人は親王のため座席をおりて、敬意を表するに及ばない(宇治谷孟訳、以下同じ)
という謎の詔を渙発せられていることは、くりかえし記述してきたところです。

最終的には道鏡事件をも引き起こした南都仏教。
「海ゆかば」の「大君」が直接的には聖武天皇を指しているとすれば、大伴家持の政治的スタンスも、仏教との関係から見る必要がありはしないでしょうか。

まず「続日本紀」宝亀八年(皇紀1437年・西暦777年)九月十八日の条には、藤原良継の略伝が掲載されていますが、そのなかに、家持の名が登場しています。
良継は位が甥らの下とあってますます怒りと怨みを募らせた。それで従四位下の佐伯宿禰今毛人・従五位上の石上朝臣宅嗣・大伴宿禰家持らと共謀して、太師を殺害しようとした。
ここで「太師」とあるのは藤原仲麻呂ですが……
藤原仲麻呂こそは、聖武天皇の崩御後、橘氏など仏教勢力を弾圧し、道祖王に替えて、他でもない舎人親王の皇子・淳仁天皇を擁立した人物でした。
やがて仲麻呂と淳仁天皇は、道鏡ら仏教勢力によって排除され、非業の最期を遂げることになりますが、大伴家持はその仲麻呂・淳仁天皇に敵対し、間接的にではあれ、道鏡ら仏教勢力に与していたことになりそうです。

やがて皇位簒奪を企てた大逆人・道鏡は、和気清麻呂や藤原永手らの活躍で排除され、めでたく光仁天皇が御即位。政治の正常化が図られますが……
その「正常化」に抗うようにして勃発した謀反が、皇紀1442年(天応二年)の氷上川継の乱でした。
しかして、「続日本紀」延暦四年(皇紀1445年・西暦785年)八月二十八日の条に記された家持の略伝には、
(家持は)宝亀十一年に参議を拝命し、左右の大弁を経て、間もなく従三位を授けられた。しかし、氷上川継が謀反を起こした事件で罪を問われ、罷免されて京外に遷された。
との記述があります。
海ゆかばの歌人はここでも謀反に加担しているのであり、しかもその謀反の標的は、大帝・桓武天皇だったことになります。
第四十九代光仁天皇は、こちらで見たように、道鏡時代の悪政をことごとく「リセット」されたもうた名君であらせられました。その大御心を継承せられた桓武天皇への謀反に関与した家持の政治的スタンスとは、いかなるものであったでしょうか?

極めつけは、同じ略伝の次の一節です。
(家持の)死後二十余日、家持の屍体がまだ埋葬されないうちに、大伴継人・大伴竹良らが藤原種継を殺害、事が発覚して投獄されるという事件が起こった。これを取り調べると、事は家持らに及んでいた。そこで追って除名処分とし、息子の永主らはいずれも流罪に処せられた。
桓武天皇が南都仏教との決別を期して遷都事業を起こされたのはよく知られていることでしょう。
天皇に信任され、遷都の中心人物の一人となったのが、藤原種継でした。
その種継の暗殺にまで関与していたというのですから……
大伴家持、いったいどの口で、「大君の辺にこそ死なめ」などと詠っていたのでしょうか💧

まあ、政治の世界の正邪善悪など一概に決めつけることはできないかもしれませんが……
要するに、大伴家持は遷都に反対する守旧勢力の一人だった、と見なすことができそうですし、その守旧勢力とはとりもなおさず南都仏教との関係が深い勢力だったことは、言うまでもないのではないでしょうか。
なお、氷上川継の乱に連坐した家持は、その後、許され、旧官に復していますが、その官職というのが、「参議」兼「春宮大夫」でした。桓武天皇の御代の初期ですから、ここで言う「春宮」とは、有名な早良親王のことに他なりません。
早良親王は最後まで無実を訴え続けておいででしたが、親王の御本心はさておき、その側近が家持たちだったというのであれば、他にも不逞の輩が東宮の周辺に出入りしていたとしても、おかしくはないのかもしれません。

以上、正史の記述に準拠するならば、大伴家持は、淳仁天皇、桓武天皇(及び光仁天皇)に歯向かい、皇太子殿下をもその謀反に巻き込んだ、大逆無道の人物だった、ということになりかねないようです。
こちらなどで推測したように、奈良時代の政争が「聖武系vs舎人系」とでもいうべき思想的な対立を孕んでいるとすれば……家持の立場は、あきらかに、国体を穢さんとする仏教派のそれではなかったでしょうか?
もちろん、歴史は勝者が書くものとすれば、敗者・家持にも言いたいことはあったかもしれませんが……「日本書紀」「続日本紀」を通して読んだうえだと、彼のために弁明すべき言葉を見つけることは、かなり難しく感じられます。

大伴家持は、「あをによし」と奈良時代を理想化する万葉集における、最多収録数を誇る歌人であり、編者の一人とも目されています。まだまだ毒気の抜けない、外観誘致の道具のごとき仏教が猛威を振るった時代に、よほどいい思いをした人物だったのかもしれませんが……
大来目主命の子孫なり、と、高らかに歌い上げ、武を以て皇室に仕える気概は、いったい、どこへ行ってしまったのでしょうか……

……よりにもよって「海ゆかば」に関する記事ですから、できればもう少し右翼っぽいことを書きたいものですが💧
まあ、今は昔の物語。
「海ゆかば」が不朽の名曲であることは変わりません。
元々は武人の家柄であったにしても、実際には歌人としてのみ名を残した大伴家持。
「海ゆかば」一作を残したことだけでも、以て瞑すべし、というべきかもしれません。
続日本紀(下) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
海ゆかばのすべて
「海行かば」を歌ったことがありますか―軍歌に込められた近代日本人のこころ
「海ゆかば」の昭和
ほんとうの唱歌史「海ゆかば」~
大伴家持 (平凡社ライブラリー)

追記:
現在、人口に膾炙している「海ゆかば」は、昭和12年、信時潔によって作曲されたものですが。
明治13年にも、式部寮伶人東儀季芳によって作曲されています。
唱歌版もあるはずなのですが、音源が見つからなかったので、雅楽版を貼っておきます。

なお、「ほんとうの唱歌史「海ゆかば」~」によれば、この東儀バージョンの歌詞は結句が「かへりみはせじ」ではなく、「のどにはしなじ」だったとも言います。
音源があればいいのですけどね……
posted by 蘇芳 at 01:58| 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする