2016年03月28日

【動画】「倭王武」


こちらでも見た通り、第二十一代雄略天皇は、気性の激しい天皇であらせられたようで、とらえ方が難しい方です。「日本書紀」にも、国民がその行いを「悪い天皇だ」と言ったかと思えば「徳のある天皇だ」と讃えたり、と、相異なる挿話が多数収録されています。
が、即位前後の皇族殺害については、元より根使主の讒言に端を発することですし、眉輪王の背後関係を疑われたことにもそれなりの合理性はあります(ただし証拠はありません)。
後には皇后の説得に応じて何度も臣下の誅殺を思いとどまってもおいでですし、何より根使主の罪を明らかにされたときの御処分は正当でした。
思うに、御気性が激しく、短気でもあらせられ、軽率でもあらせられたかもしれませんが、いわゆる「悪人」という印象ではありません。
いわゆる豪傑肌というか、武断派とでも申し上げるべき天皇だったのではないでしょうか。
雄略天皇の御代には、半島で騒乱が起こっていますから、その時期に、果断な天皇が君臨せられていたことは、それなりに幸いだったのかもしれません。もっとも、天皇の信じやすい御気性が、半島に対する処分の不徹底にもつながりえたのだとすれば、少々、悔やまれる気がしなくもありません。



動画概要:
2015/04/12 に公開
日本書紀に記載されている百済滅亡の様子を
現代文で平文でなおかつ大胆に意訳してみました

「日本書紀」を見ると、百済、新羅、高句麗の半島三国は、日本と、それぞれ微妙に異なる関係を結んでいたことが伝わってきます。
「微妙に異なる」といっても、地図を見れば、彼等の打算は一目瞭然ですから、わかりやすいとも言えます。
半島の西側にあり、航路的に日本に近く、任那加羅とも境を接していた百済は、最も日本との関係が深く、
日本から最も遠い高句麗は、それだけ日本に敵対する度合いも強かったようですが、その分、裏表は比較的少なくわかりやすい狼藉者といったところ。
しかして、その中間に立つ新羅こそは、最も因循姑息・恥知らずな二枚舌の蝙蝠でした。
後年、その新羅こそが姑息な手段で半島を「統一」したことは、半島の堕落の歴史にとって大きな画期だったかもしれません。
歴代天皇で読む 日本の正史」の著者・吉重丈夫は、
以後の歴史を見ると、ここで日本が助けないで新羅が滅んでいた方が、日本にとっては、また半島の民にとっては良かったとも言える。
と明言しています。
雄略天皇が、いわば「親分肌」の武断派であらせられ、叛く者には苛烈である一方、媚びる者には鷹揚であらせられたのだとしたら、いろいろと平仄が合うようにも思います。

いずれにせよ、こちらで見た通り、履中天皇~允恭天皇の御代に、すでに半島は相当に乱れていたようですが、それがいよいよ猖獗して、日本に泣きついてくるのが、雄略天皇の御代だったようです。

まず百済ですが、この時期には、いよいよもって日本の威にすがって国を保とうとしていたようです。上の動画では「へたれ」と言われていますが、まあ、弱者の知恵というやつでしょう。
百済の第二十一代蓋鹵王(「日本書紀」では加須利君)は天皇に美女(池津媛)を献上しますが、この池津媛が臣下の石川楯と密通、天皇は激怒して二人を誅殺します。
これを伝え聞いた蓋鹵王は、「(池津媛は)礼に背きわが国の名をおとしめた」と怒り、弟の軍君に、日本へ行き天皇に仕えよと命じます。
後の詔を見るに、百済は新羅に攻撃され、城を奪われたりもしていたようですから、百済としては何としても日本にすがり、ご機嫌を取り結ぶ必要があったのでしょう。

その新羅ですが、この頃にはまたしても日本に背き、朝貢を怠るようになり、そして日本を恐れて高句麗とよしみを通じ、援兵を乞うて、防衛しようとしていたようです。
しかし、その高句麗の援兵というのが、実は真っ赤な偽り、新羅を陥れるための策略だったことが判明、新羅は国内の高句麗兵を鏖殺します。
これを知った高句麗は軍を起こして新羅に攻めかかります。
このとき、新羅がどうしたかといえば、任那へ使者を遣わし、平身低頭の土下座外交、日本府の救援を乞うという見苦しいありさまでした。
よせばいいのに任那王は援軍を出し、新羅を救ってやります。
そして新羅に向かって曰く、
「お前の国は至って弱いのに、至って強い国と戦ったのであるから、日本軍がもし助けなかったら、この戦いできっと他人の国になっていただろう。今後は天朝に背いてはならぬ」(宇治谷孟訳)
もちろん、それで悔い改めるような殊勝な心掛けなど、新羅に期待すること自体が、そもそも間違いです。
(ちなみに、上の吉重の論評も、このときの新羅救援についてです)

わずか一月後には、天皇は新羅を討とうとされたというのですから、新羅の態度はまったく改まりなどしなかったのでしょう。今風に言えば、上手く「用日」してやったというところで、舌でも出していたのかもしれません。
皇紀1125年(雄略天皇9年・西暦465年)詔したまいて曰く、
「新羅は前から朝貢を重ねていたのに、私が王となってから身を対馬の先まで乗り出し、跡を草羅に匿して高麗の貢を妨げたり、百済の城をとったり、自らの貢物も怠っている。狼の子のような荒い心があって、飽きるとはなれ去り、飢えると近づいてくる。汝等四卿を大将に任ずる。王師をもって攻め討ち天罰を加えよ」
将軍たちは新羅に入り、目覚ましい進撃ぶり。新羅王は、「夜、皇軍が四面を囲んで、鼓声をあげるのを聞き、すべて占領されたと思い、数百の騎兵と共に遁走」した、と、書紀にあります。
本当に1500年以上前の話なのかと思うほど、行動パターンが現在のどこかの国民性とそっくりではないでしょうか。
しかも、このときでさえ、新羅を亡ぼすところまではいかなかったようで、日本の甘さも一貫しています。

ともあれ新羅についてはそれで一段落したようですが、高句麗はまだ健在。
先年、新羅を狙ったのにつづいて、今度は百済を狙ってきました。
皇紀1135年(雄略天皇19年・西暦475年)から翌年にかけて、高句麗が大軍をもって漢城(ソウル)を攻め、百済を滅ぼし、先の蓋鹵王も戦死します。
皇紀1137年(雄略天皇21年・西暦477年)、天皇は百済滅亡の報に接し、久麻耶利(忠清北道清州市)の地を、先代蓋鹵王の子・汶州王に賜って、百済を再興させられました。
すなわち、半島の土地を「臣下」に与えるという権能を、当時の大和朝廷は有していた、ということになります。
この雄略天皇の措置に対して、高句麗が異を唱えたとか、そういう記録もないようです。それどころか、そもそも百済を滅亡させた時点で、すでに、高句麗は朝廷の意向を恐れ、顔色をうかがっていたという記述が「日本書紀」にはあります。
皇紀1136年(雄略天皇20年・西暦476年)、高麗の諸将が高麗王に対して百済の生き残りの追討を建議したとき、高麗王は、
「よろしくない。百済国は日本の宮家として長らく存している。またその王は天皇に仕えている。周りの国々も知っていることである」
と、制止しています。

以上のような、日本と半島の関係は、「日本書紀」だけが勝手に言い張っている空言ではなく、半島自身の正史「三国史記」や、大陸の史書にも明記されている史実です。
大陸・半島の史書の信憑性にはこちらで述べたように多大の疑義がありますが、三か国の史書全ての内容が一致・符合するのなら、無下にするわけにもいかないでしょう。
『三国史記』の「新羅本記」には、皇紀1138年、「倭人が挙兵し、五道から攻めてきた」とあり、その戦乱の後、新羅は先王の子を(任那など半島の倭人国ではなく)日本本国に人質として送っているともいいます。
そして、雄略天皇は、大陸の史書のいう「倭王武」であると比定されていますが、同皇紀1138年、宋の順帝は雄略天皇に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」の号を授けているといいます。授けるといっても勝手にであり、要は綽名をつけた程度の自己満足にすぎませんが、当時の宋王朝が、半島を日本の支配地域であると明確に認識していた証拠にはなります。

なお、この宋王朝との外交交渉について、八幡和郎「最終解答 日本古代史 (PHP文庫)」には、雄略天皇がケチ臭い宋を見限り、断交した、という見解が示されています。これもまた卓見というべきかもしれません。
宋はこの翌年(皇紀1139年・西暦479年)には滅亡、その後をついで成立した斉、梁などの後継王朝も、それぞれ景気のいい称号を「倭王武」に勝手に与えていますが、もはや雄略天皇は相手にさえなさらなかったようです。
左翼売国奴や敵国のスパイの外観誘致まがいの古代史捏造に騙されないためにも、知っておいて損はない史実かと思います。
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
歴代天皇で読む 日本の正史
最終解答 日本古代史 (PHP文庫)
日朝古代史 嘘の起源 (別冊宝島)
posted by 蘇芳 at 02:24| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする