2016年04月17日

「史上初の重祚」


こちらで「史上初の譲位」を行われた皇極天皇。
孝徳天皇の崩御後には、「史上初の重祚」をも行わせられます。
皇紀1314年(白雉5年・西暦654年)、第三十七代斉明天皇と申し上げます。

皇極・斉明天皇の即位事情についてはこちらの動画を見たこともありますが……

古人大兄皇子、山背大兄皇子、軽皇子などが後継候補としておいでになった、皇極天皇の最初の即位はまだしも、斉明天皇の二度目の即位については、必要性が今一つわかりにくいところがあります。

中大兄皇子は、すでに孝徳天皇の御代に皇太子だったのです。
天皇が崩御されれば、すみやかに皇太子が践祚されるのが順当です。
しかし、なお、女帝の二度目の即位が要請されました。
斉明天皇の御代でも、中大兄皇子はひきつづき皇太子でいらしたのですから、政治的な都合で排除されたわけでもありません。
(そもそも逆賊討伐の殊勲者でもあり、大化改新の指導者でもある皇太子に、誰がよく抗しえたでしょうか。皇太子の勢威が、畏れながら孝徳天皇をさえ凌いでいたことは、こちらでも触れた皇紀1314年(白雉5年)の事件からも明らかでしょう)

八幡和郎「最終解答 日本古代史 (PHP文庫)」には、古代の天皇は「30歳以上」が必要条件であり、中大兄皇子はまだその年齢に達していなかったのだ、と、推定しています。
確かに一理はあるかもしれませんが、古代天皇実年齢の推定に左右されてしまう説ですし、そもそも仮定にすぎません。
また、それがどれほど厳密な「ルール」だったのかも不明です。平安時代には、清和天皇以後、むしろ成人後の即位のほうが例外的になってしまうありさまですが、古代においてそれほど厳然たるものだったルールが、いつのまにかくも甚だしく無視されるようになってしまったのか……一つの出来事を説明するために設けた仮説が、また新たに説明を要する疑問を増やしてしまうというのは、感心しません。

ちなみに、孝徳天皇の在位9年、斉明天皇の在位6年。合計で15年になります。
15年経ってようやく「30歳以上」に達したということなら、中大兄皇子、乙巳の変の頃は本当にお若かったのですね、ということになりそうです。まあ、幕末維新の志士をはじめ、昔の人はそんなものだったかもしれませんが。しかし中大兄皇子の場合は、皇極天皇崩御後も「称制」といって即位しないまま統治をつづけておいでです。実際に皇位におつきになったのは実に7年後。これを15年に加えると……22年? 「30歳以上」が「正解」だというのなら、本当に、乙巳の変のときは何歳でいらっしゃったんだという話です。

さらにちなむと、その15年前(22年前)、孝徳天皇は即位されていますから、八幡氏の「仮定」が事実とすれば、軽皇子はその時点で30歳に達しておいでだったことになりますが、その時点で、軽皇子は古人大兄皇子のほうが自分より「年長」であるとおっしゃっています。
古人大兄皇子がすでに30歳を超えておいでだったというのが本当なら、古人大兄皇子の擁立を目論んだ蘇我蝦夷・入鹿が皇極天皇の「中継ぎ」を必要とした理由は、皇子の年齢が理由ではなかったことになるようです。
(皇極天皇の在位は3年しかありませんし、入鹿が山背大兄皇子を亡ぼしたのは早くも皇極天皇2年のことです。そんなに事を急ぐくらいなら、最初から「中継ぎ」などしなければよさそうなものです。バカ息子の入鹿はともかく、蝦夷には皇子の年齢以外にまた別の理由があったのではないでしょうか)

このあたりの数字の辻褄は、考えれば考えるほど、頭が混乱してきますが……
「中継ぎ」の必要性を「年齢」だけに単純化するのは、少々、納得のいかないものがなきにしもあらずです。

では、いったい何のための二度目の「中継ぎ」なのか、ですが……

稲目以来の蘇我氏の専横は、外戚の地位と同時に、仏教をもその背景にしていました。
であれば、廃仏派の神祇氏族・中臣鎌足と、皇族・中大兄皇子によって実施された乙巳の変・大化改新は、それとは逆に、神道の復興という性格を持っていただろうこと、言うまでもないと思います。
こちらでも見た通り、孝徳天皇の御代には、(天皇ご自身のご意向はさておき)、「神祇優先」の文言が多く見られます。
しかしまた、改新の詔を各条ごとに見れば、土地、戸籍、租税にかかわる現実政治的な内容であること、論を待ちません。
天皇や神道という宗教的権威を背景に持ちながら、皇太子と鎌足が実施しようとしたのは、あくまで、地上の政治だったのでしょう。
それを実行するためには、天皇よりは皇太子の位にありつづけるほうが、都合がよかったのだ、と、普通に解釈しておくのが、やはり順当なのではないでしょうか。

神道を復興すれば、自動的に、天皇の宗教的権威は高まります。
勢い、天皇の務めは「まず神事、後に他事」となり、政治家としてのそれよりも宗教家としてのそれが求められることになるでしょう。
蘇我倉山田石川麻呂は、実際に、孝徳天皇にそのように奏上しています。
あるいは、それは、孝徳天皇を地上の政治から遠ざけ、皇太子が実権を握るために必要な措置であったのかもしれません。
しかして、孝徳天皇が崩御されたからといって、ただちに皇位についてしまえば、今度は皇太子自身が、「地上の政治」から遠ざかってしまうということにならざるをえません。一種の「ブーメラン」ですねw
(冗談のようですが、力によって何でも自分の意思をほしいままにできる地上的「権力」とは違って、宗教的な「権威」にとって、言行不一致は存在意義にかかわりかねません)
血気盛んな若者としては、しかつめらしい神事・儀式は母帝にお任せして、現実的な政治に辣腕をふるいたい、という意図が、皇太子の胸中に、ありはしなかったでしょうか。

まあ、これもどこまでいっても推測ですが……

いずれにせよ、この時期の中大兄皇子が、すでにして勢威ならぶ者のない第一人者であられたことは間違いないでしょう。
あと何年か即位が遅れても構うことはない、むしろそのほうがいろいろとやりやすい、ということがあったとしても不思議ではありません。
仏教公伝以来の争闘が終結して、皇室にもそれだけの余裕が出てきたというところでしょうか。
斉明天皇は斉明天皇で、難しい政治は皇子に任せて、しばしば湯治などをされていたようで……国内だけに限ってみれば、読んでいて微妙に和む御代です。
帝と皇太子の母子関係によって、いわゆる「権威」と「権力」の分業が、上手く機能していた御代だったのかもしれません。

しかし……
好事魔多しというべきでしょうか。あるいはネットスラングというか有名なAAを思いだしてしまいそうですが。
例の半島が、またぞろ厄介ごとをもちこんできたのも、この御代のことでした。
皇紀1320年(斉明天皇6年)、百済滅亡(二回目)、です。

日本書紀(下)全現代語訳 (講談社学術文庫)
歴代天皇で読む 日本の正史
日朝古代史 嘘の起源 (別冊宝島)
知っていますか、任那日本府
最終解答 日本古代史 (PHP文庫)
誅韓論 (晋遊舎新書 S18)
ラベル:天皇 日本書紀
posted by 蘇芳 at 01:12| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする