2016年04月04日

古代の「用日」


こちらで述べた通り、雄略天皇の御代、朝廷には「半島の土地を臣下である百済王に与える」ということが可能でした。
それに味を占めたのか何なのか知りませんが、百済はその後も朝廷に半島の土地を無心してくるようになります。

皇紀1172年(継体天皇7年)、百済が朝貢し、上表文を奉って、任那の四県(上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁)を欲しいと願い出てきました。当の哆唎の国守である穂積臣押山と(継体天皇の即位に功績のあった)大伴金村がこれに賛成し、天皇も勅許あそばされます。
しかし、この措置には当然反対論もあり、百済から押山・金村への贈賄なども噂され、金村失脚の原因ともなります。
やがて勾大兄皇子(後の安閑天皇)が日鷹吉士を遣わし、百済に四県の返還を求めますが、百済はこれを拒否。それどころか、さらに貢物と共に上表して、「伴跛国」に奪われた領土(己汶)をとり返してほしいと願い出る始末です。まあ、この場合、伴跛のほうが加害者ですから、天皇は己汶・滞沙を百済に賜ります。

もっとも、前後して伴跛国も貢を奉り、己汶の地を乞うていますから、双方の言い分が食い違っていた可能性はあるでしょう。
いずれにせよ、半島の領土を獲った・獲られたという問題に裁可を下すべき立場にあったのは、雄略天皇の御代から引き続き、日本である、ということは言えるようです。

問題は、半島諸国が、自分たちに都合のいい裁可にしか従わず、都合の悪い裁可はこれを平気で踏みにじった(らしい?)ことです。
正直、このあたり、日本書紀の記述もゴチャゴチャしてわかりにくく、識者の解説もどこまで信じてよいのかわかりませんが……

上のような経緯で己汶の地は百済のものになりましたが、これを恨みに思った伴跛国は、「満奚」と同盟し、日本との戦いに備え、新羅を侵略しました。
最初に己汶を奪ったのが伴跛のほうだという百済の言い分が事実なら、逆恨みもいいところです。
しかも、百済が憎い→新羅を責める、というのも無茶苦茶でしょう。
いずれにせよ、新羅も日本の朝貢国には違いないわけですから、攻められたのが百済だろうと新羅だろうと、伴跛が弓を引いたのは日本に対してだ、とも、言って言えないことはありません。(「朝貢」の解釈も最近はいろいろあるようですが)

しかし、この謀反がその後どうなったのか、日本書紀の記述からは正直よくわかりません💧
物部連が遣わされたものの伴跛の襲撃に逃走したようなことが書いてあるかと思えば、皇紀1187年(継体天皇21年)には「新羅に」奪われた南加羅・淥己呑を奪還するため、近江の毛野臣が任那へ出兵したとあります。

いずれにせよ、百済・伴跛(聞き慣れない名ですが半島にそういう地方・豪族があったのでしょうか。任那の構成国? 日本でも尾張国三河国など今でいう都道府県レベルの「地方」のことを長らく「国」と呼んでいますので、いわゆる近代的な「国家」をイメージする必要はないのかも?)・新羅などなどがお互いの土地を好き勝手に奪い合い、困ったときには朝廷にすがりつき、しかしその裁可を不服としてまた謀反が起こるというありさまだったことはおおむね想像できそうでしょうか。
つまるところ、この時期、朝廷は半島に「国守」を置き、半島各国の領地・境界を定めるべき権能を有していたものの、遠隔地のことでもあり、その実効性は不十分だった、と推測できそうかもしれません。
半島各国は、都合の良いときだけ朝廷の支配権を認め・錦の御旗として利用しようとしつつ、自分たちに不利な場合はそれに従わない、ご都合主義の「用日」に徹していた、とも、言えるでしょうか。

その後、毛野臣の任那出兵に怯えた新羅は、筑紫の有力豪族・磐井氏に賄賂を贈り、出兵の妨害を依頼。半島の禍乱はついに日本本土にまで飛び火します。これがこちらの動画にも登場した「磐井の乱」です。
乱は平定されましたが、新羅討伐は遅れたので、ある意味、この局面では新羅の判定勝ちです。
しかもこのタイミングでさらに、百済はまた新たな要望を申し入れてきます。
今度は加羅国の多沙津という港を(朝貢の寄港地として)欲しいというのですが……朝廷はまたしてもこれをお許しになります。
加羅は当然、不服を申し立てますが、聞き入れられず、日本を恨み、新羅と同盟して謀反しようとしますが、同盟だったはずの新羅と揉め事を起こし、新羅は加羅の城を次々に攻略していきます。
これに手を焼いた任那王はどうしたかといえば、日本に助けを求めてきます。いいかげんきりがありません💧
かつて新羅も日本に背いて高句麗と結ぼうとしたら高句麗に攻められたので日本府に助けを求めたことがあり、歴史は繰り返すというか何というか、これが半島諸国の流儀なのでしょうか。

いったいいつの時代の話かと不思議に思えるほど、ある意味、おなじみの光景のような気がしないでもありませんが……
歴代天皇で読む 日本の正史」の著者・吉重丈夫はこれを評して、
またまた困ったときの日本頼みであるが、日本の朝廷も百済に甘すぎて半島を混乱に陥れた嫌いもないではない。
と書いています。

百済に対する日本の「甘さ」は、古代史を理解する上で押さえておいた方が良いポイントかもしれません。
上の領土問題はもちろん、すでに雄略天皇の御代には一度滅びた百済を日本の力で復興させてやっていますし、後の斉明天皇~天智天皇の御代にも、滅亡した百済を復興させるため、豊璋を王位につけ、援軍とともに帰国させてやっています。
こちらの動画の語る通り、元々、倭人の王や高官もいた国でもあり、縁があるといえばありますが、この期に及んでは良縁というよりもはや腐れ縁と化している気もします。日本はそんな情緒的な理由だけで日本が百済を優遇したのでしょうか? 

さすがに何か実利があったのではないかと思えるのですが、では、何が日本をそうさせたのか、といえば……さて?
私ごときには簡単には推測もできませんが、「大陸」という可能性は、少し検討してみたくもあります。

こちらで、百済は「航路的」に日本に近いと書きました。
少々言葉足らずだったかもしれませんが、この「航路」というのは、日本―半島間のことだけではありません。むしろそれ以上に重要なのは、半島―大陸間であり、もっと言ってしまえば日本―大陸間の航路です。
要するに、半島の西側に位置する百済は、日本と大陸の交渉の中継地・寄港地だった、のではないかと。
日本にとって重要だったのは大陸との交渉のほうであり、半島はその通り道として重要だった、のかもしれません。

ちなみに、上で空気を読まずに百済が要求してきた「加羅国の多沙津」というのも「津」とあるように、要は港です。しかもこのときの百済の「貢物」は、儒教の五経博士・段楊爾だったと言います。この時期の日本が何を欲しているか、百済はよく知っていたというべきでしょう。
もちろん、そのような有利な位置にあればこそ、他の半島国のから狙われるという面もあったかもしれません。実際、何度となく新羅に攻め込まれ、一度は、高句麗に滅ぼされた「実績」さえあるのが百済です。なおさら日本との関係を良好に保つ必要があったはずです。

もっとも、日本が甘かったのは百済に対してばかりではなく、新羅だろうと任那だろうと、困って泣きついて来ればすぐに手を差し伸べてしまうようですが(それで感謝されるどころかかえって舐められるのも様式美ですが)……それにしても百済に対しては特に一層輪をかけて甘々だったようにも見えます。
単に百済の用日がそれだけ堂にいっていたということか、あるいは、もっと別の理由なのか……私ごときには真相は謎ですが。
いずれにせよ、百済との腐れ縁はこのあともつづき、儒教につづいて、やがて仏教もまた百済経由で公伝することになっていくわけです(非公式にはそれ以前からある程度伝わっていてもおかしくありませんし、むしろ伝わっていたに違いないでしょうが)。
歴代天皇で読む 日本の正史
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
日朝古代史 嘘の起源 (別冊宝島)
知っていますか、任那日本府
韓国の妄言−韓国・朝鮮人はなぜこんなに尊大なのか?
ラベル:日本書紀 天皇
posted by 蘇芳 at 02:06| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする