2016年05月14日

舎人親王の孫


いやしくも天皇であらせられた方に対したてまつって不敬なことは申し上げたくないのですが……
こちらでもこちらでも述べたように、大切なのは御歴代が継承され体現せられている「天皇なるもの」の本質であって、個々の天皇にはいろいろな方がいらっしゃいます。中には過ちをおかされた方もいらっしゃらなかったとは言えないでしょう。
そうした「試行錯誤」をくりかえしながら天皇としてのあり方を「求めて」こられ、現に求め続けておいでになるのが、今上はじめ御歴代の天皇の歩みというものかと思います。
その意味で、あえて言うなら、孝謙・称徳天皇こそは「錯誤」の代表例、皇統最大の「反面教師」であらせられたのではないかと思います。

仏教や道鏡のことはとりあえず脇に置いておくとしても……
不敬なことは言いたくありませんが、孝謙・称徳天皇は、「続日本紀」を読んでいると、あまり「人望」がおありの天皇であらせられたようには、残念ながら思えないところが見えてきます。

藤原仲麻呂は女帝とは母方のいとこにあたり、元は孝謙天皇の御代の重臣でした。
それがあれこれあって反乱します。
仲麻呂と謀議したと言われている池田親王が、乱の前年に、奈良麻呂の変に連座した子どもたちについて、女帝に氏姓を賜るお許しを得ていることも、こちらで見た通りです。
仲麻呂が実際に擁立した塩焼王も、奈良麻呂の変の関与を疑われながら、死は免れている人物です。臣籍降下の「処分」は受けましたが、女帝の側から見れば、命は「助けてやった」相手とも言えなくはありません。
道祖王も淳仁天皇も元は孝謙天皇の皇太子でした。それが共に女帝の御代に悲惨な末路をたどられています。

一時は関係が良かった臣下や皇族と、またたくまに関係を悪化され、排除されるということを、女帝はくりかえしておいでになります。これほど臣下に背かれやすくていらっしゃった天皇というのも、珍しいのではないでしょうか。

皇紀1425年(天平神護元年)に誅殺された和気王も、元は女帝に尽くしたはずだった一人でした。
同年八月一日には、
今、和気に勅していうに、先に橘奈良麻呂らの謀反のことが起きていた時には、仲麻呂は忠臣として仕えていた。しかしその後に反逆の心を起こして、朝廷を揺がし傾けようとし、武器を整えていた時に、和気はそのことを上申してきた。これによって和気の官位を昇進させた(宇治谷孟訳)
と詔されているように、和気王は、仲麻呂の乱においては、女帝の側に立った人物でした。
謀反の密告だけではなく、その後の、淳仁天皇の廃位に際しては、
十月九日 高野天皇は兵部卿の和気王・左兵衛督の山村王・外衛大将の百済王敬福らを遣わし、兵士数百人を率いて、淳仁天皇の中宮院を取り囲ませた。
という務めを果たした人物でもありました。
ちなみに山村王は日本で最初に仏教に「改宗」された天皇である用明天皇の末裔、百済王敬福はこちらでも触れた半島系帰化人で元陸奥守、大仏のために黄金を献上した人物です(二人とも、「仏弟子」孝謙天皇の手のものとしては、なるほどという顔ぶれではあります)。
この二人と行動を共にしてまで、二度にわたって女帝に忠節を尽くしたはずの和気王でしたが……
上の八月一日の詔の続きを見ると、
このように初めは良かったが、仲麻呂も和気も後にはやはり反逆の心を抱いた。また、和気が先祖の霊に祈願した文書を見ると、述べているのに「自分の心に思い求めていることを成し遂げたならば、尊いみ霊(先祖)の子孫で、遠方に流されている方たち(船王・池田王らを指す。両王はともに舎人親王の子)を、平城の都へ召し上らせて、天皇の臣とするでありましょう」といっている。また「自分の仇敵に男女二人(道鏡と称徳天皇)があります。この二人を殺して下さい」といっている。この文書を見れば和気に謀反の心があることは明らかに現れている。
とあります。
女帝ご自身が詔されているように、またしても、女帝はかつての「忠臣」に背かれたのでした。

こうもくりかえし「初めは良かった」相手に背かれるには、背かれるなりの理由があったのではないか、と、畏れながら、考えられても仕方ないでしょう。
まして、和気王の血筋を考えれば……
和気は一品舎人親王の孫で、正三位の御原王の子である。天平勝宝七歳、姓を岡真人と賜わり、因幡国の掾に任じられた。天平宝字三年、舎人親王に崇道尽敬皇帝の尊号が贈られた祭、皇族の籍に復し、従五位下を授けられた。
さりげなく皇籍復帰の実例の先例ですが……
またしても「舎人親王」です。
舎人親王についてはすでにこちらで「キーパーソン」と書きましたが、ここにおいてもやはり舎人親王の血縁が登場して、「崇仏派」の天皇に謀反しているのです。
ここまでくると、単なる肉親の情を超えて、やはり、「日本書紀」の思想の木霊を聞きとらないわけにはいかないような気がしてくるのですが……それでも、なお、素人の牽強付会なのでしょうか?

「天平宝字三年(新羅征討の準備が命じられた年)」ということは、舎人親王に尊号が奉られ、和気王を皇籍復帰させてくださった「恩人」は、叔父にあたる淳仁天皇(と藤原仲麻呂)でしょう。
上で見たように、和気王はその淳仁天皇の廃位に加担したことにはなりますが……少なくとも、その後の弑逆には関与しているという記述はないようです。
上の詔に見るように、和気王は、自分が皇位についた暁には、船親王・池田親王を呼び戻すつもりだったようですから、生きてさえおいでになれば、淳仁天皇についても、何らかの措置を取るつもりはあったのかもしれません。
要するに、和気王が仲麻呂の乱に関与しなかった、どころか密告さえしたのは、計画に実現性がないと判断し、他日を期すためだったのかもしれません。仲麻呂の謀議に参加していたのは、あくまで船親王と池田親王で、淳仁天皇ご自身の関与は明確ではなかったようでもありますから、乱を未然に防ぎ、仲麻呂を排除することで、かえって、淳仁天皇だけはお守りする……という可能性も、皆無ではなかったのかもしれない、とも思えなくはありません。
もっとも、そんな希望的観測がもし本当にあったとしても、女帝と道鏡によってあっさりと潰されたばかりか、淳仁天皇の御命まで奪われることになったのですから……
和気王の真意はもちろんわかりませんが、その血縁や皇籍復帰の事情から推せば、「造反有理」の極みであったとも言えるのかもしれません。

和気王は巫女「紀益女」を寵愛し、自分が皇位につけるようまじないをさせた、と、「続日本紀」にはあります。これが発覚し、和気王も紀益女も共に絞殺されています。
道祖王、黄文王、淳仁天皇、塩焼王につづく、女帝の御代における皇族の死者でした。
配流された安宿王、船親王、池田親王、を数えれば、これほど多くの皇族が遭難された時代も、珍しいのではないでしょうか。
この後も、不破内親王、氷上志計志麻呂、氷上川継、忍坂女王、石田女王、と、光仁天皇の御代の井上内親王や他戸親王、桓武天皇の御代の早良親王などなど……いわゆる「奈良時代」には皇族の「犠牲者」には事欠きません。
そうなるにはそうなるだけの「理由」があったのでしょう。
「あをによし」とは言いつつも、奈良時代というのは、皇室にとって、つまるところ「日本」にとって、実はとても暗い時代だったのではないでしょうか。その淵源が、こちらの冒頭で述べた聖武天皇即位という「大願」の成就にあるとすれば……なんとも皮肉なことです。
歴代天皇で読む 日本の正史
続日本紀(中) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
続日本紀(下) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
ラベル:続日本紀 天皇
posted by 蘇芳 at 01:56| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする