2016年03月31日

国「体」を「継」承する者


こちらで述べたように、顕宗天皇の即位を以て、「古事記」の「物語」は大団円を迎えます。しかし、歴史はなおも続いていきます。
顕宗・仁賢両天皇によってひとまず回避されたかに見えた皇統断絶の危機は、第二十五代武烈天皇が皇子をお残しにならなかったために再発し、傍系から第二十六代継体天皇をお迎えすることになったことは、すでにこちらで概略を見た通りです。
継体天皇の即位事情自体には、反日勢力が捏造しようと企てる「謎」などはありません。
「謎」というのなら、記述の乏しい武烈天皇のほうがはるかに「謎の大君」です。

「日本書紀」中、武烈天皇紀の記述は異常です。
日本の正史を読んでいたはずが、いつのまにか膏血城のような猟奇趣味の昔話でもはじまったかのような唐突感とともに、天皇の悪行三昧がだらだらと記述されています。
こちらでも触れましたが、これは大陸の史書の慣例を踏襲したものだとする説が有力だそうです。

こちらでも述べた通り、大陸の「歴史」というのは、易姓革命の思想によって自らを正当化するために創作されるプロパガンダにすぎません。したがって、新しい王朝が、滅んだ王朝の歴史を、自分たちの都合の言いようにデッチアゲて書くのが通例です。故に、王朝最後の王は必ずと言っていいほど悪逆非道の暴君として描写されているそうです。

武烈天皇に継嗣なく、仁徳天皇直系の皇統はここで絶えることになりますから、正漢文で書かれ、帰化人の関与もあったのだろうと言われている「日本書紀」が、これを大陸の王朝交代になぞらえたのだろう、という通説には、一応の筋は通るようにも思われます。

しかし、実際には王朝交代など行われてはいません。
事実において行われていませんし、日本書紀の記述においても然りです。
この「日本書紀の記述において」というのは実はとても重要ではないでしょうか。

反日勢力は嘘だと決めつけるでしょうが、日本書紀の記述が強調しているのは、継体天皇が「応神天皇の五世孫」であらせられ、皇位継承の正当な資格を具有せられていることのほうです。
「王朝交代の正統性」のために武烈天皇を悪に仕立てあげる一方で、「皇位継承の正統性」のために継体天皇の出自を偽った、という反日勢力の想定は、つまり相反する目的の「嘘」が二つながら並立しているということであって、支離滅裂なのではないでしょうか。

思うに、武烈天皇の御代に世の中が乱れていたことは、事実なのかもしれません。
天皇に御子がないことは、当然、御在世中から臣下にとって悩みの種だったはずです。
崩御の後はどうなるのか、また、自分たちはどう行動するのか、さまざまな思惑が錯綜したとしても不思議はないでしょう。
ある者は、皇位継承の正統性の根拠をどこに求めるか、あらためて考究し、正しい皇位継承者を見出さんとしたでしょう(ちょうど、現在の危機に際して、旧皇族の皇籍復帰を必須のものとする愛国者たちのように)。
また一方で、それこそ「王朝交代」を目論む大逆の謀反人どもも、いなかったとは限りません(皇統断絶計画を推進した小泉やその他無数の反日勢力のように)。
実際、先の動画で見たように、継体天皇の御代には新羅と通謀した磐井の乱が起きてもいます。

かつての熊襲も半島と通謀していたようですし、現代の反日勢力がどこと通謀しているかなどはいわずもがなでしょう。
謀反のかげに半島あり、というのは古代から現代まで、わりと頻繁にあったことかもしれません。

また、吉備氏も、雄略天皇の御代から書紀に記述が増え、新羅と通謀したこともあるようです。
この吉備氏からは、後世、聖武・孝謙・称徳天皇の御代に重用された吉備真備を輩出していますが、奈良時代末期の天皇が仏教に深く傾倒され、ために無数の血が流されたこと、元は神祇氏族である藤原氏(中臣)がその潮流に対抗したようにも思われることは、、こちらで述べた通りです。

結局のところ、日本史上の危機において噴出するのは、尊皇・敬神・国体護持の勢力と、外国と通謀して国体を顛覆せんと企てる勢力との抗争である、ように思われ……
武烈天皇崩御に伴う危機にさいしても、磐井の乱に限らず、何らかの「抵抗」があった可能性は、高いのではないでしょうか。
あるいはそれは武力を伴わない陰険なものだったかもしれません(しつこいですが、つい最近の皇統断絶小泉計画のように)。

事実、先の動画に見るように、大和朝廷の大君であらせられながら、継体天皇は、大和の地にお入りになるまで、実に二十年を要しておいでになります。

皇紀1167年(継体天皇元年)、河内樟葉宮(大阪府枚方市樟葉)にて即位、
皇紀1171年(継体天皇5年)、山城綴喜宮(京都府京田辺市多々羅都谷)に遷都、
皇紀1178年(継体天皇12年)、山城乙訓宮(京都府長岡京市今里)に遷都、
皇紀1186年(継体天皇20年)、磐余玉穂宮(奈良県桜井市池之内)に遷都。

これだけ長い間入京できなかったということは、それだけ抵抗勢力が根強かったということかもしれませんし、また、その「抵抗」にこれだけ長く抗しえなかったということは、反日勢力が妄想する「大和王朝を滅ぼした新王朝の祖」としては、いささか似つかわしくない頼りなさでもあるのではないでしょうか。
そして、最終的には、組織だった軍事衝突もなく、平和裏に奈良へ入京されているのですから、それは結局のところ、継体天皇に正統性があった証でもあるのではないでしょうか。
武烈天皇崩御の機会に便乗しようと画策した勢力がもしあったとしても、継体天皇を凌駕する大義名分を提示することは、ついにできなかったということのように思います。

とすれば、やはり、吉備や磐井といった当時の反日勢力に対して、継体天皇擁立に動いた物部・巨勢・大伴の三氏こそは、後世の藤原(中臣)のような立場に立ったのだ、と、書紀の記述を大略においては素直に受け止めておくべきではないでしょうか。
(物部は後の崇仏論争のとき、廃仏・敬神の側に立った氏族ですし、大伴は後世「海ゆかば」の作詞者を輩出した武人の血族。また、巨勢氏からは後に乙巳の変で蘇我蝦夷の配下への降伏勧告に遣わされた将軍を輩出しているようです)

そもそも大前提として、反日勢力の主張には、何の証拠もありません。
王朝交代があってほしい、あったに違いない、と、願望から勝手な断定を下し、屁理屈で糊塗しているだけです。

継体天皇が新王朝の始祖だというのなら、なぜ堂々とそう名乗らなかったのか?
日本の大君は神武天皇の子孫でなければならないという観念がそれだけ強固だったのでしょう。
その観念がそれだけ強固だったにもかかわらず、群臣が継体天皇の即位を認めたのは、それではなぜか?
王朝交代がもっとも困難な国において、正史に何の痕跡もない王朝交代があったのだと主張するのなら、相応の根拠・証拠を提示する責任があるのは、それを主張する側でしょう。
歴代天皇で読む 日本の正史
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
皇位継承と万世一系に謎はない (扶桑社新書)
日朝古代史 嘘の起源 (別冊宝島)

追記:
すでにこちらで触れた先帝武烈天皇の姉妹・手白香皇女はもちろん、同じく同母姉妹の橘仲皇女(宣化天皇皇后)、皇后・春日娘子(雄略天皇皇女)など、女性皇族は何方もおいででしたが、女帝擁立の動きが一切無いことには、あらためて注意を喚起しておきたいところです。
直系の皇嗣が途絶えたなら、すみやかに傍系から男系男子皇族をお迎えするという伝統は、ここでも確認されているわけで……「女性天皇」「女系宮家」による皇統断絶を目論む反日勢力が、同時に「継体朝」を持ちだすことは本末転倒の筋違い、なりふりかまわぬ支離滅裂というべきではないでしょうか。
彼らにとって、そもそも論理などというものは三文の価値もないのであろうことは、昨今の発狂ぶりによっていよいよあからさまになっていますが……日本の「敵」はそのような没義道の輩だということを、幾重にも銘記してしすぎることはないと思われます。
ラベル:天皇 日本書紀
posted by 蘇芳 at 02:07| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする