2016年04月15日

「史上初の譲位」


乙巳の変のあと、皇極天皇は「史上初の譲位」を決行せられます。
「しじょうはつのじょうい」と暗唱してしまえばそれまでですが、それがここで行われたということにはそれなりに重大な意味があるでしょう。
天皇が位を譲られたということは、もはや「天皇」でいつづける必要がなくなったということであり、果たすべき「役割」を終えられたということであると言えます。
裏を返せば、それこそは、「女帝」の役割が何であったのかを、逆照射的に明らかにしてくれています。

結論から言ってしまえば、皇極天皇にかぎらず、女帝の役割は、しかるべき皇位継承者への「中継ぎ」です。

こちらで見た通り、推古天皇の遺詔のゆえに、蘇我氏の血をひかない舒明天皇の即位を見て、蘇我氏は一時、外戚の地位を失いました。
しかし、舒明天皇の後宮には馬子の娘=蝦夷の姉妹がチャッカリ送りこまれており、幸いにして皇男子を得ることができました。あとはその皇子を皇位につければ、蘇我氏は再び「天皇の外戚」です。
舒明天皇崩御後、蘇我氏の権勢下にもかかわらず、女帝・皇極天皇が要請されたのは、古人大兄皇子への「中継ぎ」を念頭においたものと見るのが至当ではないかと思います。
(直ちに皇子を即位させるのではなく女帝による中継ぎというワンクッションを必要とした理由には、またいろいろと事情があるのでしょうが)

しかしながら、親のこころ子知らず、入鹿の軽挙が蝦夷の深慮遠謀を台無しにしたと言うべきでしょうか。
蘇我入鹿が、古人大兄皇子の競争相手・山背大兄皇子を滅ぼしたのが、早くも皇紀1303年(皇極天皇2年)のことでした。
それがかえって乙巳の変へと至りうる「空気」を醸成していっただろうことは、想像に難くありません。

いずれにせよ、乙巳の変によって蘇我氏の禍が除かれた以上、蘇我氏によって計画された「中継ぎ」をそれ以上続ける理由はありません。
すみやかに、しかるべき皇子が皇位につかれるべきである、と、話が進んだとしても、不思議はないでしょう。
「史上初の譲位」はこうして決行されます。

問題は、皇位を継承すべき「しかるべき皇子」は誰なのか、ですが……

このとき、皇位継承候補として「日本書紀」に名が挙がっている皇族は三方いらっしゃいます。
そして、ここで三者のあいだに発生したのが、皇位の「譲り合い」です。
第二代綏靖天皇の御代からくりかえし見られた「日本書紀」伝統の場面というべきですが……このときの譲り合いは過去のそれのような麗しい話ではなく、たぶんに政治的な底意を感じさせます。

まず、乙巳の変の功績から言えば、中大兄皇子への皇位継承こそが順当です。
血統から言っても舒明天皇(敏達天皇孫)と皇極天皇(敏達天皇曾孫)のあいだにお生まれになった皇子ですから、申し分ありません。
しかし、ここで中臣鎌足が策士ぶりを発揮します。
「古人大兄は殿下の兄上です。軽皇子は殿下の叔父上です。古人大兄がおいでになる今、殿下が皇位を継がれたら、人の弟として兄に従うという道にそむくでしょう。しばらく叔父上を立てられて、人々の望みに叶うなら良いではありませんか」(宇治谷孟訳)
なかなか人を食った物言いです。
「人の弟として兄に従うという道」を説いておきながら、実際に皇位を譲る相手としては「叔父」を想定しています。
しかもその「叔父」の皇位も「しばらく」のあいだだけだというのですから、大した策士ぶりというべきでしょう。
中大兄皇子はひそかに皇極天皇にその意を奏上され、天皇は軽皇子を後継指名されます。
しかし軽皇子はまた固辞して、
「大兄皇子は舒明天皇の御子です。そしてまた年長です。この二つの理由で天位におつきになるべきです」
と、古人大兄皇子に譲ろうとなさいます。
甥が叔父より年長というのもヤヤコシイですが……
しかし、古人大兄皇子は、蘇我氏の母をもつ皇子です。誅殺された蝦夷・入鹿が擁立しようとしていたと思われる皇子でもあります。それこそ、連座して命を狙われてもおかしくないお立場です。この時点で古人大兄皇子の即位がありえないことは軽皇子もそして古人大兄皇子自身も、承知の上だったのではないでしょうか? また、それこそが、上で鎌足が「兄」ではなく「叔父」と言った由縁でもありましょう。
古人大兄皇子はその場で出家の意思を表され、吉野に隠棲されます(後、謀反の嫌疑をかけられ、亡ぼされます。蘇我氏討伐の行き着くところというべきでしょうか)。

こうしてやむをえず(という形で)即位されたのが軽皇子(第三十六代孝徳天皇)でした。
これを要するに、こちらで見た中臣鎌足の「予言」は、鎌足自身の手によって、実現されることになったわけです。
その「予言」はずいぶんと麗しいエピソードでしたが……こうして、実際に「史上初の譲位」の裏表を見たうえで、その「麗しさ」を真に受けることは、やはり、難しいようです。
何といっても孝徳天皇には「しばらく」皇位を預けておくだけだというのですから、鎌足がこの時点で孝徳天皇をお飾り扱いしていることは明白です。
いえ、「この時点」どころか、先に軽皇子に接触したころから、鎌足の腹積もりはそういうことだったのかもしれません。何しろ、「親しく」していたといいながら、鎌足は軽皇子には蘇我氏討伐の志を明かさなかったのですから……

皇紀1305年(皇極天皇4年・西暦645年)のこの日、孝徳天皇は、即日践祚され、中大兄皇子を皇太子とされます。左大臣は阿部内麻呂、右大臣は蘇我倉山田石川麻呂、そして内臣は中臣鎌足。
蘇我倉山田石川麻呂はこちらで見た通り、乙巳の変の功労者。阿部内麻呂というのは詳細不明ですが、こちらで蘇我蝦夷が「群臣が承服しないのではないかと恐れ」て田村皇子(舒明天皇)擁立へと傾いたとき、最初に相談相手としたのが「阿部麻呂臣」だったとされているようです。
いずれにせよ、わかりやすい人事というべきか、新政権の実権は、中大兄皇子と中臣鎌足が握ったであろうことは、疑いようもないでしょう。

その傍証というべきでしょうか……
実は、孝徳天皇は、「日本書紀」においては、
仏法を尊んで神々の祭りを軽んじられた。――生国魂社(大阪市天王寺区生玉町)の木を切られたことなどがこれである。
と明記されている天皇であらせられます。
蘇我と中臣の因縁を考えれば、鎌足が素直に本気で擁立しようと考えるには、不適当な天皇であらせられたのではないでしょうか。
にもかかわらず、その後は、とりたてて神祇をおろそかにされたという記述は、見られないようです。
それどころか、改新に先立って大槻の木の下に群臣を召し集めて交わさせられた盟約は、「天神地祇に告げて」誓われていますし、その後も「まさに上古の聖王の跡をに従い、天下を治めよう」と詔されたり、蘇我倉山田石川麻呂の「まず神祇を祭り鎮めて、のち政事を議るべきであります」という奏上を容れて神事を行ったりもされていますし、白雉への改元の詔には「清く明らかな心をもって、神祇を敬い」という文言も見られるようです。
これら神事重視の記述が、表面上のものであり、天皇の御本心が「仏法を尊んで神々の祭りを軽んじられた」のであるとすれば、そのように偽りをなされなければならなかったのは何のためか?
孝徳天皇に実権なく、すべては皇太子と内大臣の意思によって行われていたゆえではないでしょうか。
中大兄皇子と孝徳天皇との関係は、やがて悪化し、皇紀1314年(白雉5年)には上皇と皇太子が、天皇を新都(難波)に置き去りにして、飛鳥にお戻りになる、などという事件も起きていますから、それ以前から、「書紀」の記述の表面にはあらわれない確執があったとしても、おかしくはないのかもしれません。
(そもそも、孝徳天皇の御代に渙発された改新の詔を、孝徳天皇の「業績」と見なす史家は、ほとんどいないでしょう)

後世の宇佐八幡宮神託事件にせよ、建武中興にせよ、織豊政権にせよ、明治維新にせよ、日本における「改革」とは、その多くが王政への「復古」であり、皇道・神道とともにあったはずです(幕府の成立は「改革」というよりは朝権の「衰微」と見るべきです)。
大化改新もまたその例に漏れない、というよりは、大化改新こそ、その先鞭であると言うべきかもしれません。

そういう意味では、後の尊皇敬神の志士の先例を、蘇我倉山田石川麻呂に見ることもできるかもしれません。
こちらで見た通り、倉山田石川麻呂は、蘇我氏の一党でありながら、鎌足に見込まれて味方に引き入れられ、乙巳の変においても上表文の奏上という大役を務めていますし、上で引用したように孝徳天皇に「神祇」の優先を奏上した人物でもあります。
が、悲しいかな、皇紀1309年(大化5年)、同じ蘇我氏の日向臣の讒言によって謀反の疑いをかけられ、討伐されてしまいます。
そのとき、倉山田石川麻呂は、「せめてもの願いは、黄泉国に行っても、忠を忘れないことである」「私は世の末まで決してわが君を恨みません」と言い残し、自ら縊死して果てたと言います。
讒言によって流されながら決して天皇をお恨み申し上げなかった菅原道真や、また、都落ちを余儀なくされながら孝明天皇への忠を忘れず、孝明天皇崩御に慟哭した三条実美、野に下って後心ならずも賊軍たらざるをなかった西郷隆盛などなど、後世の忠臣の先例ともいうべき姿ではないでしょうか。
倉山田石川麻呂の死後、その遺品から大臣の潔白を知り、皇太子も深く悔い、悲しみ嘆かれることひとしおであったと言います。
「蘇我」の姓を以て、逆賊たちと混同されるのは、惜しい志士であったというべきではないでしょうか。
(まあ、情をおいてマキャベリスティックに見れば、倉山田石川麻呂の娘は、一人は孝徳天皇の、二人は中大兄皇子の妃になっていますから……一歩間違えばまた蘇我氏が「外戚」になりかねなかった、のかもしれませんが。それを讒謗した蘇我日向の真意は不明です)

いずれにせよ、仏教公伝以来の国内の騒乱は、こうして、尊皇・敬神の「秩序」を復興することで決着しました。その過程で逆賊はもちろん、忠臣たちの血も流されています。その意味を正しく把握するためのパースペクティブを持つことは、その後の歴史、また現代の反日勢力との闘争を考える上でも、必要であり不可欠であるように思います。
政治が、何らかの目的を実現するための手段だとすれば、歴史上の数々の政治的事件は、すなわち、思想的事件でもあるのではないでしょうか。
歴代天皇で読む 日本の正史
日本書紀(下)全現代語訳 (講談社学術文庫)
日本は天皇の祈りに守られている
取り戻せ!日本の正気
ラベル:日本書紀 天皇
posted by 蘇芳 at 02:12| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする