2016年04月08日

第三十三代推古天皇

我が邦は君臣の義、万国に度越す。而るに西竺の説、これを壊り、これを土灰沙塵に帰して止む。而してその端を開く者は、厩戸・馬子なり。
頼山陽「日本政記」
十七条憲法は仏教を方便として、信賞必罰を唱え、群臣の綱紀を粛清し、以て天皇中心の位階秩序を構築しようとしました。誠に立派な憲法というべきです。しかし、そこには大きな矛盾がありました。
勧善懲悪・信賞必罰・承詔必謹と言いながら、崇峻天皇を弑逆したてまつった逆賊が、誰よりも厚く遇され、権勢をほしいままにしていたのですから、チャンチャラおかしいというところです。
群臣はこれをどう見たでしょうか。ある者は馬子を真の実力者と見て蘇我氏に媚びへつらったことでしょう。ある者は蘇我氏への敵意を募らせていったことでしょう。それは想像に難くありません。
厩戸皇子が優れた政治家であり優れた学者であればあるだけ、この言行不一致は致命的な破綻を予感させずにはおかなかったのではないでしょうか。そしてその「予感」は、太子自身はもちろん、蘇我馬子にも、そして推古天皇にも、微妙な影響を及ぼさずにはいなかったように思えます。

第三十代敏達天皇、
第三十一代用明天皇、
第三十二代崇峻天皇、
第三十三代推古天皇、
この四代の天皇は、こちらで述べた通り、いずれも第二十九代欽明天皇の皇子女であらせられ、実に、敏達天皇以外の三代全員が蘇我氏の生母をお持ちでした。つまるところ三代全員が蘇我稲目の孫であり、蘇我馬子の甥・姪であらせられました。
蘇我氏の権勢はこの三代を通じて確立され、ついに推古天皇を擁立し、厩戸皇子(用明天皇第二皇子)を立太子することで、馬子の権力は盤石のものとなった。また、天皇弑逆の罪を追及されないようにするためにも、馬子は皇室を「身内」で固める必要があったのだ、と、解釈することは容易です。

しかし、そうして利用される側としては、どうだったでしょうか。

厩戸皇子は積極的に馬子に加担し、丁未の乱をもって政敵を排除し、崇峻天皇を擁立した過去があります。いわば馬子の共犯者です。ところがその馬子が他でもない崇峻天皇を弑逆したてまつったのでは、いったい何のための内乱だったのかわかりません。一個のマキャベリストとしては、推古天皇の御代に皇太子の地位を得て納得することもできたでしょうが、逆賊・馬子の免罪は、その統治理念といかにも矛盾したことでしょう。勧善懲悪・信賞必罰・承詔必謹。きれいごとを並べれば並べるほど空々しく聞こえます。今どきのネットスラングなら見事な「ブーメラン」と言うべきでしょうか。

そしてまた、太子を摂政に任じ、その存命中は政務をお任せになっていた推古天皇は、この「ブーメラン」をどのような目でご覧になっていたでしょうか?

なるほど天皇は馬子の姪です。
しかし、崇峻天皇は馬子の甥でした。
甥を平気で殺せる冷血漢が、姪を殺すことを躊躇するでしょうか?
叔父を殺した殺人犯と平然と共謀しつづける皇太子が、叔母の生死を黙過しない可能性はいかばかりでしょうか?
しかも崇峻天皇は「天皇」でした。
しかして躊躇なく弑逆されました。
推古天皇も「天皇」です。
いったい「天皇」とは何なのか?
勧善懲悪・信賞必罰・承詔必謹。きれいごとを並べながら、誰よりも「天皇」を蔑ろにしているのは、馬子と太子ではないのか?
人並の理性があれば、それくらいは誰でも考えるでしょう。

馬子と太子は、盛んに仏寺を建て、仏事を催行しました。
言行不一致のマキャベリストたちが、政治的に利用しようとしている御仏を、天皇は、素直に無批判に礼拝する気になれたでしょうか?
なるほど、推古天皇は蘇我稲目の外孫です。蘇我馬子の姪でもあらせられます。
しかして敏達天皇の皇后でもあらせられました。
敏達天皇は、
天皇は仏法を信じられなくて、文章や史学を愛された。(宇治谷孟訳)
と、書紀に明記されている天皇であり、皇位におつきになった欽明天皇の皇子女のうち、唯一、蘇我氏の血を一滴もお引きあそばされない天皇でした。
元々、蘇我氏の権勢は、崇仏・廃仏の論争が、武力によって決せられた結果築かれたものです。
仏法が蘇我氏の権力の道具にすぎないとすれば、反対陣営の言葉が説得力を帯びて聞こえるようになるのも、当然というものではないでしょうか。

皇紀1266年(推古天皇14年)、前年から造られていた丈六の大仏が完成し、元興寺(飛鳥寺)に収められ、盛大に斎会が行われ、以後、灌仏会、盂蘭盆会の斎会が毎年行われるようになりました。
同年秋には、皇太子は三日がかりで天皇に勝鬘経をご進講申し上げています。
しかして天皇が、
古来、わが皇祖の天皇たちが、世を治めたもうのに、つつしんで厚く神祇を敬われ、山川の神々を祀り、神々の心を天地に通わせられた。これにより陰陽相和し、神々のみわざも順調に行われた。今わが世においても、神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。(宇治谷孟訳)
との詔を渙発されたのは、実にその翌年。皇紀1267年(推古天皇15年)春二月のことでした。

皇紀1281年(推古天皇29年)、摂政・皇太子、厩戸皇子、薨去。
天皇は嘆き悲しまれますが、しかし、その後、新たな皇太子を定めることはなさいませんでした。
もちろん、摂政も置かれません。
蘇我馬子が大臣だったことは変わりませんが、盟友・厩戸皇子の喪失は痛手だったでしょう。
そして、推古天皇も、もはや決して馬子の意のままにはなられなかったことは、こちらこちら、またこちらで述べた通りです。

皇紀1284年(推古天皇32年)、天皇はこちらで述べた僧侶の殺人事件を厳しく追及、仏教の国家管理を実施せられます。
また、葛城県を「永久」に賜りたいとの馬子の要求に対して、
わが治世に、急にこの県を失ったら、後世の帝が、『愚かな女が天下に公として臨んだため、ついにその県を亡ぼしてしまった』といわれるだろう。ひとり私が不明であったとされるばかりか、大臣も不忠とされ、後世に悪名を残すことになるだろう(宇治谷孟訳)
と切り返され、直ちに却下されたのも、同年冬十月のことでした。
ここには天下を「わが治世」と見なし、「後世の帝」の目を意識する、万世一系の皇統に連なる一人としての自覚と自負が覗いてはいないでしょうか。もはや「蘇我氏の女」だの「馬子の姪」どころの話ではありません。

また、そのような「天皇中心の秩序」こそ十七条憲法が天下に公布した大義名分そのものに他ならないのですから、馬子として、反論の余地はなかったことでしょう。
十七条憲法第三条、
天皇の詔を受けたら必ずつつしんで従え。君を天とすれば、臣は地である。天は上を覆い、地は万物を載せる。四季が正しく移り、万物を活動させる。もし地が天を覆うようなことがあれば、秩序は破壊されてしまう。それ故に君主の言を臣下がよく承り、上が行えば下はそれに従うのだ。だから天皇の命をうけたら必ずそれに従え。従わなければ結局自滅するだろう。(宇治谷孟訳)
これこそは馬子と結託した厩戸皇子の遺産たる「憲法」なのです。
しかも、上の詔のなかで、天皇は、「不忠」「悪名」と、さりげなく釘をさしておいでです。
これは崇峻天皇弑逆の「不忠」「悪名」を想起させずにおかないお言葉ではないでしょうか。
あたかも天皇は「それでもよければ朕を殺すがよい。崇峻を殺したように」とでも仰せになっているかのようです。

天皇弑逆の大罪によって、確かに、馬子は目先の権勢を手に入れました。しかし、万世一系の皇統は今後も続くのです。また、続いてくれなければ、外戚として寄生する蘇我氏の権勢も維持できないのです。「わが治世」「後世の帝」という言葉は、聞くものに「歴史」に対する意識を喚起させずにはおきません。そうした長い目で「後世」を意識したとき、馬子の「悪名」はいつまで隠しおおすことができるでしょうか? その「不忠」によって築かれた権勢はいつまで維持することができるでしょうか? 馬子は慄然としたのではないでしょうか。

馬子の盟友・厩戸皇子が御存命で、馬子の権勢が盤石であったころには、天皇が表立ってご意見を述べられることはほぼありませんでした。
しかし、天皇がかく大御心を明らかにされた今、そしてその大御心の前に馬子がすごすごと退散することを余儀なくされた今、馬子を快く思わない勢力も勢いづいていた可能性があるのではないでしょうか。

皇紀1286年(推古天皇34年)、蘇我馬子死去。
皇紀1288年(推古天皇36年)、推古天皇崩御。在位36年、宝算75。
このとき、皇位継承の有力候補は、山背大兄皇子と田村皇子のお二人でした。
前者は厩戸皇子の子であり、用明天皇の孫であり、すなわち蘇我氏と縁のある皇子です。
一方、後者は、押坂彦人大兄皇子の子であり、すなわち敏達天皇の孫であり、蘇我氏とは縁がありません。
血縁からいえば、蘇我氏にとって都合がいい皇位継承者は、山背大兄皇子のほうであるはずです。
しかし、実際に即位されたのは田村皇子(舒明天皇)でした。

推古天皇は最後まで皇太子をお立てになることはありませんでしたが、崩御直前にお遺しになった遺詔は、あきらかに、田村皇子への継承を示唆しています。
群臣もそのほとんどがこの遺詔を畏んで、田村皇子を推戴し、蘇我蝦夷もそれを無視することはありませんでした。
最終的な決着に至るにはまたひとくさり経緯があるのですし、蝦夷には蝦夷なりの計算もあったことでしょうが……
第三十四代舒明天皇、第三十五代皇極天皇、第三十六代孝徳天皇、第三十七代斉明天皇、第三十八代天智天皇……と、これ以後の皇統が敏達天皇の後裔で占められていくことは事実です。その過程で蝦夷も入鹿も誅殺され、蘇我氏の天下は終わりを告げるのですから、欽明天皇以来・仏教公伝以来の政争は、皮肉な決着を見たというべきでしょう。推古天皇なかりせば、その「決着」もこのような形にはならなかったのかもしれないのですから、実に重要な天皇であらせられたと言わざるをえないようです。

その推古天皇ですが、皇位継承とは別に、もう一つ、遺詔をお遺しになっています。
「この頃五穀がみのらず、百姓は大いに飢えている。私のために陵を建てて、厚く葬ってはならぬ。ただ竹田皇子(敏達天皇と推古天皇の皇子)の陵に葬ればよろしい」(宇治谷孟訳)
日本最初の女帝は、蘇我氏の女としてではなく、国民生活に御心を御寄せになる「天皇」として、敏達天皇との間に生まれ夭折された愛児を想う「母」として「皇后」として、その御生涯を全うされたのではないでしょうか。


日本書紀(下)全現代語訳 (講談社学術文庫)
歴代天皇で読む 日本の正史
posted by 蘇芳 at 02:37| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする