2016年05月07日

法則再び


皇紀1387年(神亀4・西暦727)、第四十五代聖武天皇と光明皇后のあいだに第一皇子・基王が誕生され、生後三日で皇太子に立てられました。が、皇太子は二年後、数えわずか三歳で薨去されます。
聖武天皇には他に県犬養広刀自との間に安積親王がお生まれになっていましたが、藤原氏が総力を挙げて光明皇后を立后した当時の状況から推して、即位の可能性はほぼなかったことでしょう。
そこで、異例の措置でしたが、皇紀1398年(天平10・西暦738)皇女・阿部内新王が立太子され、史上初の女性皇太子となられました。
阿部内新王は聖武天皇を父とされる男系女性皇族であり、また後に聖武天皇の詔によって道祖王が皇太子と定められていますので、「中継ぎ」の原則からも逸脱はされていません。
しかし、これまでに即位された女帝が、先帝の后・母・姉というお立場から、急遽、一時的に皇位におつきになったのに対して、事前に皇太子というお立場で即位までの準備期間をお過ごしになったという点で、孝謙天皇の即位事情は、やはり、特異なものではありました。
元より、臣下の身で初めて「后」の位に登られた光明皇后を母とされたこと、父帝の遺詔を(道祖王廃太子・淳仁天皇廃位の)二度にわたって蔑ろにされたこと、道鏡事件を引き起こされたこと、などなど、異例づくしの天皇であらせられました。

皇紀1409年(天平勝宝元年)、聖武天皇が譲位され、いよいよ阿部内新王が即位、後の孝謙天皇が誕生されます(後、さらに重祚して称徳天皇)。
その皇紀1409年が、八幡神を利用した一大仏教セレモニーの行われた年であったことは、こちらで、見た通りです。
また、その大仏のために陸奥守・百済王敬福が黄金を献上したこと、新羅の朝貢が復活していたことも、こちらで見た通りですが……
実を言うと、この話にはさらに続きがあります。

皇紀1412年(天平勝宝4・西暦752)、三月二十二日、大宰府から、
「新羅の王子で韓阿飡(冠位十七等の第五位)である金泰廉、貢調使で大使である金暄、および王子を送る使いの金弼言ら七百余人が、七艘の船に乗ってきて、那の津に泊りました」(宇治谷孟訳)
との報告がありました。
何と700人を超す(後世の朝鮮通信使を上回る)大規模朝貢団です。半島の正体を知りつくした現代の私たちから見れば、何の嫌がらせかというところですが、当時の朝廷は、これを歓迎されます。
なお、「続日本紀」には明確な記述が見つかりませんでしたので、私の見落としでないなら少々出典不明ですが、吉重丈夫「歴代天皇で読む 日本の正史」は、このときの新羅の朝貢について、
この使節団は、奈良の大仏の塗金用に大量の金を貢いで、王子による朝貢を行い、統一新羅は日本に再度服属した。
と説明しています。いずれ何らかの史料があるのでしょうが……
百済の末裔と新羅によって献上された金で塗り固められたのが、奈良東大寺の大仏だったようです。
無計画な遷都と大仏がまきちらした災厄の数々を思えば、「法則」恐るべしというか、本当に呪いの邪神像かと、戯言の一つも言ってみたくなります。
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これはもちろん、結果を知ったうえでの逆倒した物言いではありますが、その後の災厄を暗示するような、不吉な予兆とも言うべき、御代の幕開けだった、と、言いたい誘惑にかられるのは、いかんともしがたいところです。

なお、当然といえば当然ですが、あの半島が日本に媚び始めるには、またぞろいつもどおりの愚劣な理由があったようです。

前出の吉重丈夫「歴代天皇で読む 日本の正史」によれば、
この頃、新羅南部沿海の流民あるいは海賊が、頻繁に対馬や北九州を襲った。組織的な大集団も多く、国家あるいは強大な豪族の関与も疑われた。この新羅の賊が発生したのは、皇紀一四〇五年頃から皇紀一四一〇年代後半にかけて新羅で飢饉や疫病が発生し、社会が疲弊していたためである。飢えのため、自分の股の肉を切り取って父親に食べさせた男の話が美談として伝わるほどで、この時期、九州南部をはじめ、日本に逃亡してきた新羅の民が多数いた。なお、半島には人肉を食する習慣があった。
とのこと。
上の朝貢はまさにこの間に行われたのでしたし、また、皇紀1416年(天平勝宝8)には、唐で「安禄山の乱」が勃発、半島も混乱していたようです(日本は筑前に怡土城を築いて防備を固めています)。
と同時に、翌皇紀1417年(天平勝宝9)には、統一新羅の第三十五代王・景徳王が、地名の漢字二文字化を実施、官制の名称も唐式に改めるなど、いよいよ自ら進んで唐に媚びへつらう従属政策に邁進し始めたとも言います。
自国の混乱を自力で収めることができず、今日は日本、明日は唐、と、手あたり次第に強国に媚びまくる自称「外交強国」の蝙蝠ぶりは、今も昔も千年一日のありさまであるようです。

そんな新羅の本性を見抜くこともできず、下手に出られればコロッと騙される日本も日本ですが……

孝謙天皇も、上の朝貢に気をよくされたのか、優渥極まりない勅語をお出しになり、金泰廉らをねぎらっておいでになります。

もちろん、こちらでもこちらでもくりかえし述べたように、天皇は英明だから天皇なのではなく、天皇だから天皇であらせられるのではありますが……
天皇を輔弼申し上げ、諫言申し上げる忠臣はいなかったのか、と、くらいは言ってみてもいいのではないでしょうか。
(まあ、後の和気「穢」麻呂の例を考えれば、諫言に耳を傾けてくださる女帝であらせられたのかどうか、残念ながら疑問に思わざるをえませんが……)

結局のところ、天皇がいまだ直接政務に携わられる必要のある場面も多かった時代に当極された、異例づくめの女帝は、この後、日本に大きな混乱を巻き起こしていくことにならざるをえなかったようです。
そのすべてを「法則」の二文字で片づけるつもりはありませんが……
奈良時代の災厄の根源が、基本的価値観を共有しない人食い人種によってもたらされた仏教であったことは、今さら、言うまでもないことでしょう。天皇御自らそんなカルトに深入りされ、国体の危機をも招いてしまわれたことは、嘆かわしいかぎりです。

なお、人肉食文化については、半島のみならず、彼らの宗主国もまた本場中の本場ですが、その大陸から有名な鑑真が来日したのは、皇紀1413年(天平勝宝5)十二月二十日。東大寺に戒壇を設け、聖武天皇以下430人に授戒を行ったのは、翌皇紀1414年(天平勝宝6)のことでした。
歴代天皇で読む 日本の正史
続日本紀(中) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
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posted by 蘇芳 at 01:48| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする