2016年04月11日

死せる厩戸、生ける蘇我を走らす


厩戸皇子(聖徳太子)と蘇我馬子は、表面的には、生涯、争い合うことはありませんでした。しかし、太子の定めた十七条憲法が、やがて遅効性の毒のように蘇我氏を追い詰めていくことになるのは、こちらで述べた通りです。
二人は最初から最後まで肝胆相照らす盟友でありつづけたのでしょうか。それとも、いつしか密かに敵対するようになっていたのでしょうか? 「日本書紀」の記述からは判断しづらいところです。
ただ、馬子の子孫と太子の子孫の「その後」を考えてみれば、二人の因縁について状況を整理しておくことは、無駄ではないでしょう。

厩戸皇子は用明天皇の皇子ですから、蘇我稲目の曾孫にあたります。蘇我馬子は用明天皇や推古天皇の叔父ですが、厩戸皇子の「外祖父」というわけではありません。後の藤原氏とは微妙に違うところでしょうか。
もちろん(典拠は「日本書紀」ではありませんが)馬子は自分の娘を厩戸皇子に嫁がせて山背大兄皇子を得ています。この皇子が即位すれば馬子が「外祖父」ですから、布石は打ってあったといっていいでしょう。
しかし、最終的に、これは上手くいかなくなってしまいます。それが上手くいかなくなってしまった原因こそ、十七条憲法によってあらためて明確にされた「法」と、それによって醸成された群臣の「空気」だったかもしれません。
(厩戸皇子、山背大兄皇子を幼いうちに擁立・即位させることができていれば、話はまたちがっていたかもしれませんが、この当時は兄弟継承が一般的でもあり、幼帝の前例もまだなかったようでもあり……蘇我氏の権勢をもってしてもそこまでの先例無視はできなかったということでしょうか)。

いずれにせよ太子は馬子とも親戚です。そして太子と馬子は共に仏教を奉じて、廃仏派の物部氏を滅ぼし(丁未の乱)、馬子の甥にあたる崇峻天皇を擁立しました。ここまでは二人は間違いなくパートナーです。
しかし、馬子はやがて崇峻天皇を弑逆しました。せっかく自分たちの手で擁立した天皇を自分たちの手で殺していれば世話はありません。が、はたして太子はこの弑逆を事前に知っていたか、いなかったか。また、それを善しとしたか、しなかったか。二人の間に隙間風が吹きはじめるとすれば、ここが大きな分岐点になりそうです。
崇峻天皇が崩御されたことで、次の推古天皇の御代に、太子は皇太子に立てられ、将来の天皇の地位を約束されます。そういう意味では、太子が崇峻天皇の弑逆を善しとする、極端な話、加担する動機もあるといえばあります。
しかし同時に、「天皇」弑逆、そしてそれを躊躇なく実行する臣下の存在は、将来の「天皇」である太子にとっても、他人事ではなかった可能性も、あるのではないでしょうか。

もしも、太子がそんな馬子を牽制し、蘇我氏の専横を抑制する大義名分をあらためて樹立しておこうと考えたとしたら、十七条憲法は将来の対決のための布石としても機能しうるものだったように思います。
なんとなれば、十七条憲法は仔細に読めば、仏教や儒教よりもむしろ皇道にこそその軸足を置く掟であり、そのような「法」の措定は、遅かれ早かれ、こちらで述べたと同じ、権威と寄生権力の相互作用を自動的に発動させることになるでしょうから。
ひとたびそのフィードバックシステムが発動すれば、幕末の徳川のジレンマは、やがて蘇我氏の運命にもなるはずではなかったでしょうか(実際、太子の薨去後は、そうなっていきます)。
聖徳太子は、そこまで考えて、自覚的に「罠」を仕組んだのか? それとも、真面目な学究として名分論を追及した結果、たまたま結果的にそうなってしまっただけだったのか? また、馬子はその結果に気づいていたか? 「日本書紀」の記述からはそれと断定することは困難です。何となれば太子は夭折してしまいましたから。

聖徳太子暗殺説というのは昔からありますし、蘇我馬子も重要な容疑者でありつづけていますが、所詮は、確たる根拠の無い、どうとでも言える話にすぎません。
ただ、勧善懲悪・信賞必罰・承詔必謹を命じながら弑逆犯を重用しつづける「矛盾」が、時を追うにつれ明らかになっていっただろうことは、確かではないでしょうか。
遺された推古天皇はなるほど馬子の姪でしたが、同時に敏達天皇の皇后でもあらせられたのですし、物部は滅ぶとも、同じ「廃仏派」の中臣はまだ健在でもあったのです。
聖徳太子の残した十七条憲法という遅効性の「罠」が、推古天皇をして馬子との対決を容易にした可能性は、こちらで考察した通りです。

そして、推古天皇・蘇我馬子・聖徳太子……三者の時代に準備された「罠」は、次の時代(舒明天皇・皇極天皇、蘇我蝦夷・入鹿、山背大兄皇子の時代)に、その結実を見ることになったのかもしれません。

こちらで述べたとおり、聖徳太子の薨去後、推古天皇は皇太子・摂政を定めたもうことなく、ある意味で「親政」を行われましたが、崩御に際しては、遺詔をお遺しになりました。
田村皇子(押坂彦人大兄皇子の子、敏達天皇の孫)には、
「天子の位を嗣ぎ、国の基をととのえ、政務を統べて、人民を養うことはたやすいことではない。私はお前をいつも重くみてきた。それゆえ行動を慎んで物事を明らかに見るように心がけなさい。何事も軽々しく言ってはなりません」(宇治谷孟訳、以下同じ)
と詔され、山背大兄皇子(聖徳太子の子、一説には母は蘇我馬古叔尼大臣娘の刀自古郎女)には、
「お前はまだ未熟であるから、もし心中に望むことがあっても、あれこれ言ってはなりませぬ。必ず群臣の言葉を聞いて、それに従いなさい」
と詔されます。
いずれも子孫への戒めのお言葉ですが、一方には「重くみて」いると仰せになり、一方には「未熟」であるとご指摘になり、一方には「物事を明らかに見」たうえで自分の意見を慎重に言えと仰せになり、一方には自分の「心中に望むこと」ではなく「群臣の言葉」に従えとお命じになっています。
要するに、田村皇子に対しては皇位継承を前提にした訓戒を与えておいでですが、山背大兄皇子に対してはその「未熟」に対して教戒を与えておいでになること、誰の目にも明らかです。

田村皇子には蘇我氏との血縁はありませんが、山背大兄皇子は「日本書紀」には明記されていませんが、母が馬子の娘だったという説があり、「日本書紀」おいても、蘇我蝦夷を「叔父上」と呼んでいます。父の聖徳太子自身、蘇我稲目の孫ですから、山背大兄皇子こそは、蘇我氏と縁の深い皇子、蘇我氏にとって、血縁からいえば都合のいい天皇になるはずでしょう。
しかし、上で見たように推古天皇の意中にあったのが田村皇子であることが誰の目にも明らかな状況で、なお、山背大兄皇子をゴリ押しすることが、得策でしょうか?
馬子の子・蘇我蝦夷は、最終的に田村皇子の擁立へと動きます。その理由については、蘇我氏内部の親疎の関係や、山背大兄皇子自身が無能だったとするものなど、諸説あるようですが、「日本書紀」には、はっきりと、
このとき、蘇我蝦夷臣は大臣であった。ひとりで皇嗣を決めようと思ったが、群臣が承服しないのではないかと恐れた
と明記してあります。
要するに、蝦夷は「空気を読んだ」のです。
その「空気」がどのようなものであったのかは、ここまで十七条憲法の「罠」を追ってきた私たちの目には、明らかではないでしょうか。

実際、群臣を招集して会議を開いてみれば、先帝の遺詔を謹んで承るべしとして田村皇子を推す声が大勢でした。まさに承詔必謹。十七条憲法の精神そのものです。もちろん蘇我氏の血をひく天皇など御免蒙るという「空気」もあったのかもしれません。
蝦夷も(ニュアンスとしてはわりと往生際の悪い節も見受けられますが)これに従わざるをえないと考えたようです。上で述べたように「空気」を読んで田村皇子の擁立に傾きました。
が、ここで「空気」を読まなかったのが、当の山背大兄皇子本人でした。わりと見苦しく天皇になろうと運動を始めます(皇子の「無能」説の大きな根拠です。が、無能なら傀儡として便利でもありそうなもので、蝦夷の行動の説明としてはあまり説得力はなさそうでもあります)。
しかも、悪いことに、先代馬子の右腕、境部摩理勢臣が、山背大兄皇子擁立に固執してしまいます。いわば、頑固な爺やが若様を押したてたといったところでしょうか。もちろん、蘇我氏の権勢の根拠が天皇の外戚であることを正しく理解していれば、筋が通っているのはむしろ摩理勢のほうですが……タイミングが悪かったでしょう。
蝦夷は必死になって山背大兄皇子を説得し、最終的には摩理勢臣を討ち滅ぼすところまで行ってしまいます。

天皇の外戚として権勢を振るった蘇我氏の一党が、身内を殺してまでして、蘇我氏と縁のない天皇を擁立する、という、皮肉な展開でした。

こうしてついに即位されたのが田村皇子=第三十四代舒明天皇であらせられました。
父は押坂彦人大兄皇子(敏達天皇第一皇子、母は敏達天皇の最初の皇后・広姫)、母は糠手姫皇女(敏達天皇皇女、押坂彦人大兄皇子の異母妹)という……要は父も母も敏達天皇の子という、押しも押されもせぬ敏達天皇の孫であらせられました。
敏達天皇が蘇我氏の血をお引きにならず、しかも
天皇は仏法を信じられなくて、文章や史学を愛された。
と書紀に明記されている天皇であらせられたことは、何度も述べてきたところです。
しかも舒明天皇が皇后としてお迎えになった宝皇女(後の皇極・斉明天皇)もまた、押坂彦人大兄皇子の子である茅渟王の娘。すなわち敏達天皇の曾孫であり、舒明天皇には姪にあたらせられ、蘇我氏とは縁がありません。
結局のところ、その後の皇統を占めてゆく「敏達系」の天皇が誕生されたのは、ひとえに、蘇我蝦夷の尽力によってである、とも、言って言えなくはない結果でした。

もちろん、蝦夷には蝦夷でちゃんと計算があります。
舒明天皇の後宮には馬子の娘=蝦夷の姉妹がしっかり入内しており、その娘が生んだ舒明天皇の皇子=古人大兄皇子を皇位につければ、蘇我氏は再び天皇の外戚の座に返り咲くことができる、と、蝦夷は考えたのだと言われています。
舒明天皇の後、皇后・宝皇女(皇極天皇)を擁立したのも、古人大兄皇子の成長を待つための「中継ぎ」であった、とすれば、筋は通ります。
それが事実とすれば、「空気」を読んで一時撤退してでも、蘇我氏の権勢をはかろうとした蝦夷は、優秀な策士だったというべきかもしれません。

しかし、外戚という権力確保の手段は、迂遠で、不確かなものです。
まず、天皇とつりあう娘が必要ですし、その娘を入内させなければなりませんし、さらにその娘に天皇の皇子≒男の子を生んでもらわなければなりません。すべてが首尾よく行ったとして、今度はその子を皇位につけなければなりません。天皇の意向もあれば政敵もあるでしょう。何より、「時間」がかかります(平安時代以後、幼帝の即位が見られるようになっていくのは、一つにはこの「時間」を節約したい摂関家の意思が関係していると言われています。もう一つは、上皇として院政を敷きたい天皇の意向ですが、いずれにせよ「時間」の節約という意味では同じとも言えます)。
外戚として長期間にわたって権勢を振るうことに成功した一族は、藤原氏をおいてほかにありません。
平清盛は安徳天皇の即位まではたどり着きましたが、本人の寿命は尽きて文字通りの「時間」切れ、カリスマを失った平家一門の栄華も露と消えましたし、豊臣秀吉にはそもそも入内させるべき娘がありませんでした。徳川でさえ、天皇の外祖父にはなりそこなったことは、こちらで述べた通りです。

蘇我氏もまた然り。
あらためて馬子の孫を皇位につけよう、というのは、かつて蘇我稲目がなしとげたことが御破算になったために、もう一度最初からやり直さなければならない、ということで、大きな後退ですし、そもそも、将来の外戚の地位を目指しているあいだは、蘇我氏は現に外戚ではないのです。
首尾よく古人大兄皇子を皇位につけるまでのあいだは、いかにも自重して、ことを慎重に運ばなければならない時期であるはずでした。
しかし、さしもの策士・蝦夷も、どうやら「時間」との勝負には、勝てなかったようです。

皇極天皇を擁立して、「中継ぎ」の目途がついたと安心、油断してしまったのでしょうか。
蝦夷・入鹿の増長がいよいよ甚だしくなっていくのは、実にこの女帝の御代においてでした。
蝦夷は、入鹿に「紫冠」を授け(大臣の任命儀礼で、天皇の専権事項。越権行為)たり、自家の祖廟を葛城に立て「八佾の舞(天子の行事)」を行ったり、聖徳太子の遺族のための部民を勝手に自分たちの工事に使ったり、蝦夷の家を「上の宮門」・入鹿の家を「下の宮門」と呼び……まったく自分たちを天皇になぞらえるありさまでした。
この時点でまだ古人大兄皇子は即位もしていないのですから、まったくもって早まったとしか言いようがないありさまです。

これが天下の顰蹙を買い、やがて中大兄皇子と中臣鎌足の義挙に格好の状況を準備していくことになるわけですが……

そのきわめつけが、皇紀1303年(皇極天皇2年)十一月、蘇我入鹿が山背大兄皇子を攻め、皇子の一族郎党が自害して果てるという大事件でした。この暴挙に、蝦夷は激怒し、
「ああ、入鹿の大馬鹿者め。悪逆をもっぱらにして、お前の命は危いものだ」
と慨嘆したと言いますが……
さんざん増長の手本を示しておきながら、今さらでしょう。

ともあれ、古人大兄皇子を擁立せんがため、蘇我氏がついに競争相手の皇子の殺戮にまで走ったことは、中大兄皇子たちにとっても、直接的な脅威となります。そもそも山背大兄皇子は蝦夷の甥であり、入鹿の従兄弟にあたるはずですが、その蘇我氏の皇子さえ殺されたのです。もはや一刻の猶予もありません。
こうして、乙巳の変、大化の改新へと歴史の歯車は回転していきます。

蘇我氏の血をひく崇峻天皇を弑逆し、聖徳太子を立太子した蘇我氏でしたが、今度はその聖徳太子の遺児を殺害したことが、その滅亡の直接のきっかけとなったのです。これを歴史の皮肉というのでしょうか。あるいは、蘇我氏の奉じる仏教に敬意を表して、因果応報とでも言うべきでしょうか。
いずれにせよ表面上は決して争うことなく「盟友」でありつづけた蘇我馬子・聖徳太子の時代とは違って、その子供たち、蘇我蝦夷・山背大兄皇子の関係は、まったくかみ合うことはなかったようです。
(つけくわえるなら、聖徳太子の娘・上宮大娘姫王も、蝦夷が部民を勝手に使った時、憤慨されています)
なまじ古人大兄皇子という「手駒」を得てしまったことで、蝦夷の目もくらんだのかもしれませんが……
しかし、ボタンの掛け違いのそもそものはじめが、舒明天皇の擁立であったとすれば、むしろ、そのときの「空気」を作り上げた推古天皇の御代≒十七条憲法こそ恐るべしというべきなのかもしれません。
日本書紀(下)全現代語訳 (講談社学術文庫)
歴代天皇で読む 日本の正史
法華義疏(抄)・十七条憲法 (中公クラシックス)
ラベル:日本書紀 天皇
posted by 蘇芳 at 02:32| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする