2016年05月15日

不破内親王


橘奈良麻呂の乱に連座して臣籍降下し、恵美押勝の乱で擁立され、仲麻呂共々非業の最期を遂げた塩焼王(氷上塩焼)。
その妻は不破内親王
聖武天皇の皇女であり、孝謙・称徳天皇の異母姉妹でした。

皇紀1429年(神護景雲3)五月二十五日、称徳天皇は次のように詔されています。
不破内親王は、先の朝廷(淳仁朝)の時代に勅があって、親王の名を削られた(夫の塩焼王が仲麻呂の乱にくみして斬られたためであろう)。しかるに悪事を慎むことをやめず、重ねて不敬を行った(下文)。その犯したところを検討すると、罪は八虐に相当する。しかし朕は思うところがあるため、特にその罪を許すこととする。そこで厨真人厨女の姓名を与え、平城京中には住まわせないことにする。また氷上志計志麻呂はその父の塩焼王を朝廷が見捨てた日に、父と共に処分に従わせるべきであった。しかし母の不破が朕と異母姉妹であったことにより連坐させなかった。ところが今またその母の悪行がますます明らかになってきたので、志計志麻呂を遠流に処し、土佐国に配流する。(宇治谷孟訳、以下同じ)
嫌疑の内容は、県犬養姉女、忍坂女王、石田女王と共謀して、称徳天皇を呪詛、氷上志計志麻呂を皇位につけることを謀った、というものです。
実際に何らかの策謀があったのか無かったのかは不明です。
呪詛などという曖昧な話は、冤罪の口実としていくらでも作為できるでしょう。と同時に、呪詛の現実的な効力が信じられていたとしてもおかしくはない時代でしたし、また、呪詛云々に関係なく女帝を排除する陰謀が計画されても不思議はありません。
道鏡の悪政はもちろん、度重なる殺戮は皇族間に不和の種をまいてもいたでしょう(忍坂女王、石田女王は、塩焼王の姉妹)。
また、こちらでも書いた通り、女帝の「人望」も、心もとないものでした。
県犬養姉女も、藤原仲麻呂や和気王と同様、元は女帝に重用された人物だったようです。
上の詔につづいて、五月二十九日には、
朕は犬部姉女(もとは県犬養宿禰姉女)を身近に仕える者としてとりたて、冠位を上げ、もとの姓を改めて、よく取りはからってやった。それなのにかえって反逆の心を抱き、自ら首領となって忍坂女王・石田女王たちを率い、口に出すのも恐れ多い先の朝廷が、過ちのためにお棄てになった厨真人厨女のもとに密かに通い、きたない心をもった悪い奴どもと手を結び、謀略を企てた。
と詔されています。
これが道鏡と女帝の仕組んだ冤罪ではなく、実際に謀反の謀議があったのだとしたら、女帝は、またしても、「初めは良かった」相手に背かれておいでになることになります。
どうしてそうなった、かといえば、道鏡べったりの女帝の御代に、いろいろと問題があったとも言えるのではないでしょうか。

もっとも、光仁天皇に御代になると、皇紀1431年(宝亀2)、
八月八日 外従五位下の丹比宿禰乙女の位記(叙位の辞令)を破毀した。初め乙女は忍坂女王と県犬養姉女らが天皇を呪いで呪い殺そうとしたとの偽りの告訴をした。ところがここに至って、県犬養姉女らの罪が晴れたので、乙女の位記を破毀したのである。
と「続日本紀」にあるように、この呪詛事件は、冤罪であるとされていますから、「女帝が「初めは良かった」相手に背かれた」というよりは、「女帝が「初めは良かった」相手を罪せられた」というべきかもしれません。
まあ、当時の情勢からすれば、どちらが真実かは、正直、わかりかねますが……
いずれにせよ、「続日本紀」皇紀1431年(宝亀2)二月二十二日の条には、
廃帝(淳仁天皇)が退けられてから、天皇の身内で人望のある人々の多くは無実の罪をかぶせられ、日嗣の位はついに絶えそうになった。
と、道鏡の悪逆が明記され、道鏡時代に行われた刑罰や、改悪された法・制度が、光仁天皇の下で旧に復され、道鏡時代の悪弊のキャンセルがたてつづけに行われていることは事実です。
船親王の子をはじめとする、舎人親王の孫たちや、和気王の子供たち(舎人親王の曾孫)も次々に配流先から呼び戻され皇籍に復帰していますし、和気清麻呂の復位も光仁天皇の御代に果たされたことは有名でしょう。
皇紀1432年(宝亀3)十二月には、
厨真人厨女(不破内親王)の属籍を復した(内親王に戻した)
と、不破内親王も赦免されておいでになります。

長屋王の変とその直後の、聖武天皇の謎の詔、
舎人親王が朝堂に参入する時、諸司の官人は親王のため座席をおりて、敬意を表するに及ばない(理由不明)
に端を発する奈良時代の異常事態は、宇佐八幡宮神託事件を経て、舎人親王の子孫の復位をもって、解決した、と言えるのかもしれません。
ちなみに、長屋王の嫌疑も、上の呪詛事件と同様、後に冤罪であったことが「続日本紀」自身によって認定されていますし、和気清麻呂も元は女帝にとっての「初めは良かった」臣下でした。
聖武・孝謙・称徳天皇の御代の暗い事件の数々は、ある種の相似形をなしています。
事件の根本的原因に共通するものがあった、ということではないでしょうか?
それが何かといえば、やはり、「仏教」としか言いようがないように思います。

仏教それ自体の是非は置いておくとしても、それが外来の、日本の国柄からは異質な思想であることは否定のしようもない事実かと思います。
そのような異質な新興宗教を、日本古来の信仰の頂点にお立ちあそばされるべき天皇御自らが信仰され、性急に布教を進めようとなされば、仏教自体の是非以前に、抵抗が生じることは、むしろ当然でしょう。
まして、悪僧どもが政権中枢に招き入れられ、野心の赴くまま、悪政をほしいままにし、国庫の欠乏、国民の疲弊を招いたのであれば、なおさらです。
義によって起つ者もあらわれるでしょう、非業の最期を遂げた者たちの後裔は、怨恨を抱きもするでしょう。
聖武・孝謙・称徳天皇の御代の危機は、大きな教訓を残したと言えそうですし、また、それほどの国柄の混乱でさえ、結局のところ、「天皇」=光仁天皇のお力によって、食い止めることができた、という、その事実には、わが国体の精華といっていいものがあるようにも思えます。天皇弥栄。

……と、ここで終わっておけばきれいにまとまるのですが。

光仁天皇の御代においてさえ、孝謙・称徳天皇のもう御一方の姉妹、井上内親王の悲劇はつづきますし、また、不破内親王にもまたしても不幸な災厄がふりかかります。
光仁天皇と桓武天皇が、奈良時代の仏教政治の後始末をつけてくださったことはまぎれもない事実であり、大帝とお呼び申し上げるにやぶさかではありませんが、その二大天皇をして、なお、完全に穏便には終息しかねるほどに、聖武・孝謙・称徳天皇の御代の爪痕は大きかったとも言わざるをえないのかもしれません。
歴代天皇で読む 日本の正史
続日本紀(中) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
続日本紀(下) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
posted by 蘇芳 at 01:40| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする