2016年04月10日

【読書】藤田覚「幕末の天皇」

 

読書感想。
幕末に「大政奉還」が行われたことは誰でも知っていますが、「奉還」があったということは、それ以前はつまり「委任」があったということです。幕府はあくまで「大政」を朝廷から「お預かり」しているにすぎない。
征夷大将軍を任命するのは天皇陛下ですから、理念的には当然ですが、実際の政治状況としては、幕府の権威が盤石だった時代には誰もそんなことは意識しなかったでしょう。本書によれば、将軍任命のさい、臣下であるはずの将軍のほうが勅使よりも上座に座っていたとか。
その力関係が幕末には逆転し、条約に勅許が必要になったり、「錦の御旗」を見るだけで賊軍が意気阻喪するという大河ドラマでおなじみの状況まで現出するようになるには、長い前史があり、いくつかのエポックがあったはずです。

幕末の天皇 (講談社学術文庫)

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本書が主に扱うのは第119代光格天皇と第121代孝明天皇。
閑院宮系初の天皇と、その孫にして幕末維新期に君臨せられた帝。
共に現皇族方の直接の御先祖にあたらせられます。
にもかかわらず、前出の大河ドラマなどではほとんど無視に近い扱いをされているというのが戦後日本の奇怪な現状。
その両天皇にスポットをあてる本書は、いわゆる維新の志士の視点からだけではピンとこない幕末のドタバタに一本筋の通ったパースペクティブを与えてくれる好著でした。

光格天皇の即位事情については、こちらこちらでもすでにある程度ふれましたが……
「傍系」から御位につかれた天皇は、かえってそれゆえに、御自身の正統性・神代以来の万世一系の血統について強烈な御自覚をお持ちだったようで、朝威の回復、朝儀・祭祀の復興に意欲を燃やされたと言います。
ちょうど折よく(?)幕府側の失政・飢饉等の社会不安もあったため、朝廷の権威はいや増しに増した御代でもありました。
また、幕府側にも、幕府の権威を建てなおすために朝廷の権威を利用しようとする動きがあらわれ、儒学・国学問わず、思想的にも尊皇的序列意識が回復されていったといいます。

このあたりは、古代以来、蘇我氏や藤原氏、平氏や源氏や足利氏がすでに通った道でもありますね。
十七条憲法の「矛盾」についてはこちらで述べましたが、外戚や将軍職など、天皇の戚を借りて権勢を振るおうとする者は、本質的に一種の寄生者たらざるをえません。よく言われることですが、寄生者が宿主を殺しては本末転倒、自分も共倒れです。朝廷の権威を利用するということは、朝廷の権威を高め、守る必要が生じるということで、そして自らの手で朝廷の権威を高めれば高めるほど、それに逆らうわけにはいかなくなっていきます。

崇峻天皇を弑逆しながら、勧善懲悪・承詔必謹を命じる「憲法」を以て統治に当たった蘇我馬子の「矛盾」は、馬子の全盛期には、実力を以て押さえつけることもできたでしょう。しかし盛者必衰・生者必滅、「力」などというものはいつ衰えてもおかしくはないものです。蘇我氏の権勢にわずかでも陰りが見えれば、「逆臣」を除こうとする動きが出てくるでしょう。大義名分は、厩戸皇子の手によってすでに完璧に準備されていたのですから、なおさらです。「勧善懲悪・承詔必謹」、ならばまず第一に誅されるべきは馬子でしょう。

幕府もまた、初期には「禁中並公家諸法度」などを公布して朝廷の上手に出るほど思い上がっていました(それに対して後水尾天皇が果敢に抵抗されたことはこちらで見た通りです)。
蘇我馬子と同様、幕府に「実力」があり、「実力」を以てすべてを押さえつけておける間は、それでよかったでしょう。
しかし、失政が重なり、国民が窮乏し、幕府の権威が揺らぎ始めると、やはり、蘇我氏と同じ運命をたどらざるをえなかったようです。

天明の大飢饉にさいして、万民がその救済を求めて千度参りに参集したのは、幕府ではなく朝廷に対してでした。
幕府が揺らぎ始めたその権威を回復しようとするなら、この朝廷の権威を無視することは、得策ではありません。
むしろ、朝廷の権威を立て、あらためてその御威光に頼ることこそ、良策というものです。
なぜなら、元々、幕府の権威は、朝廷からの「委任」によって立っているのですから。
君臣の義、というこの「名分論」を前面に出すことで、とりあえず幕臣の統制をはかることはできます。朝廷の権威を高めれば高めるほど、幕臣の統制も容易になるでしょう。
ただし、同時に、幕府自身もその「名分論」に縛られざるをえません。
所詮、坂上田村麻呂以来、「征夷大将軍」は朝廷の官職であり、臣下なのです。
ひとたびその事実が天下万民に意識されてしまった以上、幕府が幕臣に忠義を要求するのなら、幕府自身が朝廷に対して不忠であることは許されないはずです。
幕府の正統性の根拠が朝廷にあるかぎり、幕臣に忠誠を求めれば求めるほど、同時に、幕府自身もより一層朝廷への忠節を要求される度合いが強まっていきます。

実際、光格天皇の御代には、まだしも、朝廷の要求を、幕府が抑えようとすることも一再ならずあったようです。が、孝明天皇の御代になると、幕府の側から、ご意見があれば何なりと仰せください、とお伺いを立てるまでになっていますし、焼亡した内裏の再建も(光格天皇の御代にはすったもんだあったというのに)アッという間に実現するようになります。
そして、ついに発生したのが、いわゆる条約勅許問題です。
孝明天皇が日米修好通商条約締結に勅許を与えることを拒否されたために、幕府は進退に窮し、ついに勅許のないまま条約締結に至り、尊攘派に格好の攻撃材料を与えたことはよく知られていますが……
そもそも幕府の外交政策に勅許が必要であるという観念は、幕府の全盛期には絶えて見られなかったものです。それがいつのまにかこれほどの大問題になるほどに朝廷の権威が高まっていたのは、光格天皇の御代に起きたいくつもの画期的な出来事が伏線になっているようですし、また、幕府自身が朝廷の権威を高めてしまったという、一種のオウンゴールでもあったようです。

その後、国内の情勢は緊迫の度を増す一方で、ついに討幕の狼煙があがることになるわけですが……
その過程ではたされた孝明天皇の役割は重大ですし、そこに注目することで、幕末維新史の見通しも良くなるようです。

孝明天皇といえば頑固な鎖国攘夷論者で、それゆえに討幕派のカリスマに祭り上げられたと思われがちです。
確かに孝明天皇の本心が鎖国攘夷だったことは事実でしょうが、実を言うなら幕府も同じ。そもそも元をただせば「鎖国」政策を採りはじめたのは幕府なのですから、積極的に開国したいわけがありません。
ただ、彼我の軍事力格差を勘案すればやむなく一時開国・臥薪嘗胆するしかない、というのが現実的な判断で、孝明天皇も早い段階でこの理屈自体はご承知だったようです。
(つけくわえるなら、日本を狙っていたのは米国一国だけではありません。英国、ロシア、フランスなどなど、異国船の到来は頻繁でしたし、唯一国交があったオランダ国王の国書も開国のやむをえないことを説いています。最近見なおされているように、江戸時代の日本が実は文化的に途方もない先進国だったとしても、その全部と戦争をするわけにもいかないでしょう)
何はさておき、時間を稼いで国力を強化する必要がある、そのために必要なのは朝廷と幕府の緊密な連携≒公武合体である、というわけで。孝明天皇は頑固な鎖国攘夷論者であると同時に、頑固な公武合体派でもあったと本書は言います。和宮降嫁後は特にそうです。
幕府が朝廷に約束した譲位決行期日にしても、急進的過激派(中心は長州)の口実とされた面が強く、孝明天皇ご自身は幕府の「違約」を咎めたりはなさっていないようです。

要するにこの時点で、公武合体派の最終目標もあくまで攘夷。ただし、その攘夷は短兵急な即時開戦論ではなく、開国・富国強兵を経たうえでの「大攘夷」だったことになりそうです。
ある意味、この時点で、幕府は明治政府の方針をはるかに先取りしていたことになります。
諸外国との戦争で、彼我兵力差を身をもって知るまでは、その認識に追いつくことのできなかった急進過激派の薩長こそが、この時点の見識においてはボンクラだったと言って言えないことはありません。

もっとも、だからといって、公武合体派が正しかった、戊申の内戦など経なくてもよかったのに、政治の実権欲しさにクーデターを起こした薩長こそが売国テロ集団だ、と、短絡することができるかといえば、そう決めつけたものでもないでしょう。
公武合体というのは朝廷と幕府が関係を強化するということで、幕府の存在・幕藩体制の維持が大前提です。
しかしながら大攘夷(=西洋に学んで西洋に負けない国を作ること)が、現実問題として、幕藩体制で可能だったでしょうか?
結局のところ、体制の刷新を経なければ、条約改正もままならなかったのですから、いずれ幕藩体制の維持は不可能になっていたでしょう。が、それはつまり、徳川300年の既得権益に手をつけるということですから、徳川自身の手によって行うのは相当に困難だったのではないでしょうか。いずれにせよ、血を流さないわけにはいかなかったのかもしれません。

それほどに大量の血を流しながら、しかしなお、日本はその動乱を乗り切り、「日本」でありつづけた。
しかも、幕府から薩長へ政権が交代しながらも、「開国・大攘夷」という根本の方針さえも、「継承」されえた、ということこそ、驚くべきことであるように思います。
それを可能にしたものこそ、天皇という「中心的権威」の御存在だったのではないでしょうか。
大政は天皇に奉還されたのですし、新政府は天皇を奉じて発足したのです。
結局のところ、光格天皇以来の朝権の回復、日本の中心は天皇・皇室という思想の復興は、幕府などの「政体」を交換可能なものにすることによって、日本全体の生存可能性を高めたといえるのかもしれません。
そしてその「可能性」は、孝明天皇個人の意思をも超えて作用したのではないでしょうか。

この天皇・皇室という全国家的中心の存在は、日本と日本人にとってまことに幸いなものであると同時に、常にある種の難問を提示しつづけるものでもあるように思います。

幕末、長州は賊軍とされ数次にわたる討伐の対象とされていますが……
公武合体の大御心をよそに、尊皇攘夷のカリスマに祭り上げられた孝明天皇、朝廷も尊攘派一色になり、孝明天皇の意向が通らない状況が現出していたようで、その状況を打開するために薩摩・会津による長州排除が要請されたわけですが……この当時、孝明天皇のご宸翰には、「下からの叡慮」によって大御心がないがしろにされる状況を嘆かれるお言葉が見受けられるとか。
しかも、薩摩・会津の力で長州を退けたのも束の間、今度はその薩摩が長州と手を組んで公武合体に真っ向から反対、討幕を目指すわけで、薩摩の大久保利通もまた、
天下万人御尤もと存じ奉り候てこそ、勅命と申すべく候えば、非義勅命は勅命にあらず候ゆえ、奉ずべからざる所以に御座候
と放言する始末。承詔必謹どころの騒ぎではありません。

こうした事情を、本書では「生身の天皇」と「天皇という器」の乖離と表現しており、一聴に値する見識ではないかと思います。
要するに大久保利通など、自称「尊皇」の志士は、本質的には、幕末の「機関説論者」だったのかもしれません。

もちろん、天皇も個人としては人間ですから、政治的に傑出していらっしゃるとはかぎりません。
個々の天皇を拝すれば、過ちを犯された天皇も多々おいでです。
和気清麻呂の例を持ちだすまでもなく、時には身命を賭してお諫め申し上げるのが真の尊皇という場面もあるでしょう。
しかし同時に、上杉慎吉や橋本欣五郎、風見章、近衛文麿などなど、忠義面をした売国奴の跳梁にも好都合な考え方であることも、事実ではないでしょうか。
21世紀になっても、皇室のスポークスマン・寛仁殿下の男系論を「どうということはない」と似非有識者会議がバッサリと切って捨てたことは記憶に新しいところです。
さらには三島由紀夫のごとく、主観的には本気の尊皇家が、根本的な誤謬に陥ることも多々ありうるわけで……ある意味、確信犯よりタチが悪いのは縷々述べてきたところです。

皇室が権力ではなく、権力の源泉たる「権威」であるかぎり、これは、どこまでもついて回る宿命なのかもしれません。
だからこそ、天皇・皇室を「正しく」理解する努力が、国民にとって不可欠にもなるのでしょうし、反日勢力はその「努力」をこそ破壊・妨害しようとしつづけているのでしょう。
裏を返せば、国民が天皇・皇室を「正しく」理解すること、こそは、反日勢力の最も恐れるところであり、日本の切り札である、とも言えるのかもしれません。
左翼的捏造・曲解を排して天皇・皇室を理解することこそ、「日本を取り戻す」ことにつながる……というより、むしろ、それそのものであるように思います。
実際、かつてはある程度以上にそれができていたからこそ、2000年にもおよぶ皇室の(日本の)歴史もありえたのではないでしょうか。
幕末の天皇 (講談社学術文庫)

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ラベル:江戸時代 天皇
posted by 蘇芳 at 02:21| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする