2016年05月10日

日露戦争とポーランド


日露戦争の波及効果は広範かつ巨大でした。
日本の勝利が勇気を与えたのは、よく言われる、アジア、アフリカだけではありません。
ムスリムや共産主義者さえ日露戦争に鼓舞されていますし、ロシアと敵対関係・被支配関係にあった東欧・北欧諸国にも勇気を与えています。フィンランド、ハンガリー、ポーランド、トルコ……などなど、あげればきりがないでしょう。
ネットが普及したおかげで、最近はいわゆる「親日国」の美談を知る機会も増えてきたと思いますが、そのルーツをたずねれば日露戦争に行き着く、という例は多いのではないでしょうか。
たとえば上で挙げたポーランドですが、ネットで有名な美談としては、大正時代のポーランド孤児のエピソードがあるでしょう。しかし、ポーランドが日本に熱い視線を送っていたのは、何もその時にはじまったことではなく、日露戦争当時において、すでにそうだった、という話もあるようです。



松山収容所の話は「ロシア兵」の話としてひとくくりにされることが多い気もしますが、主体はポーランド人。
しかも「マツヤマ、マツヤマ」と言って進んで投降してきたという有名な話も、単なる「ロシア兵」ではなく「ポーランド人」。

根も葉もない話ではなく、有名な明石工作との関連で、それなりに根拠のある話のようです。

明石元二郎大佐はロシアの後方攪乱のため、ストックホルムを拠点に、ロシア内外の社会主義者や民族主義者と接触・支援していましたが、ポーランド人との接触ももちろんありました。

当時のポーランドは、ロシア、ドイツ、オーストリアの三か国によって、1772年、1893年、1896年と三段階にわけて分割され、国土のすべてを失っていました。
日露戦争が勃発すると、ポーランドの独立派や民族派は、日本の支持を得ようと、各国の公使館などに接触してくるようになりました。
が、ポーランド人内部にもさまざまな派閥がありました。
ユーゼフ・ピウスツキ率いるポーランド社会党などは、日本の武力援助による即時独立を唱える武闘派・過激派でしたし、ローマン・ドモフスキ率いる国民同盟はロシア支配下での自治権拡大を目指す穏健派でした(当然、支持階層が異なります)。

このうち、最初に明石大佐に接触してきたのは穏健派のドモフスキのほうだったそうで、武力闘争を否定する彼が提案したのが、「ポーランド兵の投降工作」だったといわれているようです。
そして、明石はドモフスキに児玉源太郎参謀次長への紹介状と日本への渡航費を提供した、とか。。。
それが、動画で言われている「マツヤマ」の話につながるわけで。これを「ロシア兵」とひとくくりにしてごまかしたがる勢力には注意が必要かもしれません。

なお、ピウスツキはピウスツキで、独自に来日、暴力革命への支援を打診したそうですが、日本側は、ドモフスキの忠告や、同盟国英国の意向(欧州への社会主義の拡大を警戒)を斟酌して、「大規模」な支援は行わなかったといいます。
別の言い方をすれば「小規模」な援助は行ったということで、日本が行ったポーランド独立運動への資金援助の規模としては、10万円説や、二万ポンド(約20万円)説などがあるそうです(当時の10万円は現在の貨幣価値に換算して7億円相当とか?)。
この資金援助がポーランド独立にどの程度寄与したのかはつまびらかにしませんが……
日露戦争から13年。
1918年十一月、第一次世界大戦の停戦協定により、ポーランドは念願の独立を達成。大統領に就任したのは、ほかでもない、ピウスツキその人でした。
そしてピウスツキ大統領は、就任後まもなく、日露戦争で活躍した51人の日本軍指揮官に「軍徳勲章」を贈ったといいます。
ポーランドにとって、日露戦争は、それだけの価値のある戦争だったのでしょう。

オーストリア公使だった牧野伸顕は、当時、ポーランドの伯爵に招かれてポーランドを訪問したときの記憶を、次のように回想しているといいます。
ロシア国境に近いエズポールというところで、在郷軍人みたいな人が出迎えてくれて、えらい厳かな歓迎ぶりであった。宿の主人が『村長が閣下にお目にかかりたい』というので会ったが、彼らがいうには、同朋を代表して天皇陛下に御礼を言いにきた。ロシアが日露戦争に負けた結果、今までのポーランド人に対する束縛が解かれた。これまでは学校でもポーランド語を教えさせず、土地所有権も与えず、婚姻の自由さえなかったが、日本の連戦連勝のお陰でその束縛が一つ一つ解かれ、今では非常に自由の民となった。これは日本皇帝陛下のお陰で忘れることができない。そして、来る日も来る日も敬意を表して来る人や接待する人が多かったが、ウィーンに帰ってヂ・ヂュスキー伯に、その話をすると、『ようこそ、あなたは旅程を切り上げて帰って下さった。もし、一週間もご滞在であったらポーランドの人が皆押しかけて来たであろう』と笑っていた。
日本とポーランドの絆は、その後も続き、日本がよりにもよってドイツと同盟してしまった第二次大戦下でさえ、完全に途絶えることはなかった、とも、言えるようです。
有名な杉原千畝に救われた「ユダヤ人」のなかにはポーランド人も多く含まれていますし、実際、ポーランド諜報機関との協力関係もあったようです。また、終戦直前、ヤルタ会談の情報をいち早く日本に知らせてくれたのも、ポーランドの諜報員だったと言われているようです。
ドイツ・オーストリア・ロシアの三か国に散々な目に合わされた「親日国」といえば、トルコが有名ですが……ドイツにはダンツィヒ(グダニスク)侵攻という第二次大戦の転機の舞台にされ、ソ連にはカチンの虐殺をはじめとする蹂躙を受けたポーランドにとっても、やはり、「日露戦争の日本」は特別な存在だったのでしょうか?

日露戦争の影響は、まことに広範かつ巨大でした。
そのことはいくら誇っても誇りすぎることはありません。
日露戦争を機に国境を越えて結ばれた友情は大事にすべきですし、何より、日本自身のこの栄光の「歴史」を大切にしなければならないことは言うまでもありません。

しかし、また……

同時に、その影響は、あまりに広範すぎ、巨大すぎたのかもしれない、という省察も、忘れるべきではないようにも思います。

全世界注視の的だった日露戦争は、当時から、それぞれ異なる立場から、さまざまに異なるとらえ方をされていたといいます。
いわく、欧州vsアジア
いわく、白色人種vs有色人種
いわく、キリスト教国(文明国)vs異教徒(野蛮国)
いわく、専制帝国(野蛮国)vs立憲君主国(文明国)
etcetc……
異なる見方を都合よく使い分けた国や民族もあったようです。
「キリスト教国(文明国)vs異教徒(野蛮国)」という構図と、「専制帝国(野蛮国)vs立憲君主国(文明国)」という構図などは、「文明・野蛮」の構図で見るなら180度真逆で、いつでも互換できるようになっています。勝ち馬に乗るためのダブルスタンダードにとっては、ずいぶんと便利な道具だったでしょう。
米国の世論などは、戦争中は文明国が勝った勝ったと喝采し、日比谷焼き討ち事件が起こると一斉に手のひらを返して非キリスト教の野蛮国と大合唱したとか。
ロシアを日本にけしかけたドイツ皇帝も、盛んに黄禍論を吹きまくる一方で、日本の勝利が明確になるとさっそくすり寄ってきたりもしていたようです。

日露戦争の勝利と、それが生んだ数々の国境を越えた友情の物語は、同時に、複数の相矛盾する、しばしば日本自身の価値観からもかけはなれた立場から、手前勝手な「正義の味方」を要求され、少しでもイメージが違うとなれば発狂的に攻撃されるという、ストーカーまがいの副産物をも、結果してしまったのかもしれません。有名税で済ますにはあまりにも重すぎる重税であるようです。
(ロシア領内のムスリムなどは、日本人を「改宗させて」リーダーにしよう、という身勝手な主張を本気でしていたようです)

あるいは、自らの勝利が生んだこの壮大な波及効果を、日本自身がとらえかね、対処しかねた、そのことが、やがて、共産主義によるアジア主義の汚染へとつながっていく、遠因のひとつであったのかもしれません。

日露戦争における日本の勝利(というかロシアの敗北)を喜んだ人物の中には、人類の敵・レーニンもいました。アドルフ・ヒトラー少年も、日本の勝利、わけても日本海海戦の「パーフェクトゲーム」に強烈な印象を受けた一人だったと、他でもない本人が書き残しているようです(演出の意味もあったでしょうが)。
日本が、ポーランドを侵略したナチスドイツと同盟を結び、レーニンの悪魔的詐欺によって内側から蝕まれていく……日露戦争はその錯誤の歴史の起点としても、見返してみる必要があるのかもしれません。
ポーランド人と日露戦争 (明治大学人文科学研究所叢書)
日露戦争が変えた世界史―「サムライ」日本の一世紀
日露戦争を世界はどう報じたか
日本外交秘録 (1934年)
豪快痛快 世界の歴史を変えた日本人―明石元二郎の生涯
posted by 蘇芳 at 02:36|  L 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする