2016年04月21日

「天武・持統朝」の一側面


こちらで述べた通り、壬申の乱において、大海人皇子率いる吉野方は一種「神道勢力」として描写されています。
その報恩という意味でもあるのでしょうか?
第四十代天武天皇・第四十一代持統天皇の御代、「日本書紀」には神祇祭祀の記述が飛躍的に増加しています。

大祓や新嘗祭はもちろん、石上神社に皇子をおつかわしになり「神宝の武器を磨かせた」などの記述もあります。
わけても広瀬大忌神・竜田風神の二社は特に尊崇せられたらしく、毎年のように祭祀を行われたことが記述されています。






wiki:
廣瀬大社
龍田大社

天武・持統朝というと、反日捏造史観では律令制の完成云々ということが強調されます。
そして律令は大陸の模倣であって云々と媚中洗脳がはじまるわけですが……

そもそも、この時期、こちらで述べたように、唐の侵略にそなえて武力を増強し、国民国家としての制度を整えていったことには、国家防衛、独立の維持といった意味があったことが明白です。
それで侵略者を崇拝していれば世話はないというものです。
(明治維新の和魂洋才と同じく、敵から身を守るためにこそ、敵の技術を学ぶ必要があった、と、考えたほうがよいのではないかと個人的には思います)

そもそも、浄御原令にせよ大宝律令にせよ養老律令にせよ、日本は日本独自の律令を定めたということが重要ではないでしょうか。
ちなみに、一方の新羅は唐の属国となった=唐の律令の支配下に入った結果、独自の律令というものは制定さえしていないといいます。
独自の律令を制定したのは、日本が支那を崇拝していたからではなく、日本が支那の支配を受け入れない独立国家であったからに他なりません。

日本の律令の独自性は、「神祇令」の存在ひとつをとってみても明らかではないでしょうか。
「神祇令」はその名の通り、日本固有の神道神祇のあり方を定めたもので、神道の存在しない国とその内容が共通するはずもありません。
伊勢の式年遷宮を定められたのも天武天皇なら、第一回の遷宮が行われたのは持統天皇4年(皇紀1350年・西暦690年)とも言われています。
いわゆる「天武・持統朝」とは、そのような時代でもあったということを、見落としてはならないのではないでしょうか。。

天武・持統朝にかぎらず、その後も、戦後日本の自称「歴史」は神道祭祀を軽視すること甚だしいですが(一例をあげれば、南都仏教との決別のために実行された平安遷都において、なぜ空海・最澄ばかりがもてはやされるのか。京都には今でも多数の神社がありますが、創建の多くは平安遷都後です。が、それらに言及した通史というのは驚くほど少ないようです。また、戦国乱世に長らく途絶していた伊勢の式年遷宮が織田信長らの尽力によって復興したことはこちらでも述べましたが、戦国乱世のために、ということは、それ以前の鎌倉時代には遷宮は滞りなく行われていたということでもあります。が、鎌倉仏教に対して鎌倉「神道」が云々される機会は極端に少ないのではないでしょうか)、「神勅」にもとづいて「天皇」のしろしめされる「日本」の歴史を語るにさいして、これこそ、異常というべき事態ではないでしょうか。

つまるところ、神道を大切にすべきなのは当然ですが、「日本を取り戻す」というのなら、何も知らないままただ参拝していればいいというものではなく、日本の歴史において果たした神道・皇道のはたらきを、しっかりと見極めておかなければならないのではないでしょうか。
神道の歴史。あるいは歴史の中の神道。
皇道と神道のかかわりを考えれば、それは最近良く言われる「天皇の日本史」と不可分のものであるようにも思えるのです。
歴代天皇で読む 日本の正史
日本書紀(下)全現代語訳 (講談社学術文庫)
わかりやすい神道の歴史
図説 あらすじでわかる! 日本の神々と神社 (青春新書INTELLIGENCE)
日本神道史
posted by 蘇芳 at 19:26| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする