2016年03月23日

【動画】武田鉄矢(金八先生) 「古代、南韓国に日本の地があった!」 『魏志倭人伝』『広開土王碑文』に基づき、古代日韓の歴史を語る

   

古代史の年代比定というのは自称学者の(研究ではなく)イデオロギーによって左右されますが、日本の正史を重視する立場で書かれた「歴代天皇で読む 日本の正史」によれば、広開土王の没年は皇紀1073年(西暦413年)、広開土王碑が建てられたのは翌皇紀1074年のことだそうで、いずれも第十九代允恭天皇の御代になるそうです。



動画概要:
2014/05/27 に公開
武田鉄矢(金八先生)さんが「今朝の三枚おろし」の中で『魏志倭人伝』や『広開土王碑­文』に基づき、古代日韓の歴史について熱く語ります。「古代、韓国の南に日本の地があ­った!」と。
注:この中で2〜3世紀頃は「縄文時代」と言っているのは明らかに「弥生時代」の間違­いです。
武田鉄矢の「今朝の三枚おろし」podcast 2014.5.26より
画像:http://djdcg.en-grey.com

第十七代履中天皇は、仁徳天皇の第一皇子、
第十八代反正天皇は、仁徳天皇の第三皇子、
第十九代允恭天皇は、仁徳天皇の第四皇子、
御兄弟が次々に即位されています。
しかもその順序は兄から弟へ、という、現代の感覚からもわかりやすいもので、従来「弟」を優先する傾向が強かった皇位継承の次第が、微妙に変化しているようにも感じられます。こちらで述べた通り、「兄」の即位を物語る仁徳天皇の御代が、その嚆矢だったのかもしれませんん。

この時期の「日本書紀」の記述には、半島の動乱はあまり記載されていません。
皇族間の諍いや、氏姓の乱れを正す内政措置、宗像三神の祭祀、女性をめぐるエピソード、木梨軽皇子の有名な挿話などなど、朝廷内の出来事に記述が終始している印象があります。
反正天皇の御代は特に記述が短く、文庫本だと1ページにも満たないほどです。
その御代の最後、遷都に際して「このとき雨風、ときに正しく、五穀豊穣で人民は富み賑い、天下太平であった(宇治谷孟訳)」とありますが、このときにかぎらず、三代を通じて、国内的には大きな問題もない、平和な時代だったのでしょう。
すでにこちらこちらでくりかえし述べてきたように、三韓征伐によって半島が帰順し、それにともなって、九州の平定も確固としたものになって久しい時代だったのでしょうから、それも納得がいきます。
「日本書紀」に見るこの時期の半島関連の記述としては、新羅から医者を招いたこと、允恭天皇の崩御に際して新羅が弔使を送ってきたこと、その新羅の弔使にかけられた疑いと彼らの抱いた「恨」、などがある程度です。
高句麗の広開土王碑が、「倭」が新羅を臣下にしたと書いていることと、一応、符合しているとは言えるでしょうが、記述の薄さは少し不思議ではあります。

もっとも、大陸や半島が「倭人」「倭国」といっている存在が、すなわち大和朝廷とイコールであったかどうかはそもそも不明瞭な部分もありますので(半島南部には倭人の国があり、百済の王や高官も輩出していることはこちらなどで見た通り)……あるいは日本にとっては、これに先立つ三韓征伐や、このあとの(雄略天皇の御代の)半島出兵に比べれば、この時期の半島情勢など、出先機関が勝手にやらかした程度の、正史に記すまでもない些細な出来事にすぎなかったのでしょうか?
前掲の「歴代天皇で読む 日本の正史」によれば、この時期の日本と半島との関係は、半島自身の「広開土王碑」や史書「三国史記」「三国遺事」のほうに詳しいようです(半島事情に半島の史書が詳しい、というのも、ある意味、当然ではありますが、いわゆる古代史家が記紀の信憑性を攻撃し、大陸史書の信憑性を疑わないのと同時に、半島の史書の存在すらあまり重視しているように見えないのは不思議。何か都合の悪いことでも書いてあるのでしょうか)。

それによれば、

皇紀1059年(仁徳天皇87年)、百済が高句麗との盟約を破り倭国と同盟を結んだため、高句麗・好太王が百済へ侵攻。しかし、途中で予定変更。
翌皇紀1060年(履中天皇元年)、広開土王碑文曰く「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下とした」とあるのはこの年だそうです(ここでいう「倭人」とは、大和朝廷の皇軍ではなく、半島南部にあった倭人の国だったのかもしれません)。
高句麗は新羅の救援要請を容れ、前年、百済に向かわせた軍の進路を変更、新羅救援に向かわせます。倭軍は一時的に敗走、半島南部の倭人の本拠地「任那加羅」に向かいます。これを深追いした高句麗軍は、その側背を「安羅」の軍につかれ、敗北。結局、新羅の本拠・慶州は安羅軍によって占拠された、そうです。何となれば、この「安羅」もまた倭人の国だったからである、と、「歴代天皇で読む 日本の正史」は書いています。

次いで皇紀1062年(履中天皇3年)、新羅の先王・奈勿尼師今が第三子・未斯欣を人質として差し出し、倭国と国交を結んだ、とあります。ここで「先王」とあるのに注目。この時期、新羅は高句麗に従属し、王位についていた第十八代実聖王というのは、前王の太子でも何でもなかったといいます。現王と先王がそれぞれ高句麗派・日本派にわかれて派閥抗争をくりひろげていたというところでしょうか? 「三国史記」には「倭国と通好す。奈勿王子の未斯欣を質となす」とあり、また大陸の「職貢図」にも「新羅は或る時は倭に属していた」という記述があるとか。「或る時は」という記述が、いかにも半島らしい蝙蝠ぶりを彷彿とさせる話ではあります。
「倭国」は高句麗と直接対峙し、新羅はその両国の間で右往左往していたことになるようです。

また、皇紀1065年(履中天皇6年)、百済の阿莘王の死を聞いた直岐王が、帰国することを願い、天皇はこれを許され、日本の兵をつけて帰国させ、第十八代百済王に即位させた、と言います。百済も当然、日本に人質を差し出す立場だったわけで従属国ですが……倭人の王がいたことや、百済滅亡と再興、仏教公伝、白村江へと至る歴史を見ても、半島の中では比較的、日本との関係が深かった(「用日」が上手かった)国だったのかもしれません。

一方の新羅は、蝙蝠外交の起源というべきでしょうか。
皇紀1077年(允恭天皇6年)、高句麗軍は傀儡の新羅王を殺害し、新たな傀儡として第十九代訥祇王を立てた、そうで。新羅が完全に高句麗の属国と化していることがわかります。その一方で、上で見たように日本にも人質を送ったり、弔使を派遣したりしているわけですから、強国を両天秤にかけていたことがわかります。
元々、新羅は任那の朝貢使を襲って貢物を奪ったり、百済を襲ったりもしていたわけで、手癖の悪い国柄がうかがわれます。
そしてやがては、この新羅が、飼い主(唐)の手を噛む形で半島を統一、日本に媚びようとするも見限られ、半島全土が唐の属国と化していくことは、こちらで見た通りです。
蝙蝠外交の末路というべきですが、新羅一国で勝手に滅ぶならまだしも、百済や任那加羅etcも巻き添えにされているのですからいい迷惑です(まあ、百済の豊璋は自業自得の愚か者でしたが。鬼室福信・黒歯常之などまともな忠臣もいないことはなかったようでもありますし、新羅よりはマシな国だったのかもしれません。倭人の高官や王もいた国ですしね)。

以上の記述は「日本書紀」そのものではなく、あくまで、「歴代天皇で読む 日本の正史」の著者・吉重丈夫氏の受け売りです。
が、記紀を軽蔑してやまない古代史ファンが聖典のごとく崇め奉る『宋書』の「倭国伝」には、いわゆる「倭の五王」の一人、「倭王済(允恭天皇)」に「使持節都督百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を(勝手に)授けたという記述があるそうですから、半島自身の史料と合わせて見ても、日本の半島進出自体を疑う理由は皆無であると言えるでしょう(【動画】よくわかる日本と朝鮮半島の古代史【学校やNHKでは教えてくれない事実】なども参照)。
むしろ、履中・反正・允恭三代にわたって、「日本書紀」に半島の記述が少ないことこそ、奇異というべきかもしれませんが……いずれ第二十一代雄略天皇の御代には半島出兵の詳細な記述がありますから、そこへいたる前振りとして、いろいろなことがあったことは事実なのでしょう。

むしろ、日本側ではなく、大陸や半島自身の史料によってこそ、以上の歴史は裏付けられている、ということは、半島にとってより一層重要な事実であるべきはずではないでしょうか。
自国の「正史」くらいもっと素直に学べばいい物を(これについては戦後日本も他国のことは言えませんが、洗脳自虐史観捏造の主犯・共犯がそもそも何者であるかを考えれば、腑に落ちる面もあります)、手癖の悪い新羅の伝統を受け継いでいるのでしょうか、日清戦争から昨今の「レッドチーム入り」にいたるまで、近現代においても同じ行動様式を遵守しつづけているのは、いっそアッパレとでも言っておくしかなさそうかもしれません。
歴代天皇で読む 日本の正史
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
日朝古代史 嘘の起源 (別冊宝島)
知っていますか、任那日本府
倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本 (講談社学術文庫)
posted by 蘇芳 at 02:40| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする