2016年05月19日

第四十九代光仁天皇


「続日本紀」巻第三十一冒頭には、
葛城寺の前なるや 豊浦寺の西なるや おしとど としとど
白璧しずくや 好き璧しずくや おしとど としとど
然すれば 国ぞ昌ゆるや 吾家らぞ昌ゆるや おしとど としとど
という落首が収録されています。
「白璧」は白壁王、「井」は妃・井上内親王。
白壁王の即位を予想し、諷したもの、と、「続紀」には解されています。
しかし、「諷」されているのは白壁王だけでしょうか?
落首・落書の類は、暗い時代に流行するものです。
太師(藤原仲麻呂)が誅されてからは、道鏡が権力をほしいままにし、軽々しく力役を徴発し、努めて伽藍を修繕させたりした。このため公私ともに疲弊し、国の費用は不足した。政治と刑罰は日増しに厳しくなり、殺戮がみだりに行われるようになった。それで後日この時代について言う者は、無実の罪がたいそう多かったと言った。(宇治谷孟訳、以下同じ)
と「続紀」が総括する道鏡の悪逆に、民も倦んでいたのでしょう。
とすれば、上の童謡(わざうた)の流行は、斜に構えた揶揄の裏側で、むしろ新しい御代を密かに「待望」するものでもあったのではないでしょうか。また、そうであればこそ、光仁天皇の御代の初めに、この童謡が掲げられもしたのではないでしょうか。

やがて、皇紀1430年(神護景雲4、後に改元して宝亀元年)八月四日、称徳天皇崩御。即日、白壁王(光仁天皇)の立太子が布告され、十月一日、めでたく即位あそばされます。第四十九代光仁天皇と申し上げます。

光仁天皇の第一の御治績は、何よりもまず、道鏡時代の悪政の清算でした。

こちらで述べたように、正式に即位される以前の皇太子時代から、すでに、道鏡、習宜阿曾麻呂、弓削浄人とその子ら、など、逆賊の一党を次々に配流され、九月には和気清麻呂・広虫の姉弟を呼び戻しておいでになります。
翌皇紀1431年(宝亀2)には、
三月二十九日 和気公清麻呂を本位の従五位下に復した。
ともあります。

その他にも、

七月十一日には、
守部王(舎人親王の子)の子、笠王・何鹿王・為奈王、
三原王(舎人親王の子)の子、山口王・長津王、
船王(舎人親王の子)の子の葦田王、孫の他田王・津守王・豊浦王・宮子王、
三嶋王(舎人親王の子)の子、河辺女王・葛女王、
など、配流されていた皇族(この場合は舎人親王の子孫。淳仁天皇の廃位に連坐されたものでしょうか)がすべて許され、皇籍に復帰していますし、
九月十三日には、
和気王(舎人親王の孫)の子、大伴王・長岡王・名草王・山階王・采女王、
が皇籍復帰。
三嶋王(舎人親王の子)の子、林王、
三使王(舎人親王の子)の子、三直王・庸取王・三宅王・畝傍女王・石部女王、
や、上で一旦皇籍復帰した守部王(舎人親王の子)の子、笠王・何鹿王・猪名王(為奈王?)には、改めて「山辺真人」の氏姓を賜っています。同じ臣籍降下でも懲罰的な意味のないもの、ということでしょうか。

また、こちらでふれた不破内親王の「冤罪」についても、
八月八日 外従五位下の丹比宿禰乙女の位記(叙位の辞令)を破毀した。初め乙女は忍坂女王と県犬養姉女らが天皇を呪いで呪い殺そうとしたとの偽りの告訴をした。ところがここに至って、県犬養姉女らの罪が晴れたので、乙女の位記を破毀したのである。
と記されたのをかわぎりに、
九月十八日、犬部内麻呂・姉女らが本姓の「県犬養宿禰」に復され、
翌皇紀1432年(宝亀3)、
十一月三十日には連坐していた「安倍朝臣弥夫人」が許され、
十二月十二日には、
厨真人厨女(不破内親王)の属籍を復した(内親王に戻した)
とあります。

その他にも、皇紀1432年(宝亀3)には、
正月三日、粟田深見を本位の従四位下に復し、
二月二十二日、掃守王の子・小月王の罪を許し、諸王としての籍に復し、
四月十二日、藤原刷雄(仲麻呂の第六子)を本位の従五位下に復し、
などなど、とにかく、元の身分に「復す」という処置がたてつづけに行われており、瞥見しただけではとてもすべては挙げきれないほどです。

何より、八月十八日には、悲運の帝・淳仁天皇の「改葬」が行われ、皇紀1438年(宝亀9)三月二十三日には、
淡路親王(淳仁天皇)の墓を「山稜」と称し、その亡き母の当麻氏の墓を「御墓」と称するようにせよ。また近くの人民一戸をあててこれを警備させよ。
との詔が渙発され、淳仁天皇の御陵もようやく「天皇陵」として本来あるべき扱いを受けるようになっています。
こちらで考察したように、もしも、奈良時代の政争の背景に「聖武系vs舎人系」という皇族間の路線対立があり、他の皇族もそこに巻き込まれていったのだとすれば、舎人親王の子孫が次々に皇籍に復帰されたことをはじめ、道鏡に対立した人々の「復権」は、まことに印象的です。

もっとも、先の記事では、同時に、皇族間の対立に、藤原氏の主導権争いが絡んでいた可能性にも言及しましたが、
秋七月二日 恵美刷雄(仲麻呂の第六子)ら二十一人を本姓の「藤原朝臣」に復した。
という記述などは、舎人親王の子孫を擁立した藤原南家は、特別な地位を失ったと見ることができるかもしれません。
「聖武系vs舎人系」といっても、それはどちらも「天武系」の皇族でした。
それに対して、光仁天皇は「天智系」ですし、その擁立に功績があった藤原永手は北家、永手の没後に重用された百川は式家だったのですから、南家の「恵美姓」の撤廃は、よくわかる話ではあります。

いずれにせよ、これらいくつかの人事を見るだけでも、光仁天皇の「施政方針」はかなりの程度まで推察申し上げることができそうですし、また、それ以外の施政についても、税制等、かつて行われた「改革」が不都合なので元の制に戻した、という記述が何度か出てくるようです。

いずれにせよ、即位にあたって、
朕は、この天つ日嗣の高御座の業は、天に坐す神地に坐す神が共に承諾し、共にお扶けになることによって、この天皇の地位には平らかに安らかに坐して、天下を治めることができるものであるらしいと思っている。
と詔され、「三宝」を天神地祇より優先するような錯誤をおかされなかった光仁天皇が、皇室の伝統・国体の本義から鑑みて、よほど「まっとう」な天皇であらせられたことは、間違いないように思います。
ちなみに、この詔の末尾では、光仁天皇は、
大神宮をはじめとする諸社の禰宜たちに位一階を与える。また僧綱をはじめとして諸寺の師位の僧尼たちに天皇の身の回りの品を布施する。
とも仰せになっていますが、神官に対する「位一階」つまり「昇進」という措置は収入そのものの「ベースアップ」に結びつきそうなのに対して、僧侶に対する「天皇の身の回りの品を布施」するという措置にはそれほどの継続性がないもののようにも思われます。
先帝の異常な大嘗祭と比べれば、何という様がわりでしょうか。
もちろん、「天皇」が本来どのようにあらせられるべきかは、こちらをはじめ、くりかえし考察してきたとおりです。

日本の正史は、「日本書紀」の昔から、乙巳の変にせよ、壬申の乱にせよ、「崇仏派」に対する勝利の後には、神事の記述が増える傾向があるようです。
「続日本紀」もその点は同様で、光仁天皇の御代も、もちろん今さら仏教を弾圧されたわけでもなく、仏事の記述も多いのですが、その一方で、大祓、伊勢神宮、広瀬・龍田の両社などへの言及が、道鏡時代に比べれば飛躍的に増えているようにも思います。わけても、丹生川上神社(創建は神武天皇の故事にさかのぼります)の名は特に頻々と登場するようです。

光仁天皇は、皇紀1441年(天応元年)十二月二十三日に崩御され、その御在位は十一年しかありませんでした。その「知名度」も、皇子であらせられた桓武天皇に及ばない憾みがなしとしません。
しかし、こうして光仁天皇の「施政方針」を管見すると、南都仏教との決別を期して平安遷都を成し遂げられた第五十代桓武天皇の御治績は、父帝の大御心を継承されてこそありえたものと見ることもできるのではないでしょうか。
とすれば、光仁天皇こそは、悪僧どもの跳梁のため乱れに乱れた国柄の回復、いわば「世直し」の先鞭をお付けあそばされた、偉大な帝であらせられた、と、まずは申し上げるべきなのかもしれません。

もっとも、聖武・孝謙・淳仁・称徳、四代にわたる御代の「後遺症」はなおまた深刻なものがあったのでしょうか。光仁天皇・桓武天皇の御代にも、井上内親王や不破内親王(孝謙・称徳天皇の姉妹)、そして有名な早良親王など、暗い事件はさらに続くのですが……それはまた項をあらためて。


歴代天皇で読む 日本の正史
続日本紀(下) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
ラベル:天皇 続日本紀
posted by 蘇芳 at 02:30| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする