2016年05月01日

遷都と大仏


広嗣の乱はこちらで述べたような形で鎮圧されましたが、実はこの乱の最中、聖武天皇は不可解な行動をとられています。
「日本書紀」に比べると、「続日本紀」は読んでいて楽しくないというか、個人的には、ときどき、痛ましい気さえしてきます。

乱の最中、天皇は突然、次のような詔を渙発され、理由も明らかにされないまま、行幸に出発されます。
朕は思うところがあって、今月の末より暫くの間、関東(伊勢・美濃以東の地)に行こうと思う。行幸に適した時期ではないが、事態が重大でやむを得ないことである。(宇治谷孟訳、以下同じ)
皇紀1400年(天平12)十月二十三日のことでした。
なお、広嗣たちが捕縛されたのも同じ二十三日だったようですが、その報告が朝廷にもたらされたのは十一月三日です(上表文の日付は十月二十九日か?)。広嗣の斬首は十一月一日、その報告は十一月五日。乱の参加者の処刑は翌皇紀1401年(天平13)一月二十二日でした。
乱の山場はすでに過ぎてはいましたが、完全に終結したことが天聴に達する以前であったことは確かなようです。そんな時期に、最高責任者が、あわただしく都を旅立たれるというのは、いかにも不可解です。
日清戦争の最中に明治天皇が突然、理由も仰せにならないまま、長期間、広島大本営を後にされるようなもの、と言っては、大げさでしょうか。

今、「長期間」と書きましたが、聖武天皇のこのときの行幸は、行幸というよりも巡幸といってよいものでした。
十月二十九日、伊勢国
十月三十一日、伊賀国
十一月二日、伊勢国
十一月二十六日、美濃国
十二月十四日、近江国
十二月十五日、恭仁宮(山背国)
郡を割愛して国名を拾っただけでも、これくらいの大旅行です。
ここではじめて、天皇は恭仁宮を新都とすることを詔され、京の造営をお命じになりました。
なし崩しの遷都であり、行幸の目的も、新都の適地を探すため、というのが本当の理由だったのかもしれません。
それにしても急な話で、なぜこの時期に行わなければならなかったのか、なぜ事前に告げることができなかったのか、合理的に説明することは難しいようです。
天皇は新年を恭仁宮でお迎えになりましたが、そのときにはまだ、
宮の垣がまだ完成していないので、帷帳を引き回らして垣のかわりとした。
という急ごしらえの都でした。

しかも、天皇の奇行はこのあとも続きます。

皇紀1401年(天平13)三月、国分寺建立の詔
皇紀1402年(天平14)八月、紫香楽宮(離宮)造営
皇紀1403年(天平15)十月、盧舎那仏造営の詔
皇紀1404年(天平16)二月、難波京遷都
皇紀1405年(天平17)五月、平城京遷都

わずか数年のあいだに、恭仁京、紫香楽宮、難波京、と次々と造営されたあげくに元の平城京にお戻りになる、という大山鳴動ぶりです。
しかも、この間に、有名な国分寺造営、大仏建立も開始されているのですから、国費の負担は莫大なものになりました。
「続日本紀」皇紀1403年(天平15)の末尾には、
最初に平城宮の大極殿および歩廊を壊し、恭仁京へ遷し替えをしてから四年をかけ、ここにその工事がようやく終わった。それに要した経費は悉く計算できない程多額であった。その上更に紫香楽宮を造るのであるから、恭仁宮の造営は停止することになった。
と明記されているありさまです。しかもこれは皇紀1403年の記述ですから、翌年の難波京遷都の費用は入っていません。
こんな財政状態でも、大仏の建立は続行され、完成したのは七年後(皇紀1412・天平勝宝4)だというのですから、国庫が空になるのもむべなるかな。広嗣ならずとも「悪政」を告発したくなるのではないでしょうか。
こちらで述べた、
四月一日、紫香楽京、西方で山火事。
四月三日、甲賀?寺の東で山火事。
四月八日、伊賀国真木山で火災、三、四日燃えつづけ数百余町延焼。
四月十一日、紫香楽の宮城の東の山で火災。幾日も燃え続ける。
五月一日、地震。
五月三日、地震。
五月四日、地震。
五月五日、地震。
五月六日、地震。
五月七日、地震。
五月八日、地震。
五月九日、地震。
五月十日、地震。
五月十六日、地震。
五月十八日、地震。
七月十七日、地震。
七月十八日、地震。
八月二十四日、地震。
八月二十九日、地震。
九月二日、地震。
という群発地震に見舞われたのも、ちょうどこの皇紀1404年(天平16)、難波京遷都の後まもなくのことでしたから、現代人でも何かの祟りか法則かと疑いたくなります。
特に五月には「この月の地震の多さは異常であって、度々地面に亀裂が生じ、そこから泉水が湧出した」と特記されているほどです。

一応、聖武天皇も、これら事業の負担が大きいことはお分かりだったようで、大仏建立に際しては、
この富と権勢をもってこの尊像を造るのは、ことは成りやすいが、その願いを成就することは難しい。ただ徒らに人々を苦労させることがあっては、この仕事の神聖な意義を感じることができなくなり、あるいはそしりを生じて、却って罪におちいることを恐れる。
と詔して、国民の負担に配慮されてはいるのですが、それでもなお思いとどまられることはありませんでした。

戦争はお金がかかります。
遷都はお金がかかります。
大仏はお金がかかります。

それを一辺に立て続けに実行するというのも、無理な話です。
しかも、皇紀1404年(天平16)には、
「恭仁・難波の二京でどちらを都と定めるべきか、それぞれ自分の考えを述べよ」
と、詔され、要は「アンケート」を取っておいでになり、遷都には計画性も乏しかった気配があります。
「続日本紀」には、
この問に対して、恭仁京が都合が良いとのべた者は、五位以上では二十四人、六位以下では百五十七人であった。難波京が都合が良いとのべた者は五位以上では二十三人、六位以下では百産十人であった。
と、回答の内訳まで示してありますから、まさにアンケートです。

聖武天皇といえば、反日捏造歴史教科書では、国分寺国分尼寺や大仏建立の御治績が顕揚され、あたかも仏教がありがたいものでもあったかのように作為されています。
しかし、上のように整理したうえで、なお、崇仏政策をありがたいものと思うことができるでしょうか?

いったい、なぜこんなことになってしまったのか?

おそらく、仏教を深く信仰された聖武天皇の大御心の清らかさを、疑うことはないでしょう。
後奈良天皇の写経奥書は言うに及ばず、国民福祉はおろか戦災・天災の類に至るまで、すべての責任を一身に背負われたまうのが「天皇」という御存在です。
まして仏教には「因果応報」の観念まであるのですから、数多の政変、天災、皇太子の薨去などなどに見舞われた聖武天皇が、どれほど御心を傷められ、御自らをお責めあそばしたかは、想像に難くありません。
そして、それゆえに、その救いを仏教にお求めになる道心をさらに深めたもうたとしても、(信仰に現実的な効力さえ信じられていた時代として)不思議ではないでしょう。
その結果、僧侶を重用され、僧侶にすすめられるまま、国費を蕩尽され、さらに国民の不幸を招き、それゆえにさらに仏教におすがりになる……そのような負のスパイラルが、上で瞥見した歴史からは、感じられはしないでしょうか。冒頭で「痛ましい」と述べた所以です。

以上の経緯を踏まえたうえで、あらためて、こちらで述べた玄昉の末路の記述、
これより後、天皇のはでな寵愛が目立つようになり、次第に僧侶としての行ないに背く行為が多くなった。時の人々はこれを憎むようになった。ここに至って左遷された場所で死んだのである。世間では藤原広嗣の霊によって殺されたのだと伝えている。
を読み返してみれば、感慨もひとしおではないでしょうか。

また、広嗣によって告発されたもう一人の人物、吉備真備にしても、現代に至るまで、当時の「大学者」としての漠然とした高い評価が定着していますが……
聖武・孝謙・淳仁・称徳の御代を通じて、南都仏教の害悪が平城京を蝕んでいたとき、いったい何をしていたのか? 皇国を救うために何か一つでも有効な現実的な施策を実行したことがあるでしょうか?
吉備真備は、儒学を以て寵を両朝に受け、位大臣に至り、称して帝師となす。玄昉の宮闈を濁乱するも、而もこれを熟視するのみ。仲満の驕横なる、道鏡の僭竊なるも、而も聞知せざるが如く、相率ゐて拝賀し、仰ぎて法王となして恥じざるなり。
頼山陽「日本政紀」
山陽の史観を全面的に肯定するわけではありませんが、吉備真備の評価については、傾聴に値するのではないかと思います。

結局のところ、政治というのは技術であって、人格の高貴さや学識の高さは、必要条件ではあり得ても、十分条件ではないのでしょう。
天皇の大御心がいかに清らかであらせられても、真備がいかに物知りであっても、政治家として有能であるとは限らないのです。

奈良時代といえば藤原氏が後の権勢の基盤を築いた時代として、その権謀術数が批判的に語られることも多いですが(上の頼山陽も仲麻呂に批判的です)、仏教公伝以来の「中臣」の功績は認めるべきですし、奈良時代においても、広嗣、仲麻呂、そしておそらく百川など、仏教勢力に対抗しようとした者たちが、いずれも藤原の一族だったことは、記憶しておくべきことのように思います。
彼らは確かに、聖武天皇のような純粋な清らかな人格者ではなかったかもしれません。その動機にはたぶんに不純なものも含まれていたに違いありません。
しかし、実際に、皇国の危機を乗り切るための現実的な貢献を成し遂げたのが、(もちろん、和気清麻呂を忘れるわけにはいきませんが)、藤原氏の政治力だったことも、忘れてはならないことのように思います。

目に見えない霊的なことは別問題として……
政治というすこぶる生臭い領域においては、天皇の至純の祈りは、有能な臣下の輔弼を、不可欠とするのかもしれません。
そういう意味では、明治憲法は、本当に、よくできた立派な憲法だったのだと思えますし、「有能」な人材の得難さを思わずにいられません。末期にはよりにもよって近衛文麿とか総理にしてしまいましたからね……このシリーズを見るに近衛に限った話でもなかったようですし。
歴代天皇で読む 日本の正史
続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
続日本紀(中) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
日本思想大系〈49〉頼山陽 (1977年)
posted by 蘇芳 at 01:48| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする