チャンネルくららから「みんなで学ぼう!日本の軍閥」第七回
前回のこちらで石原莞爾のことをいろいろとくさしまして、無駄に人気のある人なので気に食わなかった読者もいたと思いますが。
皇道派・統制派の抗争と合わせて考えると、やはりどうにも石原のはねっかえりぶりは、あまり褒めたい気にはなれません。
動画では満州事変について「結果的にクーデター効果を持った」と言われています。
前回の動画でも言われていたように下剋上風潮を助長してしまったわけですが。
現場から見れば中央の軟弱、
中央から見れば現場の独走、
両者に意見の統一が無いということは、国家としての統一行動がとれないということで、その状況を喜ぶのは国家を顛覆したいと思っている勢力だけです。
この困った状況を何とかしなければならない、と、心ある軍人・政治家なら当然考えるわけですが、現場と中央に意思疎通を欠いている状況では、解決策についても統一見解が持てるわけもなく、状況はさらに渾沌としていかざるをえない。のではないかと。
満州事変自体は侵略でも何でもない。義挙といってもいいようなものですが。
残念ながら、日本という国家が確固とした意思を以て行ったわけではなかった、と言わざるをえない。
極端な話、国際政治に正義も悪もない、あるのは永遠の国益だけですから、満州事変が義挙でなくてもかまわない。たとえそれが「侵略」だったとしても(違いますが)、国家としての確固としたヴィジョン・プランにもとづいて本気で「侵略」を成功させたのなら、どこからも非難されることはなかっただろうとも言えるのではないでしょうか。
失敗した義挙より、成功した侵略のほうが、国際政治の上では「正しい」のかもしれません。
満州事変自体は「成功した義挙」でしたが、それが支那事変~大東亜戦争という「失敗した義挙」の端緒となったことは、日本の不幸だったように思います。
そして、支那事変~大東亜戦争という義挙を「失敗」に終わらせた大きな要因の一つが共産売国奴の存在だったことは、近衛文麿・尾崎秀実等々の名を挙げるまでもなく、今さら言うまでもないでしょう。
上の動画では、皇道派が徹底した「反ソ」であるのに対して、統制派が「支那一撃論」であったことが説明されています。
やがて皇道派は失脚し、統制派が主流になっていくわけですが、その「支那一撃論」が、日本を「南進」による破滅へと導こうとした尾崎たちコミンテルンにとって、どれほど都合の良いものだったか、想像に難くないのではないでしょうか。
尾崎の鋭利な刃物のような予見力は、日本についても、「南方への進撃においては必ず英米の軍事勢力を一応打破しうるでありませうが、その後の持久戦においては日本の本来的な経済の弱さと、支那事変による消耗がやがて致命的なものとなって現はれてくるであらう」と予測している。結果論でしかありませんが、徹底した「反ソ」であった皇道派のほうが、長期的な見識としては正しかったとも言えるのかもしれません。
(中略)
そればかりか、日本は最終的に英米との戦争で破局的な敗北を回避するために「ソ連と提携し、之が援助を……必要とする」、そのためにも「社会主義国家としての日本を確乎として築きあげる」とまで言いきっている。二年後の一九四四年にはその通りになり、陸軍を中心にこのソ連との同盟(=日本がソ連の属国となること)を模索する終戦工作が開始された。(中川八洋「近衛文麿の戦争責任」)
石原莞爾は、東條英機を侮辱することに異常な情熱を燃やした人物だったことは言うまでもありませんが、同時に、皇道派の荒木にも真崎にも言いがかりに等しい理由で喧嘩を売っていい気になっていたヤンチャ坊主でもありました。
そして、「結果的にクーデター効果を持った」満州事変によって、下剋上風潮が蔓延し、北一輝のような国家社会主義者に感化された青年将校たちによって226事件が引き起こされ、当の石原はそれを弾圧し皇道派にとどめをさす役割を果たすのですから……どうにもマッチポンプというか、荒木や真崎にしてみれば、踏んだり蹴ったりといったところではなかったでしょうか?
なお、226事件の時、厳正な対処を行い、評価された人物には、石原のほかに、東條英機がいました。
東條自身が「陛下の忠犬」であり、対米開戦回避のために尽力し、大東亜会議を主催し、東京裁判で立派な弁明をしたことは間違いなく評価に値します。
大東亜戦争に「開戦責任」などというものがもしあるとしても、それは東條内閣ではなく近衛内閣が負うべきものでしょう。
が、東條たちに、近衛たち国賊の企てを察知することも食い止めることもできなかったことも、残念ながら、また事実であると言わなければならないように思います。
そこには統制派の「支那一撃論」のほかに、「統制」という路線そのものの誤謬が、大きな要因として内在していたのではないでしょうか。
このころから永田の下には、東條英機、武藤章、冨永恭次、下山琢磨、影佐禎昭、池田純久、四方諒二らが集まり、池田純久は幹事としてこのメンバーを集めたびたび研究会を開き、戦後になって彼らこそがオリジナルの統制派であると語った。池田純久は戦後になって、皇道派の失脚と統制派の躍進を招いた226事件こそ、コミンテルンのスパイに好都合な政治状況の下準備をしたという意味で、こちらのシリーズでも言われていたように「ポイント・オブ・ノーリターン」だったのかもしれません。
「一君万民の社会主義天皇制を念願したことは、意識すると否とに拘らず明白な事実である。国家経済は統制経済を採用し、農魚山村経済に力を注ぎ、その疲弊を救う」(『別冊知性』昭和三一年一二月号 河出書房)
と語っており、統制経済とは天皇制を形だけ残すものの、社会主義体制を樹立する試みであることを明らかにした。別宮暖朗「帝国陸軍の栄光と転落 (文春新書)」
私としてはそこまで決めつける自信はありませんが、「告発 コミンテルンの戦争責任 近衛上奏文と皇道派
みんなで学ぼう日本の軍閥
帝国陸軍の栄光と転落 (文春新書)
近衛文麿の戦争責任
告発 コミンテルンの戦争責任 近衛上奏文と皇道派