2016年04月23日

根葉果実説・吉田神道・儒家神道


こちらで見たように一口に神仏習合といってもその主張はさまざまですし、歴史的な変化・発展の跡も見られるようです。
「南都仏教の弊害」を逃れるために行われたと言われる平安遷都の後に、なぜまた性懲りもなく比叡山延暦寺の「仏教」を育成したのか、神道との関わりの中でとらえないかぎり、意味不明ではないでしょうか。後の僧兵の跋扈を知っていればなおさらです。
奈良時代に比べれば多少の改善は見られたようですが、本地垂迹説を発展させて天台宗が山王神道を、真言宗が両部神道を創始したように、いずれにせよ、平安時代の神道が仏教の影響を免れなかったことは、残念ながら事実のようです。

もともと神仏習合論は仏教が日本にもぐりこむために弄した詭弁のようなものでしたが、こうして仏教の勢威が強くなっていくと、やがて攻守が逆転してしまうのも自然ななりゆきというものでしょう。生き残りをかけて理論武装しなければならないのは、今度は神道のほうです。
やがて時代が下ると、これら仏教サイドからの神仏習合論に対して、神道サイドからも神仏習合論が唱えられるようになっていくようです。

根葉果実説(根本枝葉果実説)

神道を根本、
儒教を枝葉、
仏教を果実、
という関係でそれぞれを整理し、役割の分担も説いているのがこの根葉果実説(根本枝葉果実説)です。
神道を最も根本におくという意味で重要視していますし、仏教を果実(≒結実)としているのですから軽視もしていません。

特徴的なのは儒教の要素も大きく取り入れられていることで、「神仏習合」というよりは、「神儒仏習合」というべきかもしれません。儒教道徳≒君臣論を取り入れたため、「御恩と奉公」に依って立つ武家政権と相性がいい説だったのかもしれません。
これが説としていつごろから唱えられたものなのかは浅学なのでよくわかりませんが、実際、この説に立つ「神道」が宗派として大きな社会的影響力を獲得していくのは、中世以降。ちょうど応仁の乱の前後からだそうです。
いわゆる「吉田神道」。

まあ、応仁の乱云々ということは、実は吉田神道の最初の後援者となったのは日野富子たちだったそうで……
戦国乱世を招来した連中との関わりが深かったというのも、かなりのいかがわしさを感じさせますが。
それまで仏教側から仏教に都合の良い形でしか提示されてこなかった神仏習合論を、神道サイドから提起した、一種の「反撃」として評価すべきには違いないでしょう。

それまで神祇伯家(白川家)に独占されていた神道祭祀のなかで、吉田神道は、それに匹敵する影響力を持つに至り、戦国時代以降、幕末までその命脈を保つことになります。
裏を返せば、この「吉田神道」こそ、維新後の明治政府による廃仏毀釈の直接の対象でもあったのかもしれません。また、そうなるに至る過程では、尊皇攘夷思想に伴う「儒家神道」の勃興があり、吉田神道への批判も高まっていったのではないでしょうか。

儒家神道

これはもはや神仏習合ではなく、むしろ廃仏的なのですが……

上で見たように根葉果実説は「神・儒・仏」の三位一体を説きます。
これに対して、仏教要素を排して「神・儒」の一体を説いたのが、儒家神道です。
儒教道徳に基づく君臣論・名分論が、神道、とりわけ皇祖神への崇拝と強く結びついたようなもので、光格天皇のころからの尊王論・国学の隆盛とも関係していたようです。
儒教というのは日本においては宗教というより学問ですからさまざまな学派があり、
「理当心地神道」
「後期伊勢神道」
「吉川神道」
「垂加神道」
など、儒家神道もさまざまに分化していったようです。いわゆる「水戸学」も儒家神道としての性格を色濃く持っていると言えるのかもしれません。
こうなるとまさに百家争鳴という印象です。
吾れ嘗て称す、王業衰へて神道興ると。何となれば即ち、これ祖宗の事なればなり。王政の盛時に当り、誰れか敢てこれを口舌に騰げ、以て私説を樹てんや。
頼山陽「日本政記」
と頼山陽が言ったのは、まさにこのことかというところでしょうか。
頼山陽自身「日本外史」などベストセラーを著して尊皇の志士に大きな影響を与えた人物(史観自体は講談を元にしていたりする部分があり批判されたりもするようですが、それだけに広く浸透しやすかったという意味では、江戸時代の渡部昇一といったところでしょうか)ですが、「日本政記」を読むと、古代の聖帝たちの御代を理想視しつつ、その後の「堕落」を嘆き、政治的に批判する性格も強い一冊です。それだけ「王業」の「衰へ」への危機意識が強かったということでしょうか。
幕末の志士≒明治の元勲がその影響を強く受けた、ということは、まさにその「王業」の復興を標榜した明治政府の政策とも、かかわってくるのではないでしょうか。

明治政府の神道政策は、特に議会開設以降は時々の政局に左右され二転三転したようですが、その初期において、いったんすべての神社を国家管理の下においたかと思えば、一部国家的に重要な神社の他はわりとすぐに「民営化」してしまったそうです。
そのときの元勲たちの認識としては、孫引きで恐縮ですが、
「祭政一致は宮中の皇室祭祀で十分であり、神社祭祀との関連を必要としない」(森有礼)
「祖宗の神霊、皇室の先祖神と、他の一般の神社の祭神との間にはっきりとした一線を引き、決して混同してはならない」(伊藤博文)
「富国強兵が国家の至上課題。神社に対しては官祭における幣帛共進で充分であり、国家が抱え込む必要はない」(山縣有朋)
などといったものだったようです。
山縣の見解は予算の都合というやつで、ある意味一番の本音かもしれませんが、さすが伊藤の見解には尊皇思想の色が濃いように思います。
明治天皇に東照大権現(≒徳川家康)に頭を垂れていただいて良いものか、という問題もありますが……
明治初期において、神道は何よりもまず「即ち、これ祖宗の事」だったのではないでしょうか。

私などまだまだ浅学でそれ以上どうこうと論じることもできませんが……
それでも、こうして神道の歴史を少々かじっただけでも、「日本書紀」の昔はもちろん、奈良、平安、武家政治の時代から、明治維新の大業、ひいては現代に至るまで、神道を無視して、日本の歴史の記述など、本来、成り立ちうるはずがないのではないか、とは、思えるのです。
わかりやすい神道の歴史
日本神道史
吉田神道の四百年 神と葵の近世史 (講談社選書メチエ)
ラベル:儒教 神道 仏教
posted by 蘇芳 at 01:24| 神道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする