2016年03月24日

皇籍復帰の実例


反日勢力というのは願望や妄想をあたかも事実のように語る困った生き物ですが、旧皇族の皇籍復帰などありえない、と彼らが言うとき、納得のいく根拠を提示したことが、一度でもあったでしょうか。
何となく騙されている人たちは、「だって60年もたってるから~」という、その「だって」を論理的に説明できますか?
そもそも、いったん臣籍に降下したあと、再び皇籍に復帰され、そればかりか皇位をも継承あそばされた天皇が実在されることは、現代の国民に、どれだけ知られているでしょうか。



第59代宇多天皇は、第58代光孝天皇の第七皇子。
御生母は桓武天皇の孫にあたられる班子女王。
文句のつけようもない男系男子皇族です。

が、父帝光孝天皇は、即位と同時にご自身の皇子はすべて臣籍に降下させ、自身の子孫には皇位を伝えない意向を表明されておいででした。
これは光孝天皇の御即位自体が、緊急事態に対処すべく要請された異例の措置であったため、第57代陽成天皇の同母弟で皇位を継がれる可能性のあった貞保親王をはばかってのことだったといいます。
55歳にして「異母兄の孫」からの譲位、という異例の即位事情からしても、光孝天皇はご自身の使命を「中継ぎ」とわきまえておいでだったのでしょうか。

しかし、正式に後継者をお定めになる前に、光孝天皇は崩御。
関白・藤原基経たちの差配によって、臣籍に降下されていた源定省が皇籍に復帰、ただちに践祚されたのが、皇紀1547年(西暦887年)のことでした。

そこだけを見るなら、藤原基経は、宇多天皇を皇位につけた「恩人」とでも言うべきかもしれませんが、天皇の即位直後には有名な「阿衡事件」を引き起こし、天皇に苦汁を舐めさせた人物でもあります。
藤原佐世の讒言によって起きた有害無益な他氏排斥事件でしたが、詔勅の文言をあらためさせるという不敬きわまる事態にまで発展したのですから、藤原北家の増長は深刻です。
結局のところ、基経は、即位から何から、天皇を自分の意思のままに操ろうとした、傀儡扱いしようとした、とも、言えるのかもしれません。

そのためでしょうか。宇多天皇は優秀な人材を(北家以外のところに)真剣にお求めになったようです。
皇紀1551年、基経が死去すると、基経の長男・時平を参議にする一方で、北家以外の藤原氏や源氏などからも積極的に人材を登用され、親政を開始されました。
このとき、大抜擢され、重用された人物の筆頭こそ、菅原道真その人です。

道真は、後の天神信仰のためもあって、伝説的に神格化されているキライはありますが、すでに阿衡事件のさいに堂々たる正論を述べていることや、「類聚国史」の編纂など、赫々たる業績を残していることは事実です。
わけても、遣唐使を廃止し、国風文化隆昌への道を開いたことは大きいでしょう。
こちらで述べた通り、飼い犬の手を噛む形で半島を「統一」した新羅が日本に見捨てられ唐の属国となって久しいですが、その大唐帝国も支那王朝の例に漏れず、この頃には末期症状を呈していました。
遣唐使廃止は皇紀1554年(西暦894年)、唐の滅亡はそのわずか13年後、皇紀1567年(西暦907年)のことでした。道真の先見の明というべきでしょう。

ちなみに、宗主国がそのありさまですから、属国・新羅の状況も推して知るべしです。
すでに光孝天皇の御代には、新羅使が備前国に来着していますが、日本はこれを受け入れず、追い返しています。
新羅の状況はよほどひどかったらしく、宇多天皇の御代、皇紀1554年と翌1555年には二度にわたって突如新羅が大挙して対馬に押し寄せ、略奪暴行を働きます。事前の外交交渉も何もない、もはや侵略とか戦争とさえ呼ぶに値しない蛮行であり、要するに海賊の所業でした。生け捕った捕虜が言うには、新羅は不作が続き、飢餓に苦しみ、備蓄食料も底をつき、王城も例外ではない、と。もはや国家の体をなしていないというべきでしょう。むろん、難民の漂着などもあったようです。
唐の滅亡と、その威を借る新羅の崩壊に伴って、大陸は五代十国の分裂期、半島も動乱の時代を迎え、高麗、後百済などが建国されたといいます。このうち後百済は、醍醐天皇の御代、皇紀1582年、高麗と開戦し、日本に救援を求めてきますが、日本はやはりこれを拒絶します。

大陸・半島との断交。
愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶといいますが……
現政権にもしっかり見習ってほしい歴史の教訓です。

宇多天皇に重用され、一時代を築くかに見えた菅原道真でしたが、それが藤原北家の嫉妬を招き、やがて第60代醍醐天皇の御代に、讒言による左遷≒昌泰の変によって政治の表舞台から排斥されることは、よく知られていることでしょう。
そして、道真が大宰府で虚しく死去してまもなく、時平はもちろん、道真左遷に貢献した藤原菅根などが相次いで死去、三年ものあいだ疫病・旱魃が猖獗し、さらには皇太子・保明親王、慶頼親王の薨去、清涼殿落雷事件などなど、平安京が立て続けの怪異に襲われ、道真の怨霊と畏れられたこと、冠位官職を追贈され、ついには天神として祀られることになったことも、有名かと思います。

それでは、道真は、讒言を信じて道真を左遷されたもうた醍醐天皇を、お恨み申し上げていたのでしょうか?
去年の今夜 清涼に待す
秋思の詩篇 獨り斷腸
恩賜の御衣は今此こに在り
捧持して 毎日餘香を拝す
恨んでいたなら、「恩賜の御衣」をこのように大切にはしなかったのではないでしょうか。

ちなみに……

藤原時平が「道真の怨霊によって」死亡したとき、醍醐天皇は25歳。
右大臣源光は老齢であり、実権はほぼなかったようです。
その後は摂政も関白もお置きにならず、左大臣も時平の死後十四年ものあいだ、空席のままとされたといいます。
これを要するに、醍醐天皇による親政が実現したということであり、後世、「延喜の治」として理想化されていく由縁です。
「日本三代実録」「延喜式」「古今集」「風土記」などなど、すべて醍醐天皇の御代の御治績です。
大陸・半島の動乱をよそに、文治主義の親政、という、「天皇」のひとつの理想像を確立した御代だったかもしれません(まあ、政治的には地方で武士団が形成され始めるころでもあり、次の朱雀天皇の御代には承平天慶の乱なども起こるわけで、「文治」が行きすぎて「文弱」に流れ始める時代でもあったかもしれませんが)。
その「親政」確立の端緒となった時平の死が、本当に道真の怨霊の仕業だったとしたら、道真こそは、最後の最後まで天皇の忠臣だったということになるのかもしれません。
まあ、さすがにそれは冗談ですが……めぐりあわせとしては、歴史の皮肉とくらいは言ってもよいように思います。

ところで……
この「延喜の帝」醍醐天皇は、宇多天皇の第一皇子です。
別の言い方をするなら、「源定省の第一子」でした。
醍醐天皇の皇籍に復帰される以前の元の御名前を「源維城」と申し上げます。
すなわち、御誕生時には「臣下」であったにもかかわらず、皇紀1547年、父・源定省の皇籍復帰・親王宣下・御即位に合わせ、三歳で皇族となられ、翌々皇紀1549年、五歳で親王宣下をお受けになったのが、源維城あらため敦仁親王=後の醍醐天皇です。
皇紀1557年四月、13歳で立太子、七月には元服され、父帝の譲位を受け、践祚されています。
臣籍に生まれて皇位につかれた唯一の天皇であり、その「元旧皇族」こそが、「延喜の治」を実現された「理想的君主」であらせられたのです。
万世一系の皇位継承の掟、血統の原理にとって、それで何の不都合もありません。
反日勢力の嘘に騙されないためにも、幕末の閑院宮師仁親王殿下の例とあわせて、知っておくべき事実ではないでしょうか。
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ラベル:天皇 平安時代
posted by 蘇芳 at 02:37| 平安時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする