2016年05月12日

恵美押勝の乱


こちらで見たように、政権奪回に乗り出された孝謙上皇ですが。
その政治姿勢はどのようなものであらせられたのか? 
「続日本紀」のいくつかの記述に注目するだけで、大体の感触はつかめるのではないでしょうか。

皇紀1423年(天平宝字7)、二月十日には、
今回の新羅の使人は京都(平城京)に召し入れて、常の通りに待遇しよう
と勅され、
九月四日には、
少僧都の慈訓法師は、僧綱として政務を行なうのに、道理に合わぬことをしており、その職にふさわしいこのでない。よろしくその任を停止し、衆僧の意見によって、道鏡法師を少僧都に任命するようにせよ(宇治谷孟訳)
と詔されています。
翌皇紀1424年(天平宝字8)正月二十一日には、
正四位下の吉備朝臣真備を造東大寺長官に任じ、
という記述があるようです。

淳仁天皇が「征伐」されるはずだった新羅の待遇を旧に復され、仲麻呂の時代に仏教政策の中心人物だった慈訓を排除して道鏡を抜擢され、かつて藤原広嗣によって告発された吉備真備を重用されています。「東大寺」ということは例によって例の邪神像で有名な寺です。

また、皇紀1423年(天平宝字7)八月十九日には、池田親王(舎人親王の子、後の恵美押勝の乱に関係)が、
臣のこどもの男女五人は、その母が凶族(橘奈良麻呂の乱に組した仲間)でありましたので、私はこども達を皇族籍から削除しました。しかし今、月日もようやく過ぎ去り、天子の恩沢が広くゆき渡っています。この時にあたって処置しておかないと、恐らくは天子の徳化のなかにあって、戸籍の無い民があることになると思います。伏してお願い致したいことは、御長真人の姓を賜わり、永く日本国の一族として頂きたいということであります。
と奏上し、「天皇」はこれを許された、とあるようです。
すでに上皇が「国家の大事と賞罰の二つの大本は朕が行なう」と詔して政権を奪回された後ですから、この「天皇」というのは、形の上では「天皇」でも、実態は「上皇」のことでしょう。
相手が皇族であることもあるでしょうが、見方によっては、淳仁天皇擁立のために藤原仲麻呂たちが仕組んだ奈良麻呂の乱を「時効」であるとされたことには、深読みの余地があるのかもしれません。

いずれにせよ、自分たちの施策を次々にキャンセルされた仲麻呂が危機感を抱かないはずはありません。
皇紀1424年(天平宝字8)九月、恵美押勝の乱が勃発します。

九月十一日。謀反の計画を察知された孝謙上皇は、淳仁天皇のもとに山村王(≒ちなみに仏教を信仰された最初の天皇・用明天皇の末裔とのことです)を遣わし、「駅鈴」と「内印(御璽)」を回収させられます。これを奪還しようとした仲麻呂勢とのあいだに、武力衝突が勃発しますが、仲麻呂勢は近江へ敗走。駅鈴も内印も上皇に回収されます。
近江を拠点に挙兵しようとした仲麻呂でしたが、先回りした官軍に勢多橋を焼かれたことをはじめ、敗走を重ね、早くも九月十八日にはとらえられ、斬首されています。

この間、仲麻呂は塩焼王の擁立を試みたりもしていますが、元々、謀反に計画段階から参画していたのは、船親王、池田親王だったと言われています。
「続日本紀」皇紀1424年(天平宝字8)十月九日、
船親王は九月五日に仲麻呂と二人で共謀して「書状を作り、朝廷の罪咎を列挙して上申しよう」と謀った。また仲麻呂の家(田村第)の品物を調べ数えたところ、書類の中に船親王が仲麻呂ととりかわした陰謀の手紙があった。この理由により、親王の名は格下げして諸王の中に入れ、隠岐国に流罪とする。また池田親王はこの夏、馬を多く集めて謀反のことを相談したと聞いた。このようなことは何度も奏上があった。この理由により親王の名を格下げして諸王とし、土佐国に流罪とする、
と勅されています。
これが事実とすれば、池田親王は、子供たちのうち、奈良麻呂と縁のある者たちの赦免を願い出た後、一年も経たぬ間に兵馬を集め始めていたことになります。
この船親王も池田親王も、共に淳仁天皇の異母兄弟であり、舎人親王の子であったことは、単なる偶然でしょうか。日本書紀の昔から兄弟間の皇位継承事例は、枚挙に暇がありませんし、また、こちらで確認した、淳仁天皇と仲麻呂の深い関係を鑑みるに、それ以上の結びつきがあったようにも感じられなくはありません。

(なお、仲麻呂が擁立しようとした今一人、塩焼王も、上の三兄弟と同じく、「天武天皇の孫」に当たりますが……かつて仲麻呂たちに排除され、弾圧された道祖王の兄弟でもありますので、このあたりの関係はよくわかりません。塩焼王は、奈良麻呂の乱のあと、臣籍降下していますが、英達をはかって仲麻呂に接近したとも言われているようです。仲麻呂にとっては、操りやすい相手、ということだったのかもしれません。
塩焼王の擁立は、仲麻呂が追い詰められたあとの話ですから、かねてから共謀していた船新王や池田親王に比べれば、次善の策、あるいは窮余の一策だったのかもしれません)

藤原仲麻呂(恵美押勝)は、乱に先立って、道鏡の「野心」について上皇に奏上し、退けられるようご諫言申し上げています。
もちろん、上皇は聞く耳をお持ちになりませんでした。
かつて淳仁天皇が道鏡について行われた、同様なご諫言に、耳を傾けられるどころか、かえって激怒して、口汚く罵られたときと、同じです。
道鏡のこととなると、上皇は冷静な判断力を失われてしまうのでしょうか。
淳仁天皇同様、仲麻呂のことも、上皇は詔の中で何度となく口汚く罵っておいでです。もはや書き写すのもはばかられるほどのありさま。「思想汚染」の根深さが感じられます。

そんな上皇が、仲麻呂を亡き者にされ、御璽も駅鈴も手にされたのですから、もはや淳仁天皇も「用済み」でした。
上と同じ十月九日の詔のなかには、淳仁天皇に対する「処分」も宣べられています。
それなのに今、帝となっている人(淳仁天皇)をこの数年見ていると、天皇の位にいる能力はない。それだけではなく、今聞いたところによると、仲麻呂と心を合わせて、ひそかに朕を除こうと謀ったのである。またひそかに六千の兵を徴発して調のえ、また七人だけで関に入ろうと謀ったのである。さらに精兵で高野天皇方を押し破り、混乱させて朕を討ち滅ぼそうと言ったという。
それ故このような理由で、淳仁帝を帝の位から退かせ、親王の位を与えて、淡路国の公として退かせる、
このとき、上皇による天皇の「廃位」という前代未聞の暴挙を正当化するために渙発されたのが、次のような驚くべき詔です。
口に出すのも恐れ多い先帝天の帝(聖武)のお言葉で、朕に仰せられたことは、「天下は朕(聖武)の子の汝(孝謙)に授ける。そのことは言ってみるならば、王を奴としようとも、奴を王としようとも、汝のしたいようにし、たとえ汝の後に、帝として位についている人でも、位についての後、汝に対して礼がなく、従わないで無作法であるような人を、帝の位においてはいけない。
聖武天皇の遺詔については、道祖王を皇太子とすることを定められたものがあっただけだったはずです。それにくわえて聖武天皇が本当にこのような遺詔を残されたのか、本当のところはわかりません。おそらく、捏造であろうとも言われているようです。
そもそも、道祖王についての遺詔は、淳仁天皇擁立のさいに(孝謙天皇も加担されて)反故にされています。その遺詔を、都合の良いときだけもっともらしく引っ張りだしてくるというのも、品のない二枚舌というべきでしょう。
先帝の遺志を無視する「お手本」を、すでに仲麻呂自身が示していたのだというべきか。あるいは、半島経由の仏教などを信仰されると、ここまで堕落されてしまうものか、と言うべきか。判断に困りますが、いずれ、これも女帝の異常性の一例には違いないでしょう。
何といっても、この「遺詔」に従うとすれば、当然、道鏡を皇位につけることも、女帝の思いのままであることになるのですから……

ともあれ、国民国家・日本の自覚と宣言の書、尊皇敬神の思想書「日本書紀」の編者・舎人親王の皇子様方は、仏教に「洗脳」されたもうた女帝によって、ことごとく排斥され、ここに恵美押勝の乱は終息を見るのでした。

翌皇紀1425年(天平神護元年)十月二十二日、淳仁天皇は配所から逃亡を図られますが、捕らえられ、その翌日には崩御されます。暗殺説が根強いことは言うまでもありません。宝算三十三歳。
こちらで見たように、半島からの難民を帰国させ、新羅討伐の準備をお進めになった、現代の目から見れば名君の可能性を感じさせる帝の、惜しんでもあまりあるご最期と申し上げるべきではないでしょうか。

その後、史上最大の逆賊・道鏡が「太政大臣禅師」に就任するのは、淳仁天皇崩御から一週間とたたない、同年同月三十日のことでした。


歴代天皇で読む 日本の正史
続日本紀(中) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
みささぎ巡拝―天皇の遺跡をたどる
天皇陵
ラベル:続日本紀 天皇
posted by 蘇芳 at 03:14| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする