2016年04月25日

鎌倉幕府と神道


大河ドラマなどで「南無八幡大菩薩」という台詞を聞いたことがあると思います。
「南無」というのは、つまり仏教です。
八幡太郎義家の名をあげるまでもなく、八幡神は武家の崇拝した神として有名ですが、続日本紀の昔から、仏教と縁の深い神でもあります(大仏建立にもかかわっていますし、道鏡事件の舞台も八幡宮)。

また、鎌倉時代と言えば、鎌倉仏師による彫刻をはじめとする仏教美術が花開いた時代でもありますし、こちらで映画を見た道元の曹洞宗をはじめとする新仏教が登場した時代でもあります。
元々、教義の根底に「死後の救済」を持つ仏教は、戦に明け暮れる武士の死生観と相性がいい面もあったかもしれません。

しかし、だからといって、武家政権の時代が、仏教一色の時代だったのかというと、決してそんなことはないようです。

こちらでも述べたように、戦国乱世のために長らく途絶していた伊勢の御遷宮が、慶光院の尼僧たちの努力で復興されたことはよく知られていますが、その最大級の貢献者は武家の信長です。そもそも、「戦国乱世のために」中断したということは、それ以前、応仁の乱以前の鎌倉・室町時代には、御遷宮も滞りなく行われていたということでもあります。
また、応仁の乱のころでさえ、神仏儒習合という特殊な形態ではありますが、吉田神道の勃興を見ており、しかもそのパトロンとなったのは足利幕府の御台所・日野富子たちだったのです。

遡れば平清盛が厳島神社を崇敬したことは有名ですが、平家滅亡後、鎌倉幕府によっても、厳島神社には変わらず篤い崇拝が捧げられています。
また、伊豆に配流されていた源頼朝が、平家打倒の兵をあげるさい、戦勝を祈願したのは、伊豆の三島市に鎮座する三島大社だと言われています。

そして、頼朝の敬神は、単に個人的な信仰にとどまるものではありません。
源氏の棟梁であり、鎌倉幕府の初代将軍ですから、彼の敬神は幕府の政策の基本にもなっていきます。

またぞろ孫引きで恐縮ですが、「吾妻鏡」寿永三年(皇紀1844・西暦1184)二月二十五日の条には、
一、諸社の事
我が朝は神国也。往古の神領は相違無く、其の外今度始めて又新しく加へらるべきか。(略)若し諸社破壊顛倒の事あらば、功の程に随って、召し付けらるべき処、功作の後、御裁許せらるべく候。恒例の神事。式目を守り懈怠無く勤行せしむべき由、殊に尋ねて御沙汰有るべく候。
一、仏門寺の事 (後略)
との記述があるそうです。
この引用では神事と仏事はきとんと区別され、しかも順序的には神事のほうが優先、仏事は後に回されています。
引用元の書籍によれば、頼朝は神と仏を峻別し、神国思想を以て神事を極めて尊重、社領の安堵や特権の付与などを行い、社殿の修造にも力をそそぎ、全国の神道勢力の支持を得たといいます。

源氏が八幡神を崇敬したことは冒頭でも述べましたし、よく知られていますが、頼朝は、他にも、上でふれた三島神社に伊豆権現・箱根権現をくわえた伊豆の三社への崇敬も深かったようですし、鹿島神宮、香取神宮、諏訪神社、熱田神宮など、武神への崇拝も深かったようです。武家政権ですから、ある意味、当然です。

そして、何より、伊勢神宮への尊崇は別して深厚だったといいます。
これもまた、当然といえば当然でしょう。
源氏の起源が臣籍降下した皇族である以上、皇祖神はつまるところ源氏の祖先神でもあるのですから。
「吾妻鏡」寿永元年(皇紀1842・西暦1182)二月八日の条には、伊勢の神宮に神宝を奉る奉行を派遣した頼朝の願文が収録されているそうです。
神事を如在に崇め奉りて、正法の遺風を継がしめむ。縦ひ平家と雖も源氏と雖も、不義をば罰し、忠臣をば賞し賜へ。兼て又古今の例を訪て、二宮に新加の御領を申立て(略)皇太神此状を照納せしめむ。上政王より始め、下百司民庶まで安穏泰平に恵護せしめて、頼朝が伴類に臻まで、夜の守りに日の守りに護幸へ給へと恐みて恐みても申して申さく。
(引用元:同上)

これら頼朝の、源氏の神祇信仰、そして幕府の神祇政策については、宗教的にも政治的にも経済的にも、論じることは可能でしょう。しかしそのためには、大前提として、これら鎌倉時代の神事に関する「歴史的事実」を認識しておくことが必要なのは言うまでもないはずです。
現行の、左翼捏造反日歴史教科書は、これらの史実を、どのていどフォローしているでしょうか?
嘆息するほかはありません。

「武士の台頭」といえば、戦後左翼捏造史観においては、「高位」にあった平安貴族を、「下級」の武士階層が実力を以て凌駕し、「なりあがって」いった、という、一種の「階級闘争史観」がでっちあげられてはいないでしょうか?
「唯物的」にはそれも事実には違いないかもしれません。
しかし、そのような「なりあがり」が可能であったことの背景には、もっと他の事情もありえたのではないでしょうか?
神道の文脈で言えば、平安貴族の代表たる藤原氏の祖先神は天兒屋根命に「すぎません」が、源氏・平氏の祖先神は天照大御神であり、後者の方がはるかにずっと格上であるとも言えるのです。
藤原氏から皇位についた人物などは存在しませんが、「源氏」から皇籍に復帰し、皇位につかれた天皇は実在されます。

また、武家政権は「御恩と奉公」による主従関係によって成り立っていますが、家臣に忠誠を要求する主君が、不忠者であっては沽券にかかわるでしょう。
そして、征夷大将軍の主君といえばそれはとりもなおさず天皇陛下です。
幕末に揺らぎ始めた徳川の権威を尊皇思想によって建てなおそうとする動きが、幕府内部からも起こったことはこちらでも述べましたが、「幕府」が「幕府」である以上、徳川に限らず、鎌倉も室町も、構造的には同じシステムを共有していたはずです。
天皇の御存在が、天壌無窮の神勅にさかのぼるものである以上、皇道と神道とが密接不可分のものであることも言うまでもなく、武家政権が神祇を重視すべき動機はさらに増えます。

さらに想像をたくましくすると……
冒頭で、「死後の救済」を眼目とする仏教は、戦を事とする武士の死生観と相性がよかったのではないか、と書きましたが……しかし、死は覚悟しつつも、負けて死ぬために戦をする武士はいないでしょう。人事を尽くすのはもちろんとして、超自然的な存在に戦勝を祈願したいのも本音であるはず。しかし、御仏には「死後」の菩提をゆだねるとすれば、それとは対蹠的な「現世」での加護は誰にゆだねればいいのか?
仏教にも現世利益を主張する宗派はあります。天台・真言の密教がそれですが……これこそまさに平安貴族のための仏教でもあり、何より、武家政権の時代には武装して政治勢力化していました。二重の意味で、あまり依存したい相手ではないのではないでしょうか。
だからこそ、道元たちのような新仏教が勃興したとも言えるのかもしれません。が、天台・真言の平安仏教に対抗するということは、それら密教の二番煎じであっては説得力がありません。鎌倉の新仏教は「現世利益」からは距離を置く必要がありはしないでしょうか?
禅≒瞑想によって戦に臨む覚悟が定まるということならわかりやすいですが、禅=瞑想によって戦勝祈願するというのもおかしな話です。
日本人としては、現世における「御利益」は、文字通りの「神頼み」にゆだねるのが、それよりは自然でしょう。仏教が死後の救済を眼目とするのなら、神道は現世の生命をこそ何より貴ぶのでしょうから。。。
まあ、日本人的には「神仏」ごちゃまぜにしてしまうのも自然ではありますが、それはやはり、あくまでも「仏」をも「神の一種」と見なす多神教的な感覚であるのではないでしょうか。

そういう意味では、やはり、(八幡神や権現など神仏習合の問題はありつつも)、武家政権と神道との関係も、しっかりと踏まえておくことで、日本史の見通しもいささかなりと良くなりうるのではないかと思うのです。
わかりやすい神道の歴史
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posted by 蘇芳 at 01:35| 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする