2016年04月01日

和気清麻呂


和気清麻呂が古代史の英雄であることに異論はありませんが、彼が偉大であり重要であればあるだけ、なおさら、その業績(清麻呂のどこがどうえらいのか)を「正しく」理解・把握することは大切だと思います。
にもかかわらず一般向けに公刊されている研究書としては、事実上「和気清麻呂 (人物叢書)」が唯一というのは、お寒い現状ではないでしょうか。

自虐史観粉砕・戦後レジーム脱却・日本を取り戻す、といった掛け声によって、左翼捏造史観の化けの皮が剥がされつつあること自体は、欣快の念に堪えません。
が、それが行きすぎて、しばしば牽強付会や贔屓の引き倒しともいうべき単純化の弊に陥ることもありがちだとすれば、それもまた警戒されなければならないでしょう。

道鏡事件に関しては、しばしば似非保守陣営から、「称徳女帝は道鏡の野望を阻止せんが為に清麻呂を宇佐へお遣わしになった」などという妄想が飛び出します。
残念ながら、これはありえない話だと思います。
こちらでも書きましたが、それでは「日本後記」に、女帝が和気清麻呂の復命を「意に反する」ように思召したと、明記されていることの説明がつかないからです。
「日本後記」が編纂されたのはもちろん道鏡失脚後ですから、道鏡一人を悪者にして女帝をかばうことは容易だったはずであるにもかかわらず、日本の正史はそのように書くのです。
なぜなら、それが史実だったからでしょう。

また、客観的な情勢から考えても、宇佐八幡宮への清麻呂の派遣は、道鏡にとって不都合な話ではなかったはずでもあります。
そもそも最初に「道鏡を皇位につけよ」という偽の神託を持ち込んだ習宜阿曾麻呂は、大宰府の主神(神司)ですが、上の「和気清麻呂 (人物叢書)」によれば、その前職は豊前介であり、宇佐神職団ともコネを持っていた可能性が濃厚。そしてこの時期、大宰府の長官を務めていたのは、「弓削御清朝臣清人」、他でもない、道鏡の実弟だったといいます。
要するに九州一円の神社を統制する立場にあったのは道鏡の手のものであり、その九州は大分県にある宇佐八幡宮に勅使を派遣して神託を再確認するというジェスチャーは、最初から、道鏡の即位を正当化するためにこそ仕組まれた出来レースだったのではないでしょうか。
そうであればこそ、勅使派遣に先立って、道鏡もこれを阻止しようなどとはせず、清麻呂に対して、後の昇進をほのめかし、「務めを果たす」ことを暗に求めるだけで十分としたのではなかったでしょうか。
そして、そもそも、和気清麻呂は、孝謙・称徳天皇の側近であった姉・法均の縁故で取り立てられた人物でもあり、派閥的には、天皇サイドの人間でした(このような重要な勅使に選ばれる人物が天皇の信任を得ていないはずがありません)。
以上のような状況の中で、「日本後記」が記すように、女帝ご自身が道鏡の即位をお望みになっていたのだとしたら、清麻呂の本来の使命は、「道鏡即位の阻止」どころか、むしろ「道鏡即位の実現」以外の何物でもなかった、と考えざるをえないのではないでしょうか。

にもかかわらず、清麻呂は、それを覆しました。
とすれば、和気清麻呂という「英雄」の真骨頂は、その「裏切り」のなかにこそあるのではないでしょうか。

その「真骨頂」について語る前に、まず、清麻呂に対する評価の変遷について、見ておく必要があるようです。
実は、和気清麻呂をして皇位簒奪阻止の大英雄として顕彰する史観は、江戸時代の「大日本史」をもって嚆矢とするそうです(※ただし、大本の「日本後記」を除けば、でしょうが)。
それ以前の中世に書かれた史書・史論においては、清麻呂の存在はほとんど重視されていないといいます。
「水鏡」「愚管抄」「神皇正統記」その他、八幡宮関連の説話でさえ、事件の概略は、
・女帝が道鏡を皇位につけたいと思召し、清麻呂を宇佐へ遣わされたこと、
・しかし期待に反する神勅が下ったので、清麻呂は「仕方なく」ありのままを奏上するほかなかったこと、
・そしてこの一連の事件を通して道鏡の簒奪を阻止した功労者はひとえに「藤原百川」その人であるとすること、
で、共通しているようです。

なるほど、こちらでもこちらでも述べた通り、元々神祇氏族の中臣である藤原氏は、仏教勢力と敵対してきた面があります。
時代を経てそのような真面目な宗教性を失っていたとしても、藤原仲麻呂を死に追いやった道鏡の即位を、藤原氏が容認するいわれはありません。
長屋王の変、光明子立后など、藤原氏の歴史は政争の歴史です。そして、橘諸兄の栄華をやり過ごし、ついに道祖王を廃することに成功、淳仁天皇の即位を以て、橘氏に代わって位人臣を極めたのが藤原仲麻呂≒恵美押勝でした。
その仲麻呂にとってかわった道鏡は、藤原氏の政敵・宿敵以外の何物でもなく、追い落としをはかる動機は十分にあります。
しかし、神託事件の功労者が藤原氏だとした場合、清麻呂の立場は、悪くすれば「藤原氏に屈服した道鏡の手先」、良くても「道鏡排斥のため藤原氏と内通したスパイ・手先」といったところになってしまいますが……その後の成り行きをみると、これはいずれも首肯しがたいようです。

真実の神託を復命した清麻呂は、道鏡の怒りに触れ、法均尼共々、名を変えられ冠位を剥奪され左遷(流罪)され、その名誉が回復されたのは、称徳天皇が崩御され、光仁天皇が即位された後だったことは、周知の事実です。
このとき、清麻呂の名誉は回復され、冠位も旧に復しましたが、あくまで元に戻った「だけ」であるとも言えます。
上の中世の史観から推測されるように、清麻呂がもしも「藤原氏の手先」だったのだとしたら、左遷中の労へのねぎらいも含めて、もっと盛大な恩賞にあずかっていてもよいはずです。
かといって、もう一つの可能性(「藤原氏に屈服した道鏡の手先」)のほうを取るとしても、それはそれで、百川の行動に説明がつかない面が出てきます。清麻呂が道鏡の怒りにふれて左遷されるとき、百川はこれをあわれんで「封戸二十戸」を清麻呂に与えているといいます。清麻呂が単なる道鏡の走狗にすぎなかったのだとしたら、そんな面倒を見てやる必要はなかったのではないでしょうか。
そもそも、光仁天皇崩御後、その皇子・桓武天皇の御代には、清麻呂は一挙に昇進し、重用され、あらためて大活躍を始めるのですから……逆賊・「道鏡の手先」だったというのは理屈に合わない話です。

藤原氏の手先でもなく、道鏡の手先でもなく……
とすれば、清麻呂の行動は、やはり、彼自身の決意に基づく、主体的な行動だったことになりそうです。
「真の神託」に藤原氏の関与があったのか、あったとすればどのていどか、宇佐八幡宮神人たちの意向は如何、と、謎は尽きませんが、清麻呂自身の意志を過小評価することはやはり無理があるように思います。
しかも、その「行動」とは、称徳天皇の御希望には背き奉り、天壌無窮のコモン・ローを護持する側に回るというものだったのですから、単なる盲目的なイエスマンのそれではなく、確固とした思想性に裏付けられた「諫言」の一種ということになり、なおさら、驚かされます。

和気清麻呂とは、何者だったのか?
何が彼をしてそれを成し遂げさせたのか?
清麻呂の「英雄」としての真の面目は、そこにこそ隠されているのではないでしょうか。

上でも述べた通り、和気清麻呂が本格的に重用されるのは、光仁天皇の御代ではなく、桓武天皇の御代でした。
前掲「和気清麻呂 (人物叢書)」によれば、桓武天皇の御代の人事には、著しい特徴があるといいます。
和氏、秦氏、坂上氏(東漢)、菅野氏(西漢)など、多くは帰化系の土豪勢力の重用がそれだと平野邦雄は主張します。
そして和気氏もまた、備前・美作を本拠とし、秦氏とも深い関係を持っていた土豪勢力のひとつであった、と。
桓武天皇の御治績は「造営と軍事」ですが、軍事に活躍したのは坂上苅田麻呂・田村麻呂、長岡・平安両京の工事を技術集団として従事したのは秦氏、そして造宮使として(謀殺された藤原種継らと共に)遷都の主導的地位についたのは、和気清麻呂その人でした。
また、桓武天皇の遷都事業においては、南都仏教との決別が指向され、その旧仏教勢力に対する対抗馬として、最澄・空海の新仏教に庇護が与えられますが、この両者の取り立てにも、清麻呂とその子供たちが深くかかわっているといいます。

旧都奈良との決別。それは諸事革新の上からの改革であり、古代の「御一新」でもあったのかもしれません。
その担い手として躍り出たのが、従来の門閥貴族とは異なる、比較すれば下級とも言ってもいい出自の「土豪勢力」であったとしても、不思議ではないような気はします。
平野邦雄の口吻には「ナロードニキ」的な左翼ロマンチシズムの情緒に傾きすぎる嫌いも感じなくはありませんが……
上で事件名だけを挙げた、長屋王の変、光明子立后問題、道祖王(と橘氏)排斥、淳仁天皇・船親王・池田親王の擁立などなど、藤原氏のやりようは、確かに、仏教勢力に対抗した義挙の面もありましたが、同時に、自家の英達のみを追及する権力闘争の様相も色濃いと言わざるをえません。平安時代になれば、こちらで触れた阿衡事件や昌泰の変など他紙排斥の傾向はいよいよあからさまになっていきます。
そして摂関政治の完成に伴い、中央政界の権力闘争にうつつをぬかす門閥貴族が、地方の経営をおろそかにし、荘園・武士団の形成など、在地豪族の台頭に、実力面で敗北していくことになることは、よく知られているなりゆきはないでしょうか。
桓武天皇の「御一新」がそのような旧政治の刷新をも含めてのものであり、その新政治の担い手として、新興勢力が積極的に登用された、ということは、ありうべきことであると言えそうな気はします。

つまるところ、和気氏を含めて、平野氏のいう「土豪勢力」には、中央政界の権力闘争≒コップの中の嵐にのみうつつを抜かす門閥貴族とは違った、地方統治の現実を知り、それを善導すべき政治的手腕や思想性を胚胎するだけの素地はあったのではないでしょうか。
岡山県和気郡和気町・実成寺境内には「美作備前国造清麻呂卿之塚」と記された古い顕彰碑が建っているといいます。その碑文に記された清麻呂の業績は、道鏡事件を阻止した皇国の英雄としてのそれではなく、在地領民のために善政を敷いた地方領主としてのそれであると言います。
摂津大夫となつては、即ち辟を墾き以て民を賑わし、……備前において墾田一百町をもつて賑恤の資となし、郷民これにさいはひせらる。また郡をさき、もって磐梨郡を建て、大河雨水の憂を解き、民今にいたつてその沢を被る。(傍線は前掲書に依る)
「民衆」「民衆」というといかにも戦後知識人の左翼的偽善性を感じさせられなくもありませんが……領地に足をつけた「土豪」和気清麻呂が、後年の不在国守などとは違って、地方の実情を知り、経世済民・天下万民のための政治を心掛けるだけの見識を有していたであろうことを、疑う必要はないように思います。
(経世家としての清麻呂の事跡を示すとも読める挿話は、「日本後記」にもいくつか収載されています)

和気清麻呂が、そのような経世済民の志と、それを領地で実現するだけの手腕を有していた、ひとかどの人物だったとしたら、道鏡事件に際して、藤原氏に言われるまでもなく、主体的に、道鏡の野望を除く決意をしたとしても、不思議ではないように思います。
藤原氏が中央政界の権力闘争にうつつを抜かしていたとするなら、道鏡をはじめとする仏教勢力の「政治」など、なおさらです。
聖武天皇の大仏建立や無計画な遷都が国庫を傾けしめたことはすでにこちらで軽く触れましたが、口に国家鎮護や衆生済度を唱えながら、それを実現するための仏教政治の政策とは(現代よりはるかに宗教に現実的効力を認めていた古代においては)仏像・仏事・法事の類であり、結局、寄進集めに精を出すことが主眼になってしまうのですから、現実的経世家の目には児戯に等しく見えたのではないでしょうか。
その仏教政治の究極が道鏡事件です。
藤原氏をはじめ、門閥貴族たちもこれを支持するはずがなかったことは上でも述べた通りです。
貴族たちばかりではありません。たとえどのような独裁者であっても太政大臣禅師などあくまで臣下の身にとどまるならばまだしも、道鏡が至尊の御位をうかがうに及んでは、仏教勢力の中からも反道鏡の気運は高まっていたかもしれません。
「日本後記」には、道鏡の師である路真人豊永が、宇佐へ出発せんとする清麻呂に、
「道鏡が皇位に即くようなことがあれば、自分は何の面目があって臣下として天皇にお仕えすることができよう。自分は二、三人の仲間とともに古代中国の殷の人である伯夷に倣い、身を隠して道鏡に仕えることはすまいと思う」(森田悌)
と語ったとあります。これは創作でしょうか? そう決めつけたものでもないでしょう。結局のところ、彼らとて日本人なのです。
(そもそも、現代のお東騒動ではありませんが、俗物ぞろいの仏教界が一枚岩であるいわれなどはさらさらなく、天壌無窮の神勅という正当性を持たない者による皇位簒奪という事態は、同輩たちの嫉妬や野心、また義憤を刺激しないはずもありません)
そのような反道鏡の「空気」のなかで、経世済民の理想とそれを実現する手腕を持った政治家・和気清麻呂が、図らずも、事件のキャスティングボードを握ることになったとしたら……?
宇佐八幡宮神託事件における、和気清麻呂の「主体的関与」は、十分に可能だったように思えますし、それこそは、「英雄」としての和気清麻呂の真面目というべきなのではないでしょうか。

しかし、だとすれば……

称徳天皇個人のご期待に背いて、天下万民のために、道鏡の野望をくじいた和気清麻呂は、「右翼の英雄」ではなく、むしろ、「民衆(≒プロレタリアート)の英雄」であり「左翼の英雄」なのでしょうか?
(前掲書の著者・平野邦雄氏は、深層において、そう主張したがっているような気がしないこともありません)。
が、私はそうは思いません。
こちらで述べた通り、天皇・皇室の尊厳は、個々の天皇個人にあるのではなく、御歴代の天皇が総体として象徴せられるもの(なんならそれを国体といってもいいのかもしれません)にこそあり、こちらで述べた通り、天皇でさえ従わなければならない「神勅」こそが、日本の至高の本源だと思うからです。
和気清麻呂は、「称徳天皇」個人の御希望を諫止したてまつることで、総体としての「天皇なるもの」に忠節を尽くしたのではないでしょうか。
「天皇」とは「日本」の核心そのものであらせられるのですから、総体としての「天皇」への忠誠とは、「日本」そのものへの忠誠であり、その「日本」には「日本国民」すべてが含まれている、と言っていいいように思います。

それに、何といっても、その後、和気清麻呂を深くご信任あそばされたのは、第五十代の「天皇」であらせられたのです。
道鏡事件の最も驚くべき核心は、その後、「経世済民・天下万民のための政治」を善しとされ、推進せんとお志しになったのが、左翼の言う支配「階級」の頂点におわします天皇ご自身であらせられたことではないでしょうか。
したがって、清麻呂の「土豪性」を以て、左翼的な階級闘争史観の正当化に利用することは、歴史を単純化することにしかならないと思います。
むしろ、和気清麻呂は「民衆の英雄」であり、「皇国の英雄」であり、その両者はわが国体において矛盾なく一致する。それゆえにこそ、和気清麻呂は奈良時代最大の英雄と呼ぶに値するのだ、と、言うべきではないでしょうか。

仁徳天皇の物語が史実であれ創作であれ、それを史実として語り継ぎ、理想とされてきた御歴代天皇のしろしめされる我が国体において、「君」と「民」との理想は一致しうる、という「君民共治」の国柄こそ、最も驚くべき、畏むべき、秘密であるように思います。

以上、あくまで、試論というか、むしろ「和気清麻呂 (人物叢書)」の感想です。
本格的な清麻呂研究がさらに深化されることをまともな学者の皆さんには期待したいところです。
和気清麻呂 (人物叢書)
和気清麻呂
続日本紀(中) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
続日本紀(下) 全現代語訳 (講談社学術文庫)
日本後紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
歴代天皇で読む 日本の正史

追記:
思えば、昭和の「革新官僚」たちでさえ、客観的にはコミンテルンの走狗であり、極左売国奴ですが、主観的には「社会主義天皇制」を目指した「純粋」な青年たちでした。二二六事件をはじめとする反乱将校たちが、農村の窮乏を憂える(清麻呂のような)経世済民の理想にその動機を持っており、主観的にはなお天皇の赤子であったことは、現在の反日勢力の劣化した単純な悪意とは比較にならない深刻な問題を孕んでいるように思います。
国体の秘密の深遠さであり、それゆえの難解さでしょうか……
posted by 蘇芳 at 23:07| 「続日本紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする