2016年04月05日

仏教公伝前後の半島情勢


第二十七代安閑天皇、
第二十八代宣化天皇、
第二十九代欽明天皇、
はいずれも第二十六代継体天皇の皇子で、御兄弟です。
欽明天皇のみ異母兄弟ですが、とりあえず大きな問題ではありません。安閑天皇と宣化天皇はそれぞれ仁賢天皇の皇女を、欽明天皇は宣化天皇の皇女を皇后とされ、武烈天皇以前の皇統との親等も近くなられています。

この三代のうち、「書紀」においてもっとも記述が豊富で、また一般にも有名なのは、欽明天皇でしょう。
仏教伝来ゴサンパイ、と、覚えさせられた方も多いかと思います(年号には異説あり)。
が、その背景となると、どうでしょうか?
古代史については確かなことがつきとめにくいのをいいことに、事実より思想を優先させて好き勝手な妄想をあたかも史実のように語る風潮が強い気がしないでもありませんし、自分自身がその罠に陥る危険も高いですが。だからといって、避けて通るわけにもいかないでしょう。
所詮、与太のようなものかもしれませんが、考察・推測くらいはしてみたいのも人情かと。

継体天皇の御代の半島情勢についてはこちらで述べましたが、欽明天皇の御代にもまだそれが尾を引いています。仏教が百済経由で公伝した背景には、混乱状態の半島で生きのびるために日本を頼る百済の政治判断があったようにも思えます。

皇紀1184年(継体天皇18年)に、百済では聖明王が即位し、以後、皇紀1214年(欽明天皇15年)に戦死するまで、王位に在ります。
この間、半島の中でもっとも日本に「忠実」だったのは百済ですが、そのかなりの部分はこの聖明王の時代です。
歴代王のなかでも日本に忠実で、何度も援軍を乞い、何度も貢を奉っている王に「聖明」なる諡号がおくられていることについて、反日色の強い現代の半島はどう説明するのか、知りませんが……
(なお、聖明王の父・武寧王も、雄略天皇の御代に人質として日本に来ていた人物、というより「日本書紀」によればそもそも生まれたのも日本だったとされています。朝廷の百済びいきには、こういった縁故も関係しているのかもしれません)

皇紀1192年(安閑天皇元年)、任那の金官国が新羅に攻められ、降伏しました。
歴代天皇で読む 日本の正史」の著者・吉重丈夫は、
新羅は近隣諸国を次第に侵し、日本が策定した国割りを次第に壊していく。つまり、半島の秩序を崩壊させていく。
と、コメントしています。
皇紀1197年(宣化天皇2年)には、新羅が任那に害を与えるので、大伴磐と狭手彦を遣わし、任那を助けさせ、百済をも救わせたとあります。
仏教公伝の第一は、その翌皇紀1198年(宣化天皇3年)。語呂合わせで有名な西暦538年にあたります。この年、聖明王が仏像と経典を奉ったということで、前年の百済救済と直接の関係があるのかもしれません。

この任那問題のころから、日本・百済の関係はより一層緊密になり、新羅に相対していくことになるようです。
もちろん、かつて一度百済を滅ぼした前歴のある高句麗も漁夫の利を狙わないはずはないでしょう。
半島の情勢は渾沌としていきます。
高句麗と新羅の関係がどうだったのかはよくわかりませんが、いずれ場当たりの野合と背信をくりかえしていたのだろうことは、これまでの半島を見ていれば想像できるのではないでしょうか。やがて白村江の後にはこの高句麗も新羅に滅ぼされるわけで、百年の計を持たず目先の利を貪った国家の末路、自業自得というやつでしょうか。
(後の皇紀1210年(欽明天皇11年)には日本からの援軍が百済に送られ(「三国史記」の「百済本記」にも「日本の使人」が援軍を率いてきた記述があるそうです)、翌皇紀1211年には聖明王はかつて百済を滅ぼした高句麗を討ち、漢城・平壌などの故地を回復していますが、このとき聖明王が率いた兵は、百済・任那・新羅の兵だったといいます。そして翌皇紀1212年には高句麗と新羅が同盟を結んで漢城・平壌を奪うという離合集散のめまぐるしさでした)

宣化天皇は皇紀1999年に在位わずか3年で崩御。後をうけて践祚されたのが欽明天皇です。
任那復興を念願された天皇は、聖明王にこれを催促され、聖明王も何度も武器や援軍を乞い、聖旨に副いたてまつろうと努力したことに、書紀の記述ではなっています。日本と百済の「蜜月」といってよいかもしれません。
が、これまでのなりゆきからも推測できるように、百済は半島のなかでは軍事的にはかなり頼りない国でもあったようです。
任那の回復は一向に成果を見ないまま、上で述べた通り、皇紀1212年(欽明天皇13年、半島の史書「三国史記」では皇紀1198年(仏教伝来と同じ西暦538年))、新羅と高句麗が同盟を結び、百済・任那への侵攻を開始。百済は日本に援軍を乞い、天皇はこれを了解せられますが、早くも同年中には、百済は平壌と漢城を放棄、新羅に奪われています。
百済は翌皇紀1213年にも援軍を乞い、日本はこれを送り、さらに翌皇紀1214年にもまた援軍要請があり、日本は佐伯連を派遣していますが、この年12月、聖明王はついに新羅に討ち取られます。

不思議なのは、半島でこれだけ好き勝手をやっている新羅と高句麗ですが、なおも日本の顔色はうかがい続けていることでしょう。

皇紀1200年(欽明天皇元年)には、百済、新羅、高句麗、任那がそろって朝貢していますし、聖明王を討ち取った皇紀1214年の戦闘では、新羅のある将が「日本の天皇は任那のことで、しばしばわが国を責められた。ましてや百済の滅亡を謀れば、必ず後に憂えを残すことになる恐れがある(宇治谷孟訳)」と建言して追討の手を緩めたことになっています。
ちなみにこの日本をはばかって軍事行動を抑制するという展開は、こちらで見たように、かつての高句麗王の行動と相似形です。反日色の強い史家ならこの類型性をもって嘘だ捏造だと主張するのかもしれません。
しかし、皇紀1220年、皇紀1221年には2回、皇紀1222年にも2回、新羅は朝貢使を送り御調を奉っています。ちなみにこの間、皇紀1222年には新羅は任那を滅ぼしており、それに対する日本の出方をうかがう意味があったのかもしれません。
もちろん、日本側の新羅に対する扱いはよくはなかったようですが、皇紀1222年の使者は、天皇がお怒りになっていることを知ったため、新羅に帰ることを望まず、日本にとどまり、帰化したと言いますから、国力・軍事力で恐ろしいのは日本のほうだったにもかかわらず、残虐性で恐ろしいのは新羅のほうだったようです(ちなみに一々引用はしませんでしたが、伴跛や新羅による半島での虐殺は「言うもはばかられる」ほどだったと言います。「らしい」といえば「らしい」ですな)。朝廷はこの使者たちの願いを容れて滞在を許していますから、「大人の態度」もいいところです。
もちろん、それが新羅をさらに増長させることになったとしても不思議ではありません。「優しさ」と「弱さ」の区別がつかない云々、いったいいつの時代の話だという気もします。
(付言すれば、皇紀1230年には高句麗も朝貢していますが、だからどうだったという記述は書紀にはないようです。いずれ新羅の場合と似たような事情だったのでしょう)。

いいかげん、書いていてウンザリしてきますが……

百済の聖明王が、以上のような状況を背景として、再び、仏像や経典を献上してくるのは、皇紀1205年(欽明天皇6年)と皇紀1212年(欽明天皇13年)の二回の記述が見られるようです。
後者の皇紀1212年は西暦だと552年にあたり、これが538年と並ぶ、仏教公伝時期の有力説になっていますが……上で見た通り、皇紀1212年というのは、前年に聖明王が高句麗から奪還した漢城・平壌が、高句麗・新羅同盟にまた奪い返された年にあたります。
百済による仏教献上には、皇紀1198年のときと同様、ここでも、軍事的・政治的意図が濃厚にあったのではないでしょうか。

そして、また、日本側から見ても、仏教が百済救済への返礼や援軍要請の対価として有効だった≒価値が認められたということには、政治的な意味があるはずではないでしょうか。
伝来当初の仏教が国内に対立をむしろもたらした面が強かったにもかかわらず、文化的に受容されていったことの背景には、この時期、文化・文物・学問の類としての仏教が、日本にとって「政治的」に必要だったことを意味していると見ざるをえないように思います。
後世の律令制度を云々する以前に、そもそも「漢字」ひとつとっても、どれだけ日本の発展に寄与したか、言うまでもないでしょう(「文字」という文化の重要さは、漢字使用を廃止したとある国が、現在進行形で逆説的に証明してくれているとも聞きます)。漢字文化を組織的・系統的に研究・受容していくうえで、仏典はとても大きな役割を果たしたはずではないでしょうか。

何はともあれ、よく知られているように、古代の仏教は「国家鎮護」の現実的効力さえ有していると主張していたわけですが、それを献上した百済や聖明王自身を「鎮護」してはくれなかったようです。
宗教的効力などではなく、政治的利用価値によって、導入され、受容されていった仏教が、このあと、日本にどのような禍をもたらすことになるか……仏教の功罪両面を考え合わせると、感慨深いものがあります。
歴代天皇で読む 日本の正史
日本書紀(下)全現代語訳 (講談社学術文庫)
知っていますか、任那日本府
日朝古代史 嘘の起源 (別冊宝島)
posted by 蘇芳 at 02:19| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする