2016年05月02日

大仏と八幡神


こちらでも述べたように、八幡神は仏教と縁の深い神です。
そもそも宇佐八幡宮が現在の場所に創祀されたのは、皇紀1385年(神亀2)、聖武天皇即位二年目のことでした。勅願だったと言われています。

八幡神は大仏建立にも大きくかかわっています。
「続日本紀」記述を拾ってみると、
皇紀1408年(天平20)、
八月十七日 八幡大神(宇佐八幡宮)の祝部で従八位上の大神宅女・従八位上の大神杜女にそれぞれ外従五位下を授けた。(宇治谷孟訳、以下同じ)
皇紀1409年(天平勝宝元年)、
十一月一日 八幡大神(宇佐八幡宮の神)の禰宜・外従五位下の大神杜女、主神司の従八位下の大神田麻呂の二人に大神朝臣の氏姓を賜った。
十一月十九日 八幡大神は託宣して京に向かった。
十一月二十四日 参議・従四位上の石川朝臣年足・侍従・従五位下の藤原朝臣魚名らを遣わして彼らを迎神使とした。路次の諸国は兵士百人以上を徴発して、前後を固めて妨害を排除させた。また八幡大神の通過する国では殺生を禁断した。その八幡大神の入京に従う人のもてなしには、酒や獣肉を使用せず、道路を清掃してよごれやけがれをさせなかった。
十二月十八日 五位の官人、散位二十人、六衛府の舎人それぞれ二十人を派遣して、八幡神を平群郡に迎えさせた。この日、八幡神は京へ入った。そこで宮の前の梨原宮において、新殿を造って神宮とし、僧四十人を請じて、悔過の行を七日間行なった。
十二月二十七日 八幡大神の禰宜尼・大神朝臣杜女<分注。その輿は紫色で、天皇の乗物と同じである>が東大寺に参拝した。
従八位がいきなり従五位というのも凄いですが、「神」を迎えるのに「僧四十人」、禰宜もいつのまにか「禰宜尼」と化すなど、見事なまでの神仏習合です。
この日、八幡大神には一品、比咩神には二品の神階が、大神杜女には従四位下、大神田麻呂には外従五位下が授けられました。
この盛大なセレモニーが何のためかと言えば、
聖武天皇の御命として申し上げますと申されるには、去る辰年(天平十二年)河内国大県郡の知識寺においでになり、盧舎那仏を拝み奉って、朕もお造り申し上げようと思ったが、出来ないでいる間に、豊前国宇佐郡においでになる広幡の八幡大神が仰せられるには「神であるわれは、天神地祇を率い誘って、必ず造仏を成就させよう。それは格別なことではなく、銅の湯を水となし、わが身を草木土に交えて、支障が起こることなく、無事に完成させよう」と仰せられたが、それが成就したので喜ばしく貴いことであるとお思いになります。
と記されているとおりです。

こちらで述べた通り、奈良時代の神仏習合説は、神身離脱説であり、護法善神説です。
それは、仏を神々の救い主と位置づけ、随喜した神々が仏の家来になるという、厚かましい妄想であり、すなわち神道を仏教に従属させ、支配しようと企てる、外来カルトの邪悪な思想侵略にほかなりません。
その妄説を国家規模で承認し流布するためのセレモニーが、大仏建立であったといえるのではないでしょうか。

さらに悪いことに、上の宣命では、仏に帰依しているのは八幡神一柱だけではありません。八幡神は「天神地祇」を率いているというのです。
しかも、そもそも八幡神は、誉田別尊=応神天皇であるとされています。
すなわち、ここで仏に帰依している「神」は同時に「天皇」でもあらせられるのです。
仏教などお聞きになったこともなかったであろう応神天皇がお知りになれば、さぞや仰天されるのではないでしょうか。
まさに、天皇の身で仏弟子となられた聖武天皇の(そして孝謙・称徳天皇の)御代を象徴するような神であり、尊皇家からすれば嘆かわしいかぎりです。

天皇にこのような不敬きわまりない仏教政策を吹きこみ、こちらで見たように国庫を蕩尽させ、国民に塗炭の苦しみをなめさせた売僧こそ、玄昉であり、それを傍観しあるいは賛同さえしたのが吉備真備だとしたら、万死に値するといっても過言ではありません。広嗣がを起こしたのもむしろ当然ではなかったでしょうか。

この話にはさらに続きがあります。
上のセレモニーが行われた皇紀1409年(天平勝宝元年)は、聖武天皇が譲位され、阿部内親王(孝謙天皇)が即位された年でもあるのです。
宇佐八幡を利用した大仏建立セレモニーの年に即位され、晩年に宇佐八幡宮神託事件を引き起こされた孝謙・称徳天皇の御代は、いわば、八幡神とともに始まり、八幡神とともに終わったとも言えるのではないでしょうか。
これを運命的とも宿命的とも言っていいかもしれません。が、あるいはそれこそは、上の事情を知り尽くした道鏡一味による作為的演出であったのかもしれません。

「道鏡を皇位につけよ」という偽の神託もまた、他でもない「宇佐八幡宮」の神託とされていたのであり、それをもたらした習宜阿曾麻呂は、こちらで確認したように、大宰府の主神司でした。そして、当時の大宰府の長官は、弓削御清朝臣清人、すなわち道鏡の実弟だったのです。
つまるところ、道鏡事件とは、大宰府の管轄下にある宇佐八幡宮を利用して、仏教僧に日本を乗っ取らせる企てだったといえるでしょう。
そんな宇佐八幡宮へ派遣された和気清麻呂の「本来」の任務が、偽の神託の追認であったことも、疑いようがないように思います。

神が仏に帰依し、天皇が仏に帰依し、僧侶が皇位につく。
宇佐八幡宮が、元々は、その企てに大いに利用された神社だったことは、歴史的事実として押さえておく必要があるように思います。
むしろ、仏弟子・聖武天皇の勅願によって創建された八幡宮は、最初から、そのためにこそ在ったのかもしれません。

しかし、道鏡の企ては、和気清麻呂によって阻止されされました。
その背後に藤原氏の意思が働いていたにせよいなかったにせよ、矢面に立ったのが清麻呂その人であったことは動かしがたい事実です。
その功績はどれほど強調してもしすぎることはないでしょう。
現在、宇佐八幡宮を、外来カルトによる日本侵略の前線基地などと思う人は、普通はいません。偽の神託をもたらした神社、とさえ、思う人は少ないでしょう。宇佐八幡宮は、今や、真実の神託を以て道鏡の野望を打ち砕いた神社としてのみ記憶され、尊崇されているのではないでしょうか。
和気清麻呂は、国体を護持しただけでなく、さらにくわえて、八幡神(応神天皇)を日本の手に取り戻した、とも、いえるのかもしれません。
応神天皇にも宸襟を安んじていただけるのではないでしょうか。
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posted by 蘇芳 at 01:29| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする