2016年04月19日

【動画】白村江の戦いと国民国家・日本の誕生


武田・上杉は、兵を用ふるに巧にして、利を収むるに拙なり。織田・豊臣は、兵を用ふるに拙にして、利を収むるに巧なり。
頼山陽「日本政記」
別に頼山陽を引くまでもなく、戦争というのは武力を以てする外交であり、何回勝っただの何人殺しただのという目先の数字より、政治的獲得目標を達成したかしなかったかが問題です。戦術は戦略の手段にすぎず、戦略は政略の手段にすぎない。
帝国陸海軍は事実上世界最強でしたが、伊藤博文はじめ、陸奥宗光、小村寿太郎らの外交力なくして日清・日露の勝利はなく、第一次大戦の殊勲者は大隈や加藤ではありえても原や山縣ではありません。昭和においても帝国陸海軍は依然として精強無比でしたが、惜しむらくは外交力たるやスパイと官僚主義に毒されて惨憺たるありさまだったことが最大の敗因ではないでしょうか。
古代においても、この「戦争」の現実は何ら変わることはないでしょう。
白村江の「敗戦」の意味についてはすでにこちらでも述べましたが……その得失をもう一度確認しておきましょう。



この動画だけだとよくわかりませんし、日本が負けた負けたと言いたいだけの反日教科書ではなおさらわかりませんし、ついでにいえば大陸情勢について書かれていない「日本書紀」でもよくわかりませんが……このときの半島での戦争の発端はそもそも唐の侵略です。

唐の目当ては高句麗の征服だったと言われています。そのために新羅を誘って高句麗の後背をつかせようとしました。そこで新羅を釣るための餌が、百済だったようです。「百済侵略を手伝ってやるから高句麗侵略を手伝え」というわけですね。計画の絵図を書いたのは則天武后だと言われているようです。
この目先の利益に尻尾を振ってくらいついたのが新羅。まあ、新羅らしい話ではあります。
したがって、「日本・百済連合軍」vs「唐・新羅連合軍」というのは、表面上は事実ですが、実態は「連合」などという上等なものではありません。唐が飼い主なら新羅は飼い犬、よくて鉄砲玉といったところでしょうか、目先の利で釣ってやればどちらへも転ぶゴロツキの類です。
そうでないというのなら、その後の新羅の行動が意味不明すぎます。

白村江の戦いは、皇紀1323年(天智天皇2年・西暦663年)。
唐の使者・郭務悰が筑紫に遣わされ、追い返されたのが、翌皇紀1324年のことでした。
日本が水城を築き、防人を置いて、唐の侵略に本格的に備えはじめたのもこの年からのことです。

翌皇紀1325年にはまた唐の使者・劉徳高が日本を訪問、日本からは遣唐使を派遣、
皇紀1327年には、唐の百済鎮将が、日本側の捕虜を筑紫に送還、
などなど、対等の戦後処理外交が展開されています。
ここにナンチャッテ戦勝国・新羅の名は見えません。
かわりに、高句麗、耽羅(済州島)などの半島国家が、しきりに日本に朝貢してきています。これ自体は唐の脅威に怯えて日本の後ろ盾を求めた、という、わかりやすい話ですが……
笑えるのは、皇紀1328年、新羅までが金東厳を遣わし、日本に「朝貢」していることです。
おかしいですね、戦勝国サマではなかったのでしょうか?

その後も、新羅の日本への朝貢は、皇紀1329年九月、皇紀1331年十月、皇紀1333年六月、皇紀1335年二月、皇紀1336年十一月、皇紀1338年(暴風で遭難、漂着)、皇紀1339年十月、皇紀1341年十月、皇紀1343年十一月……などなど、天武天皇の御代になってもまだ延々とつづいています(以上の日付は「歴代天皇で読む 日本の正史」による。まだ見落としがあるかもしれません)

これを要するに、新羅もまた、今さら唐を恐れ、日本の顔色をうかがい、後ろ盾にしようと媚びへつらっているということですし、そこにはわかりやすい「理由」もありました。自業自得の類ですが。
動画の地図にチベットが登場していましたが、唐は半島に出先機関を置き、チベットとの戦争を始めたようです。高句麗を抑えて後顧の憂いがなくなった、ということでしょうか。
すなわちこのとき、半島における唐の兵力はわずかでした。目先の小利に目がくらんで、この小兵になら勝てると踏んだのでしょうか。後先のことを考えないこと甚だしいですが、新羅が唐に反乱、出先機関を襲って半島を「統一」したのが、皇紀1336年(天武天皇5年・西暦676年)のことでした。
が、日本を裏切り、唐を裏切った、二枚舌の蝙蝠外交の行く末は、容易に理解できるでしょう。

新羅は確かに毎年のように朝貢してきましたが、日本は、これに都に入ることを許さず、筑紫で饗応して帰国させるようになっていきます。まあ、追い返す、と表現するのが適当でしょう。
日本の後ろ盾が得られなければ、新羅が独力で唐に抗しうるはずもありません。飼い主の手を噛んだ飼い犬の末路はキツイおしおきと隷従の日々でした。
日本の知ったことではありません。

日本は防備を固めつづけました。
皇紀1324年(天智天皇3年)、筑紫、対馬、壱岐に水城・狼煙台・防人、
皇紀1326年(天智天皇5年)、筑前、対馬など各地に水城・狼煙台・防人、
皇紀1327年(天智天皇6年)、大和に高安城、讃岐に屋嶋城、対馬に金田城、
皇紀1329年(天智天皇8年)、生駒山地南端に高安城、
皇紀1330年(天智天皇9年)、長門に一城、筑紫に二城、
など、天智天皇の御代は防備の充実に明け暮れた観があります。

また、皇紀1327年(天智天皇6年)には、斉明天皇の遺詔にしたがって、大規模山稜の築造を行わないことを決せられ、前方後円墳の時代が終了しますが、これも労力・国費を国防に充てるためと考えれば理解しやすいでしょう。
同年の近江大津京への遷都、皇紀1330年の「庚午年籍」なども、この流れで理解する必要があるようです。
「庚午年籍」は日本初の全国的な戸籍ですが、つまるところこれが動画で言われている「国民」国家として重要な政策であったことは論を待ちません。

そして天智天皇が初めて正式に「日本」という国号を使用されたのも、同じ1330年のこと。
これは唐の正史「新唐書」にも半島の正史「三国史記」にも記載されている史実であると言います。
この政策は壬申の乱を挟んでなお天武天皇にも継承され、皇紀1336年(天武天皇5年)、天武天皇もまた「天皇」の称号、「日本」の国号を、あらためて定められ、大陸にも半島にも正式に通知されています。
これすなわち、独立国家・国民国家「日本」の、内外に対する公式声明、といってよいものです。

白村江以後、上で述べた戦後処理外交の中で、唐は他にも何度か大兵力を派遣し、甘言を弄して、日本の服属を求めた形跡がありますが、日本は武力の充実を背景に、敢然としてこれを退け、実際に戦火を交えることなく、独立を守り抜いたことになります。
平和主義者は武装せよ、とは、まさにこのことではないでしょうか。

そして、天武天皇が「古事記」「日本書紀」の編纂をお命じになったのも、同じ皇紀1336年(天武天皇5年)のことと伝えられていますから、当然、それもまた単なる文教政策ではなく、この国難のなかで把握すべきものに違いありません。
新来の百済難民はもちろん、蝦夷や熊襲といった多数の民族をひとつの「国民」としてまとめ上げていく、八紘一宇の理念が、このときほど必要とされたことはないのです。
守るべき「日本」とは何か、「日本書紀」には、それを明らかにする思想的使命が負わされていたのではないでしょうか。
(天武・持統朝といえば律令国家の成立、律令制はちうごくサマのパクリ、中華万歳、という、自虐史観がどれほど失当かも、この歴史を見ればよくわかるのではないでしょうか。確かに大陸の制度は「利用」しましたが、それはまさに大陸に「対抗」するための手段としての和魂漢才。要は明治維新と同じ「大攘夷」の類だったのです。大陸万歳どころか、記紀の編纂には「国学」の隆盛をこそ見るべきかもしれません)

「日本書紀」は国家意識が強い、と、よく言われます。
だからといって、非難がましい言われようをされなければならない理由が、どこにあるでしょうか。
こちらで述べた通り、国家意識≒国家の正統性を明らかにすることは、国家にとって当然に必要な作業です。国難の時に当たってはなおさらです。
「日本書紀」の思想的側面が意味するところは、すなわち、日本には国を挙げて危機に立ち向かい、独立を守り抜く誇りと気概があり、それを実現する実力があった、ということにほかなりません。
目先の小利にたやすくつられ、他国の力を頼んで後先も考えずにあさましい欲望を貪ろうとした結果、実質的な独立を失い、1000年の隷従によろこんで甘んじた卑屈な国こそ、「歴史」に学ぶべきではないのでしょうか。

歴史はくりかえす。

戦火を交えずに獲得する外交的勝利が、武力の充実を背景にしてこそ達成されたこと、歴史認識、国家意識、「国民」の自覚の重要性、などなど……
天智・天武両天皇の御代は、現代にも通ずる教訓に満ちているのではないでしょうか。
歴代天皇で読む 日本の正史
日本書紀(下)全現代語訳 (講談社学術文庫)
日朝古代史 嘘の起源 (別冊宝島)
知っていますか、任那日本府
韓国の妄言−韓国・朝鮮人はなぜこんなに尊大なのか?
韓国とかかわるな!韓国とかかわると人も国も必ず不幸になる-Kの法則
誅韓論 (晋遊舎新書 S18)
中国・韓国を本気で見捨て始めた世界: 各国で急拡大する嫌中・嫌韓の実態 (一般書)

追記:
こちらで見た通り、鬼室福信・黒歯常之など、百済にはそれなりに尊敬すべき忠義の臣もいたようです。後世で言えば金玉均や朴泳孝などのような一部の開明派のようなものでしょうか。しかし、そんな「一部」の人士も、百濟王自身の手で殺害されるに至ること、金玉均の例と同様です。これもまた歴史はくりかえす一例でしょうか。
そもそも百済独立のために日本が支那と戦うというのは、そのまま日清戦争と同じですし、敵が半島に迫れば日本が危ない(だから助けなければいけない)という固定観念自体、その後も長くつづく錯誤ではないでしょうか。
実際には、白村江はもちろん、元寇、日清・日露、大東亜戦争、朝鮮戦争、と、緩衝地帯としてさえ、あの半島が日本の役に立ったことなど一度としてなく、むしろ元寇などは朝鮮こそが主犯でさえあるのですから……
posted by 蘇芳 at 02:41| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする