2016年06月13日

「髫齓の天皇」


髫齓の天皇は古には未だ有らず
扆を負ふて立つは是れ元舅
父は王鳳の如く子は霍光
十指三たび結ぶ神璽の綬
当時誰か解せむ明主の問
太政大臣職有りや否やと
続日本紀を読むと、平安時代から逆算して、奈良時代までを「藤原氏の時代」であるように見るのは錯覚であると思えてきます。
藤原鎌足は天智天皇を補佐した功臣ですが、つまるところ壬申の乱では敗者の側です。
若年だった不比等は生き伸びて文武天皇に宮子を、聖武天皇に光明子を入内させ、立后に成功し、子供たちは位人臣をきわめ、確かに「藤原氏の時代」を築いたかに見えますが……二代の中継ぎによって誕生あそばされた「待望」の聖武天皇の御代が、「藤原氏の時代」どころか、四子の死後は橘諸兄・吉備真備・玄昉らによる仏教暗黒政治の時代となることは、こちらこちらをはじめ、縷々見てきた通りです。
聖武天皇の御代を牛耳った橘諸兄たちは、その後の後継争いにおいて、光明皇后や藤原仲麻呂といった藤原氏勢力と対立したグループですし、この時代で最も目立つ藤原氏の事件といえば、藤原広嗣の敗死でさえあります。
光明皇后と藤原仲麻呂によって、淳仁天皇が即位、ようやく「藤原氏の時代」が再来したのも束の間、その「時代」を破壊したのは、よりにもよって光明皇后の娘であり仲麻呂のいとこである(藤原氏の血をひく)孝謙上皇でした。その後、皇統最大の危機・道鏡事件を招来するに至った、称徳天皇の御乱行は言うまでもないでしょう。
道鏡の没落によって、光仁天皇の御代には藤原永手が台頭しますが、皇紀1431年(宝亀2)には早くも没してしまいます。その後、藤原氏からは、百川や種継が重用されていくことは確かですが……
桓武天皇の御代に重用された第一等の人物と言えば、何といっても、道鏡事件のもう一人の功労者・和気清麻呂ですし、軍事においては坂上田村麻呂が有名。どちらも藤原ではありませんし、そもそも桓武天皇御自身、生母は有名な高野新笠。この時代、藤原氏は外戚ではないのです。

藤原鎌足、藤原不比等、藤原四子、光明皇后、藤原仲麻呂、と、確かに藤原氏はいろいろと活躍してはいますが、奈良時代においては、まだまだ盤石の地位というほどでもなく、藤原氏の「時代」とか「天下」というよりは、むしろ「受難」の「時代」だったようにも見えなくはありません。
そもそも奈良時代に一時的に政権を奪還した仲麻呂は藤原は藤原でも南家であって、後の摂関家≒北家とは違います。

もちろん、そうした長い前史を経て、平安時代には、やがて文字通りの「藤原氏の時代」が到来することは間違いないでしょう。
では、その画期となったのは、いつのころか、といえば、藤原冬嗣、良房、基経、三代にわたる北家の台頭に注目せざるをえないように思います。

藤原良房が、臣下の身で初の摂政となり、第五十六代清和天皇の外祖父となったことは、天皇の知ろしめされるわが国の歴史上、画期的な事件でした。
何となれば、清和天皇(惟仁親王)の立太子は生後僅か8カ月、御即位は若干9歳であらせられたのです。
これが冒頭に掲げた頼山陽の漢詩に詠われている、日本史上初の「髫齓の天皇」≒「幼帝」の誕生でした(「髫齓」とは幼少時の髪型)。

これ以前は、日本史上、幼帝の前例は皆無です。
唯一、応神天皇を挙げることも無理をすればできなくはないかもしれませんが、「胎中天皇」というのはレトリックにすぎないでしょう(神功皇后はかつては天皇に数えられていました)。
文武天皇聖武天皇が女帝による「中継ぎ」を必要とされたのは、まさしく御幼少でいらっしゃったためです。
幼児を天皇に戴く、幼児に天皇の重責を担わせる、などということができるわけがない、という、至極当たり前といえば当たり前の観念が、平安時代以前には支配的だったと見てよいのではないでしょうか。

その「伝統」を覆したものこそ、「髫齓の天皇」≒清和天皇の御即位であり、これ以降、幼帝の即位は珍しくなくなっていきます。
それは、天皇が御幼少であるのをいいことに顕官が権勢をほしいままにするという弊害をもたらすことにもなったと同時に、また、天皇が御幼少であらせられても支障がないほどに国政のシステムが整備され、臣下が輔弼の任を全うした、とも言えるのではないでしょうか。
藤原氏は、たしかに、調子に乗りすぎた面もあるにはありますが……
同時に、しばしば指摘されるように、かつての道教のように「簒奪」を企てたことは一度もありません。天児屋根命の末裔を以て任じ、天皇の権威によって立つことで権力を握った藤原氏にとって、天皇・皇室にとってかわるなどということは、自己の存立基盤を破壊することにしかなりません。
それは、元は皇族であった、平氏や源氏にとっても、同じことです。かの織田信長でさえ、「尊皇家」たらざあるをえなかったことは、こちらでも見た通りです。

いわゆる天皇の「権威」と世俗の「権力」の分業が、天皇を世俗の権力から遠ざけ「疎外」すると同時に、天皇をして世俗の権力を「超越」せしめ、権力闘争の危険から保護する結果にもなったことは、見落とすべからざる日本史上の特徴でしょう。
「天皇機関説」「天皇無答責」は、明治憲法を待つまでもなく、事実において確立されていたのであり、むしろ明治憲法はそれを史実の中から発見したのだと言うこともできるのかもしれません。

してみると……冒頭で漢詩をかかげた頼山陽は、「髫齓の天皇」の誕生を悲憤慷慨して、「日本政記」においてはその原因となった仁明天皇を「批難」さえしているのですが、
論者以為、王室の衰ふるは、文徳、幼主を以て嗣となすに由ると。余は即ち曰く、仁明の、私を継嗣の際に用ふるに由るのみと。文徳の時に至りては、即ち藤原氏の勢、已に成る。然らずんば、文徳、何を以てか、敢て愛する所の長子を立てずして、生れて甫めて九月の嬰児を立てんや。
この解釈は一面的であると言うべきかもしれません。
頼山陽は、上の引用に見る通り、天皇の政治権力からの隔離を以て「王室の衰」えととらえています。「日本政記」を通読すると、彼の天皇観・皇室観が、天皇に「政治的権力者」たることを要請する性格が強いものであることがわかりますが……
こちらなどをはじめとして、縷々考察してきたように、天皇統治の本質について深く考えれば考えるほど、そうした政治的天皇観は、少々危険なものでもあるように思えます。

建武親政、承久の変、明治維新などの例をあげるまでもなく、歴史の要所要所で「政治的権力者」に接近した役割を果たされた天皇はしばしばおわしましたが、それらはすべて危機の時代であって、「平時」ではありません。
畏れ多くも天皇陛下に「政治的権力者」としての役割を果たしていただかなければならない、というのは、非常事態以外の何物でもなく、それが常態であってはならないのではないでしょうか。
もっとも、裏を返せば、日本にあっては、「権威」と「権力」が分離されているといっても、その「権力」が道を誤ろうとしたときには、再びその「権威」がその道を正してくださる、という歴史をくりかえしてきた、とも言えるわけで……
平時は臣下に政治をお任せになり、非常時は御親ら政治の表舞台にお立ちになることもお厭いにならない、それが「天皇」という御存在なのかもしれません。
「権威」と「権力」は単に「分離」されているだけではなく、君臣相補う両輪として日本の歴史を形作ってきたのではないでしょうか。

時間は経過します。
「髫齓の天皇」は、いつまでも「髫齓」のままであらせられるわけではないのです。
幕末に若干15歳(満14歳)で践祚された明治天皇の、やがて大帝と讃えられるに至らせられる「御成長」を思うに、それは明らかでしょう。

頼山陽は、一般的には、まさにその幕末の志士に多大な影響を与えた「尊皇」の思想家であるかのように考えられがちです。が、彼の理想とする天皇像のあまりに政治的であることを思うに………後に明治の元勲たちが到達した君臣一如の「総攬」「輔弼」の認識にまでは、山陽自身は達していなかったような気もします。
とすれば、頼山陽に影響された「臣下」たちも、「天皇」と共に成長し、山陽を越えていった、と言うべきなのかもしれません。

日本史上初の幼帝・清和天皇の誕生と、藤原氏の役割も、単に「王室の衰」というだけではなく、功罪両面からとらえる必要があるように思います。
(「髫齓の天皇」を生んだ良房の養子・基経は、(藤原氏の血を引いていない)宇多天皇の擁立に功があり、それがやがて醍醐天皇のいわゆる「延喜の治」に結実するのだ、と、言って言えないこともありません。もっとも、宇多天皇即位後にいきなり阿衡事件を起こしたのも基経なら、この本によれば、その息子の時平は「延喜の治」の功績を菅原道真から「横取り」したということにもなるようですが。いずれ「王室の衰え」の一言で単純化できるものでもないでしょう)
歴代天皇で読む 日本の正史
渡部昇一の古代史入門 頼山陽「日本楽府」を読む (PHP文庫)
日本思想大系〈49〉頼山陽 (1977年)
ラベル:天皇 平安時代
posted by 蘇芳 at 01:44| 平安時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする