2016年04月20日

壬申の乱


八紘一宇の理念を提唱された初代神武天皇にはじまり、唐による侵略の危機に敢然と立ち向かい「日本」の国号をお定めになった天智・天武両天皇の御代に至る「日本書紀」は、政治思想的には、「国民国家・日本」の自覚と宣言の書と言って良いのではないでしょうか。
そして、皇道と神道とが不可分のものである以上、それは同時に、宗教思想的には神道崇敬の書とならざるをえないように思います。

思えば、「日本書紀」の扱う時代において、日本に最も大きな災いの根源は、多くの場合、朝鮮半島であり、仏教もその半島国家からもたらされました。
半島国家そのものについては、白村江以後、縁が切れましたが、仏教とそれを奉じる者たち、その後も国内で活動しつづけます。
「仏教勢力」vs「尊皇敬神の志士」という構図は、大化改新の後も、なお、尾を引き続けているように見えます。

壬申の乱の勃発直前、皇紀1331年(天智天皇10年)、大友皇子は内裏西殿の仏像の前で、主だった臣下を集めて、誓約を交わされます。
大友皇子は手に香鑪をとり、まず立ち上がって、「六人は心を同じくして、天皇の詔をうけたまわります。もし違背することがあれば、必ず天罰を受けるでしょう」云々とお誓いになった。そこで左大臣蘇我赤兄らも手に香鑪を取り、順序に従って立ち上り涙を流しつつ、「臣ら五人は殿下と共に、天皇の詔を承ります。もしそれに違うことがあれば、四天王がわれわれを打ち、天地の神々もまた罰を与えるでしょう。三十三天(仏の守護神たち)も、このことをはっきりと御承知おきください。子孫もまさに絶え、家門も必ず滅びるでしょう」云々と誓いあった。(宇治谷孟訳、以下同)
見ての通り、壬申の乱の敗者・大友皇子の一党の盟約は、多分に仏教的なニュアンスを帯びています。
そしてこの誓約に参加した五人の臣下は、
左大臣・蘇我赤兄臣
右大臣・中臣金臣
蘇我果安臣
巨勢人臣
紀大人臣
です。
天智天皇の詔を奉じて皇太子に忠誠を誓っているのですから、中臣や巨勢、紀といった有力豪族が参加していることに不思議はありませんが、注目すべきは「蘇我」の名を持つ臣が二人も参加している点でしょう。
最高位であり、皇子に続いて最初に誓っている蘇我赤兄が、この五人の中心人物と言ってよさそうですが……
実はこの蘇我の赤兄には、かなり胡散臭い過去があります。

皇紀1318年(斉明天皇4年)十一月のことでした。
蘇我赤兄は、有間皇子(舒明天皇皇子、母は阿部倉梯麻呂の娘・小足媛)に近づき、謀反を唆します。その上で、蘇我赤兄は有間皇子に謀反の心あり、と通報。有間皇子はとらえられ、処刑されます。
書紀の記述では、唆された有間皇子もその気になったことになっていますから、処断はやむなしとも言えますが、赤兄による謀略・罠の類には違いありません。赤兄の独断だったのか、あるいは中大兄皇子の関与があったのか、事件の全容は謎です。が、この件で赤兄が処罰された形跡はなく、天智天皇の御代に上述のように左大臣にまで栄達していることは事実のようです。
この蘇我赤兄、蘇我倉麻呂の子であり、蘇我馬子からは孫にあたるそうです。

さらにさかのぼると、こちらで述べた、忠臣・蘇我倉山田石川麻呂の悲劇があります。
無実の倉山田石川麻呂を讒謗したのは、蘇我臣日向でしたが……
この石川麻呂と日向は実は兄弟。父は共に、蘇我倉麻呂だといいます。
つまるところ、蘇我赤兄とも、兄弟ということです。

さらにさかのぼると、皇紀1305年(大化元年)、古人大兄皇子もまた謀反の廉で討伐されますが……
このとき、皇子とともに謀反を計画した一味の首謀者は蘇我田口臣川堀だったと言います。
古人大兄皇子自身、蘇我馬子の娘・蘇我法提郎女を母に持つ皇子だったことは、こちらをはじめ、くりかえし確認してきたところです。

要するに、赤兄にかぎらず、大化改新後に企てられた謀反や陰謀のかげには必ず蘇我氏に連なる者の蠢動があったのです。
蝦夷・入鹿の滅亡後も、蘇我氏がなお隠然たる勢力をはびこらせていたことがわかりますし、次から次へと謀反・陰謀を画策する一族が、尊皇敬神愛国の忠臣であるはずもありません。
これを要するに、中大兄皇子の外舅となり、孝徳天皇に神祇優先の奏上を行った蘇我倉山田石川麻呂こそが、蘇我氏のなかでは例外的な人物であり(だからこそ罠にはめられ、殺された?)、蘇我氏の本流はなお逆賊でありつづけた、ということではないでしょうか。
その蘇我氏の赤兄が天智天皇の御代に左大臣にまで栄進していることは謎ですが……陰謀をよくする一族だけに、嘘をつくのが上手かったのかもしれません。似非右翼があからさまな左翼より悪質なのは、尾崎秀実の例を引くまでもなく、古代も近代も(そして現代も)同じなのかもしれません。
大化改新後の政局は依然複雑怪奇であり、中大兄皇子が称制も含めれば22年もの間、正式な即位を避け続けられたことも、あるいはこの情勢と関係しているのでしょうか?

天智天皇の崩御後、これだけのバックボーンを持つ蘇我赤兄・蘇我果安が、仏教的なニュアンスの強い盟約を主導した、というのが、つまり上で見た書紀の場面のようです。
これを素直に読むならば、若き大友皇子は、仏教勢力に「とりこまれ」ておしまいになった、と、見えてしまいます。

これに対して、大海人皇子(天武天皇)の側はというと……
すでにこちらで簡単に触れましたが、明白に、「神道勢力」として描写されています。
皇子は和蹔に帰り、天皇は野上に行宮を設けられた。この夜雷鳴があり豪雨が降った。天皇は祈り占って、「天地の神々よ、私を助けて下さるのであれば、雷雨をやめ給え」といわれた。言い終わられるとすぐに雷雨は止んだ。
これより先、金綱井に終結した時、高市軍の大領の高市県主許梅は、にわかに口をつぐんでものを言うことが出来なくなった。三日の後、神憑りのようになって言うのに、「吾は高市社にいる事代主神である。また身狭社(牟佐社)にいる生霊神である」といい、神のことばとして、「神武天皇の山稜に、馬や種々の武器を奉るがよい」といった。さらに「吾は皇御孫命(大海人皇子)の前後に立って、不破までお送り申して帰った。今もまた官軍の中に立って護っている」といった。
以上、いずれも壬申の乱中、吉野方の描写ですが……
大海人皇子には、神道の神々の加護があり、神から「皇御孫命」と認められ、またその軍勢は「官軍」と認められています。
日本書紀における壬申の乱の描写は、明らかに、「神道・官軍」vs「仏教・賊軍」という構図の中にあるのです。

もちろん、日本書紀自体、天武天皇の勅命で編纂された書です。しかも編纂の中心人物・舎人親王は天武天皇の皇子。「日本書紀」自体は考古資料とも外国の史書ともよく整合する、かなりの信憑性のある歴史書ではありますが、もしそこの美化・潤色の類があるとすれば、天武天皇の御代は最もその疑いが濃厚であるかもしれません。いわゆる勝てば官軍・死人に口なしの類と疑うこともできるかもしれません。

しかし、上で見たように、また、これまでにも見てきたとおり、蘇我氏と百済経由の仏教の悪行三昧の歴史を鑑みれば、天武天皇による美化・潤色の疑いはあるものの、その意図について邪推をたくましくすることには慎重になりたい気がします。
こちらでも見た通り、天智天皇の治世を継承し、半島との断交の姿勢をいよいよ明確にされたのは、天武天皇であらせられました。「天皇」「日本」の号の使用も、あらためて宣明されています。そもそも、「日本書紀」が、冒頭で述べたように「国民国家・日本」の自覚と宣言の書にほかならないのだとすれば、その編纂をお命じになった天武天皇が、「皇御孫命」としての責務をお果たしになったこと自体は、間違いないように思うのです。
こちらでも述べましたが、自己規定の宣言は、宣言した本人を拘束するものでもあります)
日本書紀(下)全現代語訳 (講談社学術文庫)
歴代天皇で読む 日本の正史
日本神道史
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民主党の正体−矛盾と欺瞞と疑惑に満ちた、日本人への恐怖の罠(OAK MOOK 305 撃論ムック)
ラベル:日本書紀 天皇
posted by 蘇芳 at 02:16| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする