2016年03月27日

回復された「秩序」

    

「古事記」の収録範囲は第三十三代推古天皇まで、と、言われています。
それはもちろん嘘ではありませんが、終盤になると、生没年や即位年、宮や陵の所在地、系図的事実などの列記のみに終始して、御治績に関する記述やエピソードはほぼ見られなくなります。
「古事記」の物語的な展開は、事実上、第二十三代顕宗天皇の御代で終わっています。
それは、「古事記」全巻の終幕に相応しい、大団円でもあると思います。

大団円……ということは、それ以前には、少々、解決を要する問題が発生していたということでもあります。

記紀の展開には、いくつかの画期があり、歴代の御治績をひとまとまりで見たほうが理解しやすい面があると思いますが……第二十代安康天皇から第二十三代顕宗天皇の四代も、国内的には、一連の事件によって貫かれているようです(外交方面はまた別ですが)。

九州を旅立ち、大和にたどり着いて、先住の豪族たちと、あるいは和し、あるいは戦って、地歩を固め、ささやかな王国を築かれたのであろう初代神武天皇から、豪族たちとの縁戚を含む交渉の中で平和的に勢力を拡張されていったのであろう第九代開化天皇までの御代が、朝廷の基礎固めの第一期であるとすれば、
祭祀を整え、四道に将軍を発して朝廷の勢威の全国的拡大に乗り出され、半島との交渉も始まった第十代崇神天皇から、景行天皇の征西や日本武尊の東征を経て、ついに半島及び九州を平定された神功皇后・第十五代応神天皇の御代までは、国家統一の第二期というべきでしょうか。
その後、第十六代仁徳天皇から第十九代允恭天皇までの御代は、「書紀」に目だった大事件の記述もなく、国内的には安定期に入っていたように見えます(半島ではいろいろあったようですが)。

しかし、安寧というのは、長くは続かないものなのでしょうか。
第二十代安康天皇の御代に端を発して、皇室に大きな災いがふりかかります。

第二十代安康天皇は第十九代允恭天皇の第三皇子。
大泊瀬稚武皇子(後の第二十一代雄略天皇)は、安康天皇の同母弟にあたらせられます。

雄略天皇を、単純に「暴君」と決めつけるのは、公平ではないでしょう。
多くの血を流された天皇ではありますが、何度もそれを悔いられたり、思いとどまられたり、臣下の諫言を入れられたり、ということもあったようです。
しかし、気性の激しい天皇であらせられたことは事実だったのでしょう。
大泊瀬稚武皇子が、反正天皇の娘たちに求婚したとき、娘たちは皆、皇子を恐れて身を隠してしまった、と、書紀は記しています。
「あの方は日頃から乱暴で恐い方です。にわかにご機嫌が悪くなると、朝にお目にかかった者でも、夕方にはもう殺され、夕にお目にかかった者でも翌朝には殺されます。いま私たちは容色が美しくなく、また気もきかぬ者です。もし振舞いや言葉が、毛の末ほどでも王の心に適わなかったならば、どうして可愛がって頂けましょうか。こんなわけですから、仰せごとを承ることはできないのです」(宇治谷孟訳)
……物語的な誇張はあるにしても、ずいぶんとまたえらい言われようですが。

事の発端は、安康天皇が、この弟・大泊瀬稚武皇子のために、あらためて妻を探してやろうとなさったことでした。弟思いの良い兄であらせられたのでしょう。
白羽の矢が立ったのは、仁徳天皇皇女(安康・雄略両天皇からは叔母に当たります)草香幡梭皇女でした。
縁談を持ちかけられた、皇女の同母兄・大草香皇子は、二つ返事で快諾され、返礼として、家宝にしていた「押木玉縵」を天皇に献上します。
これが不幸の始まりでした。
縁談の使者として遣わされていた「根使主」は、欲心を起こし、押木玉縵を横領。天皇には、大草香皇子が縁談を断った、と、嘘の復命をします。この讒言を信じてお怒りになった天皇は、大草香皇子を攻め滅ぼしておしまいになります(雄略天皇だけでなく、安康天皇もわりと気性の激しい方だったのでしょうか……)

安康天皇は、大草香皇子の妃だった中帯姫をご自身の妃として宮中にお入れになり、その連れ子・眉輪王をも引き取られます。
この眉輪王は、やがて天皇が実父・大草香皇子を殺害された仇であると知り、若干7歳にして、熟睡中の天皇を刺殺、弑逆してしまわれます。
この凶報に接した大泊瀬稚武皇子(雄略天皇)は、兄たちに疑いを抱かれたと「書紀」にあります。どういう種類の「疑い」であるのか、詳細な説明はありませんが、天皇の突然の崩御は、皇位継承争いの発端ともなりかねないでしょう。いずれ大草香皇子も眉輪王も由緒正しい皇族ですから、「仇討ち」という大義名分がある眉輪王を利用しようとする動きがあってもおかしくはありません。何といっても七歳の幼児による殺人ですから、指嗾者・黒幕・背後関係の存在を疑われたとしても無理はなかったでしょう。
大泊瀬稚武皇子(雄略天皇)は、まず同母兄の八釣白彦皇子を斬殺され、次いで、眉輪王と、王を庇護していたやはり同母兄の境黒彦皇子を、もろともに攻め滅ぼされます。
さらに大泊瀬稚武皇子の猜疑は、従兄弟にあたる、第十七代履中天皇の皇子・市辺押磐皇子へも向けられ、やはり、殺害されます。
また、押磐皇子の同母弟・御馬皇子(三輪皇子)も、天皇に誅された一人でした。

根使主の讒言に端を発して、皇族間に復讐と殺害の嵐が吹き荒れたというわけで……
当然、それぞれの皇族に従っていた臣下たちの血も、多数、流されています。
これが、冒頭で述べた「解決を要する問題」であり、この復讐譚に最後の決着をお付けになったのが、第二十三代顕宗天皇、ということになります。

第二十三代顕宗天皇と、第二十四代仁賢天皇は、共に、上で雄略天皇に殺された市辺押磐皇子の忘れ形見でした。
市辺押磐皇子が殺された後、兄弟は身を窶して難を逃れ、丹波国~播磨国に隠れ住んでおいででした。
時は移り、雄略天皇崩御の後、践祚された第二十二代清寧天皇は、後継者に恵まれず、他の皇族も雄略天皇に滅ぼされていたため、皇統は断絶の危機に陥りました。
このとき、ようやく見出された皇位継承者が、市辺押磐皇子の子である弘計王・億計王の御兄弟、後の顕宗・仁賢両天皇でした。
このあたりの展開は、記紀両書に、物語性豊かに記載されて、有名です。

顕宗天皇の即位にあたっては、記紀でおなじみの、兄弟間における「皇位の譲り合い」が発生しています。
身を窶していたとき、勅使の前で真の身分を明かされたのは、「弟」の弘計王であり、この「実績」を以て、「弟」こそが先に皇位におつきになった(顕宗天皇)、というのは、第二代綏靖天皇の御代と同じ構図であり、そもそも「弟」優先という展開自体、記紀ではおなじみの光景です。
兄弟間の譲り合いが、弟の死と兄の即位で決着した仁徳天皇の場合とは違って、むしろ、日本・皇室の古い伝統に即したものと言えそうです。
もちろん、皇位をめぐって兄や従兄弟に疑いをかけられ、次々に殺害された雄略天皇の即位事情とは、似ても似つかない、床しく麗しい即位事情というべきでしょう。
そう感じるのは、何も、現代の私たちだけではないようです。
「日本書紀」には、この譲り合いの結果、弟の顕宗天皇が即位を承知されたことを、天下の人々が褒め称えて、「天下は徳に帰した」と述べたことが記されています。
「徳」に「帰す」ということは、つまり、それ以前は世の中に「不徳」が蔓延していた、ということでもあるのではないでしょうか。

さらに、顕宗天皇の即位を促して大臣・大連らが申し上げた言葉には「皇祖の無窮の業をうけついで、上は天の心に副い、下は人民の心を満足させ」というくだりがあります。ここでは天壌無窮の神勅にもとづく天皇の在り方が再確認されているように思います。

つまるところ、顕宗天皇の即位譚は、それ単独で読むのではなく、安康天皇の過ちに端を発するテロルの時代の終焉、秩序の紊乱と回復の物語として読む方が適当なように思うのです。
そこには、回復された秩序=維持されなければならない秩序≒天皇のあるべき姿、についてのメッセージが込められているのではないでしょうか。

実際、この一連の御代の出来事には、皇位継承の掟について、注目すべき点があります。

上で述べたように、御兄弟が皇位を譲り合われるものの、仁徳天皇の時のように、弟皇子が自決してまで兄に皇位を押し付ける、という過激な結果にはならず、「弟」が即位し、「兄」が皇儲(皇太兄)となることで円満解決を見るというのも、天皇・皇室・皇位継承の秩序は「かくあれかし」というべき展開と言えそうです。

また、このお二人には実は、姉(飯豊青皇女)がおいででした。
御兄弟が皇位の譲り合いをなさっている間は、この飯豊青皇女が摂政されたことになっています。
この姉宮様は行方不明にはならず、ずっと都においでだったのですが……皇胤が絶えると問題になっていた時、誰一人として、飯豊青皇女を皇太子に、などということは、考えさえしていません。
日本の皇位継承は必ずしも女帝を排除するものではありませんが、それは必ず、男系男子継承者への「中継ぎ」としてであり、皇統紊乱を避けるために女帝は生涯独身を通されることが慣例であるわけですから、この場合、肝心の「中継ぎ」すべき相手が見つからないというのに、女帝を要請することなど、そもそもありえなかった……と解釈することもできそうです。
これは、皇位の男系男子継承の原則はこの時点で議論の余地のないルールだったことを示しているとも考えられないでしょうか。

ちなみに、少々あけすけな話になってしまいますが、この飯豊青皇女には、
秋七月、飯豊青皇女が角刺宮で、男と交合をされたが、人に語って「人並に女の道を知ったが、別に変ったこともない。以後男と交わりたいとも思わぬ」といわれた。
という挿話があります。
これをわざわざ正史に記載する意図が奈辺にあるのか、ですが……
飯豊青皇女は、実は女帝だったのではないか、という議論は、昔からあるようです。実際に即位されたとするか、即位には至らなくとも「事実上」女帝とみなすべきであるとするか、人によって見解はさまざま(もちろん、女帝ではないとする見解もあります。というよりそれが本来です)ですが、もし仮に飯豊青皇女が「女帝」だったとして、上の挿話は、「生涯独身」という女帝の慣例・掟に結びつければ、それなりに意味深なものと感じられなくもない気はしないでもありません。

「日本書紀」は何よりもまず第一義的に「歴史書」ではありますが、同時に、こちらで述べたようにもしもそれを「思想書」として読むことも許されるのだとすれば、安康天皇に始まる一連の混乱は、天皇・皇室のかくあるべき姿を提示する格好の機会として、活用されている、という可能性も、ありうるのかもしれません。

そういう意味では、数々の過ちを犯された雄略天皇さえ、過ちを犯すというそのこと自体によって大きな役割を果たしておいでになるわけで、最初に述べたように(気性が激しかったり、しばしば軽率だったりはされたとしても)単なる暴君として全否定されているわけではありません。
記紀における雄略天皇が、皇族はもちろん、多くの臣下を誅された天皇であることは確かです。
しかしまた、軽率に殺そうとされたものの、諫言を入れて思いとどまられたことも一再ならずある天皇です。
そして何より、事の発端となった根使主の悪行が暴露され、罪せられたのも、また、雄略天皇の御代でした。
安康天皇は眉輪王に仇を報じられ、根使主の悪行は雄略天皇によって暴かれ、と、この一連の記述には因果応報的なモチーフが仕込まれているようにも思えます。

因果応報信賞必罰。
悪事は必ず露見し、嘘は必ず暴かれ、悪は長くは栄えない、真実はいつか必ず浮上する。

顕宗天皇の即位によって回復された「秩序」とは、こうした天意に裏打ちされたものであり、そうした天意の存在を信じればこそ群臣も進んで朝威に服そうというものではないでしょうか。
正義が決して報われず、悪が末永く栄えるとしたら、どうして天下万民が朝廷の法や秩序に従うでしょう。
朝廷の頂点に立つ天皇は、単なる政治的権力者ではなく、道徳的正義の根拠であらねばならない……現在にまでつづく天皇・皇室の「徳」の統治が、この因果応報譚によって再確認されているようにも思えるのです。

そして、その思いをさらに強化してくれるのが、「古事記」の文字通り「大団円」にあたる、「復讐の断念」にまつわる挿話です。
安康天皇が眉輪王にとって「父の仇」であったように、顕宗・仁賢両天皇にとっての雄略天皇もまた「父の仇」でした。
顕宗天皇は、雄略天皇の陵墓を破壊して復讐を遂げようとされますが、兄・億計王(仁賢天皇)の情理を尽くした説得に応じ、思いとどまられます。
いわく、雄略天皇は、なるほど、「父の仇」でもあるが、まず第一に「天皇」である。第二に、御兄弟を後継者としてお迎えくださった第二十二代清寧天皇の父帝でもあらせられる、と。
雄略天皇は万機を統べて天下に照臨された。都・田舎の人みな喜び仰いだのは天皇の力である。わが父王は天皇の子であるといっても、難に遇って天位に登られなかった。これを見れば尊卑異っている。それを陵をこわしたりすれば、だれを君として祖霊に仕えようか。こわしてはならぬ一つの理由である。また天皇と億計と、いままで清寧天皇の厚い寵愛と、深い恩を蒙らなかったら、どうして天位にあり得ようか。雄略天皇は清寧天皇の父である。億計は多くの賢い老人に聞いた。老人の言ったことは、『言葉は報いられないことはなく、徳は応えられないことはない。恩を受けながらこれに応えられないのは、人を損なうこと深きものである』と。陛下は国を治められ、徳行は天下に聞こえている。それなのに陵をこわし天下に示せば、国に臨み人民を子とすることはできないだろうと恐れます。これが第二の理由です」(宇治谷孟訳)
「天皇ハ神聖ニシテ不可侵ナリ」とは、有名な帝国憲法の一条です。これは、法律論的には「天皇無答責」を規定したものとされていますが、それがこちらで述べたように日本の「コモン・ロー」の成文化であるとすれば、チンケな法律論などよりはるかに深い意味を蔵しているはずです。
天皇が神聖であり不可侵である、というより、むしろ、神聖であり不可侵であらねばならない、のは、天皇こそが、あらゆる社会秩序・道徳秩序の「源泉」であらせられるからではないでしょうか。

神話に由来する王権は本来すこぶる宇宙論的なものであり、歴史よりは文化人類学の領域に属するものであるといえます。おそらく、フレイザーやレヴィ‐ストロースなどなどに発祥する方面から検討すべきかもしれません。
そういう抽象的観念的な話をここでうまく要約する自身はありませんが……

少なくとも、悪い王様なら倒してもいい、というのでは、易姓革命の思想になってしまいかねませんし、そんな思想で長年月にわたって安定的な社会秩序が維持しえないことは大陸の歴史が身をもって証明してくれています。
天皇もそもそも人間ですから、個人としての資質には優劣もありうるでしょう。しかし、天津日嗣を継承せられたときから、もはや天皇は個人であって個人ではなく、「天皇」以外の何物でもであらせられない。天皇崇拝は特定の個別の天皇への個人崇拝ではなく、過去・現在・未来へと連綿とつづく「天皇」という存在・機能(何なら美濃部達吉の言う「機関」、現行占領憲法のいう「象徴」といってもいいかもしれません)への崇拝でなければならないのではないでしょうか。
むしろ、天皇という「象徴するもの」ではなく、天皇によって「象徴されるもの」への崇拝こそが、国体の秘密であり、日本の「こころ」であるのかもしれません。
そして、その国体の神聖を維持するという至上命題の前には、個々の天皇の不行跡など、些細なことである、といってもいい。むしろ、言わなければならないのかもしれません。

いずれにせよ、顕宗天皇の御代において、安康天皇以来の、いわゆる「復讐の連鎖」は断ち切られたことになります。
殺人に復讐で報いるのも因果応報なら、大恩に特赦で報いるのも因果応報。
そして、君主の「徳」が、国民の敬慕で報いられるのも、因果応報でしょう。
これもまた、やはり、“かくあるべき天皇の姿”の込められた大団円と言えるのではないでしょうか。

崩御に際しての雄略天皇の最後の詔を読むと、その思いはさらに強くなります。
今天下は一つの家のようにまとまり、竈の煙は遠くまで立ち上っている。万民よく治まり、四囲の夷もよく従っている。これは天意が国内を安らかにしようと思われたからである。心を責め己を励まして、毎日毎日を慎むことは万民のためである。臣・連・伴造は毎日参朝して、国司、郡司は時に従って参集する。どうして心肝を尽して、ねんごろに勤めないでよかろうか。義には君臣だが、情においては父子も同じである。どうか臣連の智力によって、内外の人を喜ばせ、長く天下を安らかに保たせたいと思う。(宇治谷孟訳・後略)
これは、神武天皇以来今上の御代に至るまで連綿と受け継がれている、と、尊皇家が口をそろえるタイプの思想・理想の明文化、そのものではないでしょうか? 明治天皇の詔と言われても信じてしまいそうな内容です。
これを仰せになったのが多数の皇族・臣下の血を流された雄略天皇、というのは、正直、現代的な感覚では唐突に思える気もします。あるいは後世の創作と疑うことも可能かもしれませんが……よしんばそうであったとしても、因果は必ず応報されるという宇宙的な秩序の物語の中で、大きな役割を果たされた雄略天皇にこの言葉を語らせたかった創作者の意図というものも、何となく了解できるようには思えます。
天皇は英明だから天皇なのではなく、天皇だから天皇であり、かくあるべき天皇像について詔されているのは別々の天皇であると同時にすべて同じ天皇陛下でもあらせられるのではないでしょうか。
歴代天皇で読む 日本の正史
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
現代語古事記: 決定版
歴代天皇の帝王学―父帝に学ぶ伝統

追記:
「天皇無答責」を差別ニダと叫ぶのは勝手ですが、「秩序」とは、そもそも「区別」「分別」に拠るものです。
「冠位十二階」が身分秩序であり身分「差別」ニダと言っていては、そもそも文明社会が成り立ちません。
そもそも、今や「差別」は反社会勢力によるテロリズムの武器にこそなっているのではないでしょうか?
保守速報:【画像】『舛添リコールデモ』に対しカウンターが「ヘイトスピーチするな」「差別反対」と叫ぶwwwwwwww
彼等がなぜこうも「差別」が大好きなのかといえば、社会・道徳をはじめとする「秩序」の破壊こそが、その目的だからであるようにも、思えます。
安定的な「社会」の存在が道徳的・法的・伝統的等さまざまな「秩序」の維持によってこそ担保されうるとすれば、「反社会」とは「反秩序」以外の何物でもありえず、「反社会」組織が、「秩序だった思考」の能力を喪失することもまた、必然なのかもしれません。
(※一見、関係なさそうに見えるかもしれませんが、ルネ・ジラール「羨望の炎―シェイクスピアと欲望の劇場 (叢書・ウニベルシタス)」あたりを一読してみると、「秩序の破壊」をめぐるシェイクスピア演劇の寓意が、反社会組織の醜悪さの根源について、何らかの示唆を与えてくれるかも……しれません?)
posted by 蘇芳 at 03:40| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする