2016年04月06日

和魂漢才


初代神武天皇が大和にささやかな国を築かれ、代を重ねながら静かに勢力を拡大されていったあと、
第十代崇神天皇が一気に勢力を拡大され、景行天皇日本武尊の征西・東征を経て、神功皇后の三韓征伐に至って、ほぼ日本国内の平定は完了したと見てよいでしょう。
その後、何度か皇室に危機が訪れたものの、内政的には安定期に入ったように見えます。しかしその一方で、半島についてはそのころからあさましい揉め事が絶えず、朝廷にとっての大きな負担になっていきました。
やがてその騒乱は内地へも飛び火し、磐井の乱などが起きるようなことにもなっていきます。
それはなおまだ地方豪族の反乱に「すぎない」ということも可能かもしれません。
しかし、仏教公伝のころには、禍は、ついに政権中枢へと飛び火するようになっていったのではないでしょうか。

こちらこちらで見た、仏教公伝へと至る半島の混乱は、元をただせば、百済が任那の四県(上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁)を要求したことがきっかけでした。
皇紀1200年(欽明天皇元年)、四県割譲をたやすく許したとして大伴金村に批判が集中し、金村は失脚、隠居します。欽明天皇は、父帝・継体天皇の擁立に功のあった金村を惜しまれ、罰したりなどはなさいませんでしたが、金村の引退自体は、如何ともしがたかったようです。
皇紀1212年(欽明天皇13年)、仏教公伝にともなって、崇仏派の蘇我稲目と、廃仏派の物部御輿・中臣鎌子が、鋭く対立したことはよく知られていると思いますが、ここに大伴氏が名を連ねていないのは、すでに金村が失脚していたからでしょうか。
欽明天皇はいずれとも決めかねられ、百済が献上した仏像をとりあえず蘇我稲目に預け、試しに私的に礼拝させて見ることになさいますが……
欽明天皇のみならず、「日本書紀」の記述自体が、この時期の仏教をどのように扱うべきか、決めかねているような揺らぎが、その後の展開には感じられます。

その年、稲目が仏教を信仰しはじめると諸国に疫病が流行り、
物部や中臣が外国の神などを祀ったせいだと主張して仏像を廃棄させると、皇居に火災が起き、
また、皇紀1244年(敏達天皇13年)、蘇我馬子が再び百済から入手した仏像を祀ると、また諸国に疫病が起こり、
翌皇紀1245年(敏達天皇14年)、物部守屋と中臣勝海が、仏像のせいだと上奏して勅許を得て寺を焼き払うと、また疱瘡が流行。民は密かに「仏像を焼いたせいだ」と噂したと言います。
これでは欽明天皇ならずとも、崇仏すればいいのか廃仏すればいいのかわからなくなりそうです。

しかし、こちらで考察した通り、そもそも、この時代における仏教の価値というのは、所詮、政治的なものだったでしょう。
となれば、仏教受容の是非の決着も、所詮、政治的につけるしかありません。

第三十代敏達天皇、
第三十一代用明天皇、
第三十二代崇峻天皇、
第三十三代推古天皇(敏達帝皇后)、
の四代は、いずれも第二十九代欽明天皇の皇子女であらせられましたが、このうち、敏達天皇を除く全員が、蘇我氏の女を生母とされています。
敏達天皇はこちらなどでくりかえし述べたように、仏教をお信じにならなかった、と、書紀に明記されており、この御代までは、物部・中臣の廃仏派が優勢でしたが、やがて敏達天皇がおかくれになると、形勢は逆転していきます。

第三十一代用明天皇は蘇我稲目の外孫にあたらせられ、ご健康が勝れなかったこともあってか、仏法を重んじようとなさいました。
皇紀1247年(用明天皇2年)、天皇は大嘗祭の最中にご不例となられ、式半ばにしてご退席。群臣に、三宝に帰依したいお気持ちを吐露せられます。物部・中臣はお諫めしますが、蘇我馬子は「錦の御旗」を得たとばかり勢いづきます。
用明天皇はその年のうちに崩御。
さて、後継者は誰か?
蘇我馬子と厩戸皇子は、蘇我氏の血をひく崇峻天皇を擁立するため、ライバルの排除に動きます。
まず皇位継承候補者だった穴穂部皇子(欽明天皇皇子)と宅部皇子(宣化天皇皇子)が攻め滅ぼされ、つづいて(穴穂部皇子を擁立しようとしていた)物部守屋も滅ぼされました。
いわゆる丁未の乱(または物部守屋の変)です。

物部氏は滅亡し、第三十二代崇峻天皇が即位。
外戚としての蘇我氏の権勢は不動のものとなり、仏教導入がいよいよ盛んになっていきます。
物部とともに廃仏派だった中臣が、この時、どうしていたか、「書紀」には記述が乏しく、よくわかりませんが、こうなってしまっては手も足も出なかったでしょう。
しかし、それは同時に、蘇我氏への復仇の念を中臣に抱かせることになったかもしれません。
これが、後の大化の改新への伏線になっていく、と考えることは、自然であるように思います。

しかし、一口に蘇我氏といっても、決して一枚岩ではなかったようです。
大化の改新で蝦夷・入鹿を滅ぼした側にも、蘇我の一族は名を連ねていますし、そもそも、崇峻天皇も、推古天皇も、馬子の言いなりになろうとなさらなかったことも、正史に明記してあります。
後の平安時代においてもそうですが、外戚として権勢を振るおうとする一族は、閨閥でありながら一族同士の諍いも絶えず、また、天皇ご自身が外戚を疎まれ、隙あらば親政を実現しようと試みられることも、一再ならずあるもののようです。
天皇とは、母方の血筋がどうあれ、皇位におつきになると、否応なく、天皇としての御自覚をこそ強烈に意識なさるものなのでしょうか。

崇峻天皇は馬子をお憎みになるに至り、これを察した馬子が先手を打って天皇を弑逆したてまつったことは有名です。
そして推古天皇もまた、こちらで述べたように、馬子の要求を言下に却下され、仏教徒の犯罪を厳しくお咎めになり、国家統制を試みられ、神祇重視の御意向をも詔されるのでした。

以上見てきたように、仏教公伝の直接的な結果は、何よりもまず、政権中枢における内紛の発生であり、皇子の殺害であり、蘇我氏の天下であり、天皇弑逆です。
これをもってして「先進国の百済さまがありがたい仏教を与えてくださったニダ」などとほざく反日売国史観は、噴飯物のデタラメと言うべきでしょう。
こちらで見た通り、百済側の事情は徹頭徹尾政治的・軍事的なものであり、蘇我氏の行動も、徹頭徹尾、マキャベリスティックなものです。
推古天皇は「仏教徒がなぜ殺人を犯すのか」とお責めになりましたが、「崇仏派」の馬子がやっていることなどは、単なる殺人どころか天皇弑逆=国家反逆罪です。
蘇我氏が本気で宗教として仏教を信仰していたというのなら仏教自体がトンデモない反社会的カルト宗教であることになりますし、そうでないのならば蘇我氏は「宗教」として仏教を尊んでなどいなかったことになるのではないでしょうか(まあ、いずれ宗教など「嘘も方便」の世界ですから、信仰と犯罪などはいくらでも両立するのかもしれませんが)。

この時代の仏教は「学問仏教」であり、あくまで、研究の対象であり、また、身分の低い者にとっての手っ取り早い出世の手段だったと見なしたほうが適当であるように思います。
いずれ、日本の国家体制を整えるには、大陸の政治制度・政治思想に学ばなければならなかったことは事実でしょう。
しかし、文化というものは、トータルなものであり、部分にも全体が宿ります。
表面的に剽窃するだけでは意味がありませんし、何もかも一切合財を無批判に受け入れてしまっては、日本の実情に合いません。外国文明の受容には、その文明への本質的理解と、その理解の上に立った取捨選択が必要にして不可欠です。
後の明治維新を想起するまでもなく、日本は、そのような作業が、かなり得意だったのではないでしょうか。
仏教をはじめとする大陸文化を「学問」として深く研究し、知ることによって、かえって、その禍毒から国体を守ることに、長い年月をかけて成功した……
日本の仏教受容の歴史には、大陸文化を理解し、日本化し、無害化した、その努力をこそ見るべきではないでしょうか。つまるところ「和魂漢才」です。

「理性」のことを「分別」とも言いますが……
「理解」の根本は、「分析」であり「区別」や「識別」や「分類」です。
「分」「別」はいずれも「分ける」「分かつ」ことを意味しますが、それがつまり「分かる」ことにつながるということでしょう。

このような「分別」をともなわない外国文明の全面的受容は、かえって、表面的な模倣にとどまらざるをえないのではないでしょうか。
それは、大陸の属国への道をまっしぐらにつき進み、「創氏改名」をはじめとする、大陸文化の全面受容によって、かえって本質的な理解には届かなかった(としか思えない)新羅や李氏朝鮮のその後の歴史が、証明しているように思えます。

日本はそのような「分別」のない真似はしなかった、
蘇我氏の血をひかれる天皇においてさえ、その「分別」だけはお失いにならなかった、
もっと言うなら、「崇仏派」の蘇我稲目や馬子でさえ、上で見たように彼らが敬虔な仏教徒というよりは徹頭徹尾マキャベリストだったとすれば、マキャベリ流の「分別」を失ってはいなかった、仏教の「活用」は政治的功利性を追及した結果にすぎない、とさえ、言えるのかもしれません。
もちろん、蝦夷や入鹿は、その後、マキャベリズムの度が過ぎて、野心・増長といった別種の狂気にとらわれることになったのかもしれませんが……
その野心・増長のあまり、蝦夷・入鹿が蘇我氏内部からも排斥された、と、見れば蘇我倉山田石川麻呂あたりが乙巳の変に加担したことにも筋は通るように思えなくはありません。
まあ、いずれ素人談義・床屋政談の類にすぎないかもしれませんが。
歴代天皇で読む 日本の正史
日本書紀(下)全現代語訳 (講談社学術文庫)
posted by 蘇芳 at 02:40| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする