2016年05月03日

法則発動


「続日本紀」皇紀1409年(天平二十一)、
二月二十二日 陸奥国からはじめて黄金を貢進した。そこで幣帛を奉って畿内・七道の諸社にそのことを報告した。(宇治谷孟訳、以下同じ)
とあります。
聖武天皇の御代にしては珍しく「諸社」への奉幣が行われていますが、油断禁物。
この「黄金」というのは大仏に使うためのものです。
しかも、同年四月一日、天皇は次のように詔されています。
三宝の奴としてお仕え申し上げている天皇の大命として、盧舎那仏の御前に申し上げよう、と仰せられます。この大倭国では天地の開闢以来、黄金は他国より献上することはあっても、この国にはないものと思っていたところ、統治している国内の東方の陸奥国の国守である、従五位上の百済王敬福が、管内の小田郡に黄金が出ましたと申し献上してきました。これを聞いて天皇は驚き喜び貴んで思われるに、これは盧舎那仏がお恵み下さり、祝福して頂いた物であると思い、受け賜わり恐まっていただき、百官の役人たちを率いて礼拝してお仕えすることを、口に出すのも恐れ多い三宝の御前に、かしこまりかしこまって申し上げますと申します。

上の宣命に登場する「百済王」は、もちろん、独立国の王様でも何でもありません。
が、その末裔ではあります。
こちらでふれた豊璋には兄弟(禅広)がいました。禅広は白村江のころにも帰国せず、その後も日本にとどまり、その子孫は日本に定住・帰化しています。彼らが持統天皇の御代に賜った氏姓が「百済王氏」だと言います。

要するに百済系日本人であり、従五位の官人=朝廷に仕える臣下であり、陸奥守にすぎません。
半島南部はもともと「倭人」の居住地でしたし、百濟には脱解尼師今や瓠公など「倭人」の王や高官もいたことがあります。
百済王氏とはいえ、現代の半島とは民族的にもほぼ無関係だったようですし、現代のような捏造反日教育を受けたというわけでもなかったでしょう。

しかしながら、元をただせばこちらで見たような事情で日本に仏教を伝え、逆賊・蘇我氏の跳梁の端緒を作ったのは、百済の聖明王です。
大仏についてはこちらこちらで考察した通りですが……
またしても百済の末裔が、仏教がらみの事件に「貢献」することになったというのも、運命的と言うか「法則」というか、嫌なめぐりあわせです。

さらにもう一つ。

こちらで見た通り、天智天皇は唐の侵略に備えて国境の防備を固められ、断乎たる姿勢をお示しになりました。
天武天皇もその路線を踏襲され、再び日本に媚びようとした統一新羅を退け、距離をおとりになったことも、同じ記事で述べた通りです。

また、持統天皇の御代にも、
皇紀1347年(持統天皇元年)、
皇紀1349年(持統天皇3年)、
皇紀1352年(持統天皇6年)、
皇紀1353年(持統天皇7年)、
皇紀1355年(持統天皇9年)、
などに、新羅の朝貢の記録が見えるようですが、このうち皇紀1349年(持統天皇3年)の朝貢にさいしては、内容が貧弱で、前例を破っていたので、
新羅はもとからいうのに、『わが国は日本の遠い皇祖の代から、何艘もの舟を連ねて、柁を干すこともなくお仕えする国です』といった。しかし今回は一艘だけで、また古い法と違っている。また、『日本の遠い先祖の時代から、清く明らかな心でお仕えしました』と申したが、忠誠心をつくして、職務を立派に果たすことを考えようとしない。しかも清く明らかな心を傷つけ、偽りの心でへつらっている
と詔され、追い返しています。
まことに毅然たるもので、めでたいかぎりです。

しかし、それも束の間……

やがて、これら御歴代の努力の甲斐あって、唐の侵略は回避され、国交も回復しますが、そのついでというべきでしょうか。代を重ねるうちに、いつのまにか、半島との往来まで、相当程度復活してしまったようです。
特に聖武天皇の御代にもなると、新羅の朝貢を受け入れるばかりか、答礼として「遣新羅使」なども派遣されるようになっています。
日本と唐との関係が改善されれば、ほぼ自動的に、唐の属国・新羅との交渉も復活してしまうことは、ある意味、当然ではあったのかもしれません。
日本の外交努力の結果に、余計なオマケがついてきたのだとしたら、まことに皮肉というか、残念きわまる結果というほかはありません。

もちろん、往来とはいっても、新羅が日本に従属する関係は不変であり、対等外交ではありません。
新羅が完全に唐の属国になる以前は、日本を後ろ盾にしようと媚びへつらう朝貢外交でしたし、新羅が完全に唐の属国になった後も、彼らの宗主国と対等外交をくりひろげる日本が、はるかに新羅より格上の存在であったことは、何ら変わっていません。

聖武天皇の御代であっても、たとえば皇紀1395年(天平7)の新羅の朝貢にさいしては、新羅が日本に無断で国号を「王城国」と改めたことを責められ、追い返されています。
とはいえ、そうした面従腹背を平気で行う新羅の腐った性根は相変わらずであるともいえ、聖武天皇の親新羅政策は、新羅をつけ上がらせるだけだったともいえるかもしれません。

仏教を重んじられた天皇は、唐との交渉を重視されたでしょう(聖武天皇に重用された吉備真備も玄昉も、第九次遣唐使の留学生です)。
そして、当時の日本―大陸間の航海は、半島を経由地としていたはずでもあるのではないでしょうか。
天皇が仏教に熱中されればされるほど、足元を見られるのは理の当然です。

ちなみに吉重丈夫「歴代天皇で読む 日本の正史」の要約によると、皇紀1405年(天平17)には、
この年、新羅(統一新羅)では飢饉と疫病が蔓延し社会が疲弊して、日本に難民が押し寄せる。
などということもあったようで、半島が迷惑の種であることは相変わらずです。
まあ、これ以前にも、「日本書紀」の昔から、事あるごとに半島の難民は日本にすがってきていますが……
半島の虫の良さも底無しなら、それを受け入れてしまう日本のお人好しも大概です。

後世の私たちは、もういいかげん、この歴史から学んでもいいころではないでしょうか。
惡友を親しむ者は共に惡友を免かる可らず。我は心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり。

歴代天皇で読む 日本の正史
日本書紀(下)全現代語訳 (講談社学術文庫)
続日本紀(中) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
posted by 蘇芳 at 01:40| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする