2016年04月30日

藤原広嗣の乱

   

左翼偏向歴史教科書には、仏教公伝も大仏建立も国分寺もあたかもイイコトのように書かれていますが、実際に自分の目で「日本書紀」や「続日本紀」を読んでみると印象は逆転。仏教を大事にされた帝の御代にはロクなことが起きないという気がしてきます。
崇仏で有名な聖武天皇の御代ともなれば、なおさらです。



動画概要:
2013/01/11 に公開
松山城跡は標高128メートルの小高い山の上にあります。天平12(720)年に藤原­広嗣によって築かれた山城だと言われています。松山城は難攻不落の要塞で、戦国大名が­覇権を争ったが、1606年に廃城となりました。現在はふもとから山頂の城跡まで遊歩­道が整備されており、およそ2、30分で登ることができます。山頂からの眺めはとても­素晴らしく、天気が良い日には、周防灘から国東半島まで見渡せる大パノラマが広がりま­す。ロウバイは「松山城跡を守る会」が5年前に植樹しました。鼻を近づけると上品な香­りがして癒されました。

「日本書紀」や「続日本紀」には天災の記録が豊富ですが、古代においてそれが自然現象以上の意味を持っていただろうことは、こちらでも述べた通りです。
聖武天皇の御代にはとりわけ、日蝕、箒星、地震、疫病の記述が多く、不吉な通奏低音を奏でています。

長屋王の変の後、まもなく、藤原四子があいついで病没したことはこちらでも触れましたが、その時の疫病について、「続日本紀」は、
この年の春、瘡のある疫病が大流行し、はじめ筑紫から伝染してきて、夏を経て秋にまで及び、公卿以下、天下の人民の相ついで死亡するものが、数えきれない程であった。このようなことは近来このかたいまだかつてなかったことである。(宇治谷孟訳、以下同じ)
と特記しています。
またこの春以来災厄の気がしきりに発生し、天下の人民で死亡するものが実に多く、百官の人たちも死亡で欠けてしまったものが少くない。まことに朕の不徳によってこの災厄を生じたのである。
という詔もありますね。
また、皇紀1398年(天平10)には、長屋王の遺臣・大伴子虫が、中臣東人を殺害するという事件が起こりますが、「続日本紀」はこの中臣東人をして「長屋王のことを、事実を偽って告発した人物」であると記しています。黒幕が藤原四氏であるとまでは書いてありませんが、長屋王の変が讒言による陰謀であるということ自体は、「続日本紀」編纂の時点では明白だったようです。

長屋王は公的には逆賊・朝敵として誅されたのですから、中臣東人は公的には功労者、それを殺した大伴子虫は逆賊であるはずです。
が、政争に明け暮れた時代ゆえ、事の真偽・善悪の判定も二転三転したのでしょうか。公的な正史であるはずの「続日本紀」には、しばしば、当時の「公式見解」を覆すような記述が散見されるようです。

皇紀1400年(天平12)に勃発した藤原広嗣の乱についても、「続日本紀」の記述は、広嗣に好意的な面があり、事件の背景の複雑さを感じさせます。

乱の原因は、一般に、広嗣が太宰少弐に「左遷」されたことを不満に思ったためと説明されていますが、それだけでしょうか?
広嗣個人の動機がそれだけだったとして、世間の目には、「それだけ」と見えていたのでしょうか?

皇紀1400年(天平12)八月。
広嗣は、挙兵に先立って、まず、上表文をたてまつっています。
八月二十九日 太宰少弐・従五位下の藤原朝臣広嗣が表をたてまつって、時の政治の得失を指摘し、天地の災異の原因になっていると陳べ、僧正の玄昉と右衛士督・従五位上の下道朝臣真備を追放することを言上した。
上で述べた一般通念にしたがって、「天地の災異の原因」を僧侶による悪政に帰しています。
しかし、この上表は容れられなかったのでしょう。
九月三日、ついに挙兵します。
上表からさほど時間もたっていませんから、準備自体は以前から整えていたのかもしれません。逆に言えば、彼が単なる私利私欲だけの逆賊であるのなら、準備が整い次第、さっさと挙兵して、朝廷の不意をつけばいいものを、それをしていないとも言えます。

天皇は勅を下して、大野東人を将軍に、紀飯麻呂を副将軍に任じ、乱の鎮圧にあたらせられます。
広嗣は敗走し、やがてとらえられ、斬首されますが……
その過程で、注目すべき発言を残しています。
まずは官軍と対陣したさいの、勅使に対する対応、
やや時をへて広嗣が馬に乗って出てきて「勅使がやってきたと承ったが、その勅使とは誰であるか」と言いました。常人らが答えて「勅使は衛門督佐伯大夫と式部少輔・安倍大夫である。今この場所にいる者だ」と答えました。広嗣は「今はじめて勅使であることを知った」と言って、すぐ下馬して二回宛二度拝礼し、「広嗣は朝廷の命令を拒むつもりはない。ただ朝廷を乱している人物二人(下道真備と僧玄昉)を却けることを請うだけである。もし広嗣がなおも朝廷の命を拒めば、天地の神々は広嗣を罰して殺すだろう」と言いました。
また、広嗣の乗船が嵐に遭ったときの神霊への訴え、
『自分は大忠臣である。それなのに神霊はなぜ吾を見捨てようとするのか、どうか神力によって暫く風波を静かにさせてください』
などです。
広嗣は自身を「大忠臣」とし、挙兵も君側の奸を除くための義挙であると主張しています。僧・玄昉を排除せよというだけあって、広嗣が誓うのも祈るのも「仏」ではなく「神」に対してです。
これを広嗣の身勝手な屁理屈と決めつけることは、公平でしょうか?
まず、上の記述は広嗣の直接の肉声ではなく官軍側の報告ですから、割り引いて考えるべきですし、後者の神霊への祈りは勅使に対する言葉ではないのですから政治的外交辞令を弄する必要もない場面です。
それに、広嗣が率いていた兵力は、上の官軍との対陣のときだけでも「一万騎」(官軍は六千)の多勢。乱の終結後、処刑・流刑・徒刑などなどで処分された人数は300人規模です。
それだけ多くの人間が、広嗣に従っていた、ということは、単なる地縁・血縁・主従関係・私利私欲だけによるものだったのでしょうか。あるいは、広嗣の主張に共鳴した者たちも含まれてはいなかったでしょうか……

というのも……

広嗣の告発を受け、そもそもの発端になった僧正玄昉ですが。
皇紀1407年(天平十七)十一月十七日、それまで与えられていた封戸と財物を没収されています。
翌皇紀1408年(天平十八)六月十八日、左遷先で死亡。
「続日本紀」はその死に際して、
これより後、天皇のはでな寵愛が目立つようになり、次第に僧侶としての行ないに背く行為が多くなった。時の人々はこれを憎むようになった。ここに至って左遷された場所で死んだのである。世間では藤原広嗣の霊によって殺されたのだと伝えている。
と論評しています。
ここにおて、広嗣が最初に上表したときからの一貫した主張が、「時の人々」によって追認されているのではないでしょうか。
これはかなりきわどい描写であるようにも思います。
逆賊であるはずの広嗣の主張の線に沿って、僧侶の悪政を批判することは、間接的にはその僧侶を重用された聖武天皇をも批判することになりかねないのですから。
そのうえ、「続日本紀」は、玄昉たちの悪政こそ「天地の災異の原因」であるとする広嗣の上表に傍証を添えるかのように、聖武紀に、数々の天体現象や天災の記述を散りばめているのです。
日蝕は毎年のように起きていますし、地震も頻発しています。
皇紀1394年(天平6)四月七日、
大きな地震があって天下の人々の家が壊れた。圧死した者も多かった。山が崩れ川はふさがり、地割れが方々におこり、その箇所は数えきれない程であった。
という地震に際しては、聖武天皇御自身、「今月七日の地震は普通ではなかった」「地震の災害は恐らく政治に欠けたところがあったことによるものであろう」「このごろの天地の災難は異常である。思うにこれは朕が人民をいつくしみ育てる徳化において、欠けたところがあったのであろう」と詔されています。
これ自体は、一種の決まり文句でもあるかもしれません。
しかし、地震の頻発はこの後もさらにつづき、広嗣の乱のあと、大仏建立や遷都が行われたころには、とんでもないことにもなっていきます。

皇紀1404年(天平16)、
四月一日、紫香楽京、西方で山火事。
四月三日、甲賀?寺の東で山火事。
四月八日、伊賀国真木山で火災、三、四日燃えつづけ数百余町延焼。
四月十一日、紫香楽の宮城の東の山で火災。幾日も燃え続ける。
五月一日、地震。
五月三日、地震。
五月四日、地震。
五月五日、地震。
五月六日、地震。
五月七日、地震。
五月八日、地震。
五月九日、地震。
五月十日、地震。
五月十六日、地震。
五月十八日、地震。
七月十七日、地震。
七月十八日、地震。
八月二十四日、地震。
八月二十九日、地震。
九月二日、地震。
と、ざっと拾ってみただけでこれくらいの記述があります。
地震大国日本のことですから、そういうことがあってもおかしくはありません。
が、古代社会において、天災の原因が「悪政」にあると観念されることは、くりかえしますが、自然なことです。
その観念は、「時の人々」にも、聖武天皇にも、そして「続日本紀」の編纂者たちにも共有されていたのではないでしょうか。

そして、広嗣の乱に見られた「仏」と「神」の対比や、玄昉に対する告発、(詳しくはまた次の機会に書こうと思いますが)皇紀1404年の群発地震の半年ほど前に渙発された大仏建立の詔など……
仏教に帰依され、僧侶を重用された聖武天皇の御代に「悪政」というものがあったとすれば、それはやはり仏教的なものをさしていると考えざるをえないのではないでしょうか。
それは」「続日本紀」の成立事情からしても、納得のできる話です。
「続日本紀」の成立は皇紀1457年(延暦16・西暦797)、平安遷都の3年後、桓武天皇の御代です。
平安遷都が南都仏教の害悪との決別を期して行われたとするのならば、その記述が、奈良時代の仏教に対して批判的になるのは、むしろ当然と言うべきではないでしょうか。遷都という一大事業にまで結びつくというのですから、その弊害は一人道鏡のみに関することではなかったはずです。

とすれば、長屋王の変にしても広嗣の乱にしても、後の仲麻呂の乱にしても、藤原氏の権謀術数という単なる「唯物的」な「政争」と見るだけでは、片手落ちもいいところ。
「続日本紀」を読むさいは(「日本書紀」に引き続き)、思想的・宗教的な観点を忘れてはならないのではないでしょうか。
歴代天皇で読む 日本の正史
続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
続日本紀(中) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
posted by 蘇芳 at 01:52| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする