2016年04月14日

【動画】乙巳の変


中大兄皇子と中臣鎌足が、「逆賊」蘇我蝦夷・入鹿を誅殺した、というのは誰でも知っています。
そうして言葉にしてしまえばそれだけですが、何といっても欽明天皇の御代の崇仏論争からの因縁の決着ですから、そこへ至るまではさまざまな伏線がありました。
国内事情だけに限っても、
和魂漢才
十七条憲法
第三十三代推古天皇
死せる厩戸、生ける蘇我を走らす
皇道と神道
と、五記事も贅言をつらねてきた由縁です。

天皇の外戚として権力を握った蘇我氏が、天皇弑逆の大逆を犯し、十七条憲法があらためて成文化した尊皇の「法」がその矛盾を浮き彫りにする中で、反蘇我の「空気」が醸成されていき、蘇我蝦夷も一時の自重を余儀なくされつつ、いよいよ古人大兄皇子への「中継ぎ」の目途が立ったと油断したせいか、増長を極め、ついに蘇我入鹿が山背大兄皇子を自害に追い込むという悪手によって、いつ討たれても不思議はない「空気」を醸成してしまいます。

権力というものはただでさえ嫉妬を招きやすいものです。そのうえ、馬子に弑逆された崇峻天皇は、馬子の甥でしたし、入鹿に死に追いやられた山背大兄皇子は、馬子の孫、蝦夷の甥にあたりました。天皇・皇族をたやすく殺害するのも畏れ多いことなら、血族をたやすく殺害するのも人倫に反しています。皇族や他氏はもちろん、蘇我氏の内部からも、蝦夷・入鹿に敵対する者があらわれたとしても、おかしくはありません。
現在、国際社会では「ブルーチーム」と「レッドチーム」の編成が進んでいるともっぱらの噂ですが……乙巳の変の直前にも、似たような「チーム分け」「敵味方識別」が行われていたようです。

まずは乙巳の変について簡単な動画を見ておきましょう。


「クーデター」という言い方が穏当かどうかはおいておいて、事件自体の展開は大略こんなものでしょうか。

補足するとすれば、中臣鎌足は、中大兄皇子に接近する前に、軽皇子(後の孝徳天皇)に接触しています。
中臣鎌足は以前から軽皇子と親しかった。それでその宮に参上して侍宿をしようとした。軽皇子は鎌子連の資性が高潔で、容姿に犯しがたい気品のあることを知って、もと寵妃の阿部氏の女に命じて、別殿をはらい清めさせ、寝具を新たにして懇切に給仕させ鄭重におもてなしになった。中臣鎌子連は知遇に感激して舎人に語り、「このような恩沢を賜わることは思いもかけぬことである。皇子が天下の王とおなりになることを、誰もはばむ者はないだろう」といった。(宇治谷孟訳)
まことに麗しいエピソードですが、そのわりには、鎌足は軽皇子には志を明かすことはなかったようです。
軽皇子は中大兄皇子の叔父にあたりますから、年齢的な問題もあったのかもしれません。将来の「天下の王」と見込んだ方を、危険にまきこむことをはばかったのかもしれません。それとも、大事を明かせるほどの人物ではないと鑑定でもしたのでしょうか? ちなみに、「皇子が天下の王とおなりになる」ことは、後に鎌足自身の働きかけもあって実現しますが、そのときの鎌足の言葉は少々意味深で、孝徳天皇をお飾り扱いしようという底意が垣間見える気がしなくもありません。
極端な話、このエピソード自体、後の孝徳天皇の即位の予告として、後から挿入された創作、と、疑って疑えないことはないのかもしれません。もちろん根拠はありませんが。

ともあれ、そうして共に大事を計るべき皇子を求めて、ついに出会ったのが中大兄皇子。
舒明天皇と皇極天皇のあいだにお生まれになった、「廃仏派」敏達天皇直系の皇子でいらっしゃいました。
中臣鎌足自身、かつて欽明天皇の御代に、物部氏とともに「廃仏派」として論争にくわわった一族の裔であり、元をただせば神祇氏族であったことは言うまでもありません。
この両者が固く盟を結ぶことで、単なる「廃仏派」ではない、「尊皇・敬神派」とでもいうべき勢力が形成されたと言ってもいいのではないでしょうか。

ついで鎌足が提案したのは助力者を募ることでした。
まず蘇我倉山田石川麻呂の娘を中大兄皇子の妃に迎え、味方に引き入れます。
倉山田石川麻呂は蘇我氏の一党ですが、冒頭で述べたように、馬子は崇峻天皇を、蝦夷は境部摩理勢を、入鹿は山背大兄皇子を、と、それぞれ蘇我氏の一党を手にかけていますから、単に蘇我の一族だからと言って、必ずしも彼らに与するいわれはなかったのでしょう(そういう意味では乙巳の変を以て「蘇我氏の滅亡」というのは失当でしょうか)。

その他、海犬養連勝麻呂、佐伯連子麻呂、葛城稚犬養連網田、巨勢徳陀臣などなどが、乙巳の変に名を連ねています。倉山田石川麻呂のように特段のエピソードが挿入されているわけではありませんが……たとえば「巨勢」氏というのは、継体天皇の推戴にあずかって力のあった一族でしょうか。
入鹿の誅殺後は、諸々の皇子、諸王、諸卿大夫、臣、連、伴造、国造ことごとく中大兄皇子に従いましたが、漢直氏などわずかな郎党がなおも蝦夷について抵抗しようとしました。
そのとき、降伏勧告の使者として、蝦夷の配下のもとへ遣わされたのが、巨勢徳陀臣です。
巨勢徳陀は皇子の思召しとして「天地開闢以来君臣の区別がはじめからあること」を説き、漢直氏らはこれを聞いて敗北を悟り、武装解除。他の賊徒も散り散りに逃げ去ったといいます。
孤立した蝦夷は天皇記・国記・珍宝を焼いて、滅びます(自決したのか殺害されたのか、書紀の記述では少々曖昧な気はします)。
このとき、炎の中から救い出された天皇記・国記というのは、後に記紀が編纂されるとき、史料として活用されたものでしょうか(ちなみに、これらが編纂されたのは推古天皇の御代だったと言われていたかもしれません、うろ覚えで恐縮ですが。蘇我馬子が権勢を振るった時代ですから、内容は記紀とは異なっていたのではないか、異なっていたに違いないニダ、と、古代史捏造の根拠とされることしきりかもしれません)。

こうして乙巳の変は終結。
こちらで述べたように、十七条憲法は勧善懲悪・信賞必罰・承詔必謹を謳いながら、逆賊・蘇我氏を重用することで、大きな矛盾を孕んでいましたが、ここに至って、ついにその矛盾が解消されたことになります。
そして、あらためて「憲法」の精神、日本のコモン・ローに基づいて国家体制を再編することが可能になったのが、大化改新ではなかったでしょうか。
実際、孝徳天皇の御代には、「神祇」を重視する詔がいくつも渙発されています。
しかしまた、それは、すでにして欽明天皇の御代のような、「廃仏・崇仏」という素朴な二者択一にとどまるものでもなかったでしょう。
仏教はすでに入ってきてしまっているのです。国家管理も行われています。何より、それは、こちらこちらで述べたように、マキャベリスティックかつ政治的に、有用な道具でもあったでしょう。十七条憲法自体、仏教を手段として利用しています。
日本の古来の信仰とは根本的に異質なカルトのような仏教を、いかに無害化し、その有用な面だけを活用するか。
それが問題だったのではないでしょうか。
しかして、答えはすでに十七条憲法自体が、予め用意していたとも言えそうです。聖徳太子恐るべし、というべきでしょうか。
すでにこちらで述べたように、仏教であろうと神道であろうと、天皇なくして日本の信仰はありえないのであるとすれば、仏教と神道の両立は、「天皇」の下においてこそ可能であるはずであり、それこそは、十七条憲法が鼎立した「天皇中心の秩序」そのものではないでしょうか。
その改革を主導した中大兄皇子(天智天皇)が、長らく、天武天皇以上の「大君」として崇拝の対象となっていったことも、理由のないことではないように思います。
日本書紀(下)全現代語訳 (講談社学術文庫)
歴代天皇で読む 日本の正史
ラベル:日本書紀 天皇
posted by 蘇芳 at 01:39| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする