2016年06月11日

【読書】平田耿二「消された政治家・菅原道真」


菅原道真 (人物叢書)」の著者・坂本太郎はある出版社のパーティで渡部昇一に「君はいい。中国、韓国に卑屈でない。このごろはみんなダメだ」と言ったという立派な人だそうで(「皇室はなぜ尊いのか (PHP文庫)」)、前掲書も文人・学者としての道真の評伝としてはスタンダードな良書だと思います。
しかし、それでは文人・学者としての道真しか見えてこない。スタンダードな古典的名著にしてそうだということは、一般通念としての道真像というのも、文人・学者としてのそれ以上のものではない、ということになりそうです。
しかし、要するに作文が上手で物知りなだけの青瓢箪を納言だ大臣だという顕職につけて、それで「政府」というものは立ち行くものなのでしょうか? 平安時代は確かに文運が隆盛した文治主義の時代ではありますが、蝶よ花よと雅に遊びほうけているだけで国家が運営できるというものでもないでしょう。
文章博士としてではなく、若き日には讃岐守として、帰京後は参議として、権大納言として右大将として、ついには右大臣としての道真は、いったい何をした人なのか?
ということで書名に惹かれて読んでみたのが、本書。
消された政治家・菅原道真 (文春新書)
消された政治家菅原道真 [ 平田耿二 ]
結論から言うと、後に「延喜の治」として理想化される国政改革の立役者こそ菅原道真その人であり、藤原時平たちは道真を追い落とし、その痕跡を抹消することで、その功績を横取りしたのだ、というのが、本書の主張のようです。

日本は大陸から律令制度を輸入して統治機構を整備したということがむやみやたらに強調されていますが、その後、律令制がいつどのように崩壊し、日本独自の統治機構に転化していったかということは、はっきりしません。
が、本書によれば、それこそはまさに道真の功績だということにもなるようです。

律令制下における国家の収入源(税金)というのは、「人頭税」が主だったようです。
早くも天智天皇の御代に庚午年籍が整備されたことも、その必要に応じてのものでしょう。
しかし、全国民の戸籍を整備するというのはなかなかの難事業です(現代においてさえ、日本レベルで戸籍を完備している国というのは少数派ではないでしょうか)。
徴税逃れのために偽籍化が進行すれば、まともな課税が不可能になり、国家財政は破綻します。
実際、宇多天皇の御代には、女子10人に対して男子1人、など偽籍化が進行し、納税義務を負う正丁人口は把握困難になっていたと言います。
道真が行おうとした(行った)国政改革は、国庫財源の「人頭税」から「地税」への転換を主眼とするものだったようで、それは「律令国家」の根本的再編成を意味するドラスティックなものだったと言います。
(「検地」さえ一度徹底して行っておけば、土地は逃げませんし、世代交代もしませんから、「課税対象」として人口動態よりはるかに安定しています)

一般に「左遷」と見なされてきた、讃岐守への任命も、道真の漢詩に記された大仰な慨嘆は詩人としての「内面」「表現」にすぎず、客観的な状況から見れば、むしろ大きな期待を寄せられ、特命を帯びて派遣された「大任」だった、と、本書は言います。
偽籍化の進行によって律令体制の破綻が特に著しかった讃岐国に、道真を派遣し、現状を調査させ、対策を建議させる、というのがその人事の眼目であり、実際に、後の道真の「改革」はこのときの経験に多くを負っているとか。

要するに、道真は文人であり「学者」であると言いますが、その「学者」というのは、ただの文弱の慰みではない。天下国家を論じ、実践しようとする、実学だった、ようで。
道真率いる私塾「菅家廊下」は、譬えて言うなら、幕末の「松下村塾」のようなものだったのかもしれません。
(道真門下の出身者が、当時の官僚の半ばを占めており、道真の配流に彼らを連坐させると、国政がマヒするうえに恨みを買いすぎる、という理由でそれが実施されなかったことは坂本著「菅原道真 (人物叢書)」にも明記されていたことではあります)
裏を返せば、当代一流の文人であり学者であり、そのうえ希代の大政治家でさえあった菅原道真とその門下生が、一大派閥を形成し、救国の大改革を計画し実行し成功させてしまった日には、藤原氏の立つ瀬がありません。
そこで、道真の改革に大筋においてメドが立ったころを見計らって、時平たちが企てた謀略こそが世に言う昌泰の変であり、道真を追い落とした後、時平たちは公式記録から道真の功績に関する記録の一切を抹消、それをあたかも自分たちの功績であるかのように実行したのだ……と、本書は主張します。

なるほど。記録が抹消されたとすれば、政治家としての道真の功績がろくに伝わっていないことも納得がいきます。
しかし、いかんせん、記録が抹消されているというのですから、道真の功績を復元するためには、かなり専門的かつ煩雑な史料操作が必要になるようで、本書の主張が「定説」として人口に膾炙するには、まだ時間がかかりそうな気がしないこともありません。

しかしながら、本書の主張が大筋において事実であると仮定してみれば、これまで一般に流通してきた道真の伝記を読んだときに感じる違和感の多くが氷解しうることも、また、事実であるように思います。

道真の政治的「功績」として、唯一といっていいほどよく知られているのは、こちらでも軽く触れた遣唐使廃止ですが。
道真が大陸輸入の律令制度を、日本の事情に合わせて根本的に変革した人物だったとすれば、旧態依然の唐の制度に今さら多くを学ぶ必要がない、という判断にも、明快に筋が通ります。

醍醐天皇の御代には「古今和歌集」が成り、文運が隆盛し、いわゆる王朝文化が花開くことは冒頭でも触れた通りですが、王朝貴族たちが蝶よ花よと遊びほうけていられた理由も、道真の改革によって税収の確保が可能になったとすれば、経済的根拠からも理解することが可能になります。

そして何より、道真が神として祀られたこと、すなわち、それほどに恐れられたことも、道真こそが救国の英雄とも言うべき大政治家・大改革者だったとすれば、よりよく理解することが可能になるのではないでしょうか。
時平たちが、国家に対するそれほどの功労者を、単に死に追いやるばかりか、その功績・その名誉をさえ抹殺し、横領さえしたのだとすれば、その「罪」の深さゆえに、打ち続く災厄に「祟り」を感じるのも、けだし当然というべきでしょう。

さらに言うなら、(これは、まあ、私が無知だっただけかもしれませんが)、醍醐天皇の御代が、後世に「延喜の治」として理想化される理由も、単に討幕の「ためにする」付会ではなく、平安朝数百年の繁栄を約束した大改革という内実が伴うものだったのだ、ということも、本書を通して理解することができそうです(延喜の治の内実を一般向けに解説した本というのは、どれくらいあるのでしょうね? 閨閥以外の面から王朝政治を描いた簡便な新書というのはわりと貴重かもしれません。ええ、まあ、不勉強のいいわけですが💦)

本書の主張がどこまで正鵠を射ているのかは、読者諸賢の判断にゆだねる、というところですが、一定以上の説得力を感じさせる論ではありました。
それだけに、本書のはしばしに見え隠れする、読者を愚民扱いするエリート主義や、道真の改革を「歴史の発展段階」の図式に無理やり当てはめようとする不毛な左翼傾向は、もったいないかぎりでした。

本書に言わせると、律令時代の「人民」は、「農業共同体の成員として国家や親族共同体に支えられてい」たために「一見自由民にみえる」にもかかわらず、「人格を国家に所有され、労働力を一方的に収奪される奴隷的存在」であり、古代日本には「国家的奴隷制」があったニダ、ということになるそうです。
一見して「自由民」に見えるというほどに「国家」に「支えられ」ている存在が、同じ「国家」に「一方的」に「収奪」されるだけの「奴隷」にすぎないというのは、ダブルスタンダードを駆使したトートロジーにすぎないのではないでしょうか。
自由意志で就職したり、親に売られたりして、高級を稼いで余暇を楽しみ客を拒否する権利もあった売春婦が、性奴隷ニダ、というのと同レベルの悪意あるレトリックを感じます。
消された政治家・菅原道真 (文春新書)
菅原道真 (人物叢書)
皇室はなぜ尊いのか (PHP文庫)
ラベル:平安時代 読書
posted by 蘇芳 at 01:29| 平安時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする