2016年03月21日

【動画】仁徳天皇陵ほか


仁徳天皇といえばこちらで見た通り民のかまどの物語ばかりが有名ですが、それ以外にも多数の挿話・逸話、むしろ「説話」と言いたいような記述が豊富なのも、この御代の特徴です。
両面宿儺や「竜」など、怪異譚も多く、それまでの日本書紀の記述からは少し(かなり)異質な気もします。

この「異質さ」は何に由来するのかといえば、仁徳天皇が応神天皇の第四皇子であらせられたことを、あるいは意識しておくべきなのかもしれません。

遅くとも崇神天皇の御代には交渉が始まり、垂仁天皇の御代に交渉が深まり、景行天皇日本武尊・仲哀天皇がお手をお焼きになった熊襲の反乱にかかわっていたであろう半島勢力を、ついに(とりあえず)完全屈服させたもうたのが、神功皇后の三韓征伐。この一連の歴史のはてに、いよいよ半島とのかかわりが深くな(ってしま)ったのが応神天皇の御代でした。

つまるところ、
当時すでに半島諸国は日本の属国でした。
当時すでに半島諸国は日本の属国でした。
大事なことなので二回言いましたが……文化的影響が一方通行ではありえない以上、大陸発半島経由の異質な思想や伝承が入ってきた時期だったのかも?という気がしないこともありません。


即位事情からしてすでに多難です。

こちらこちらで述べた通り、記紀の伝える皇位継承は、かなりの程度「弟」を優先しています。
応神天皇もまた、皇太子と定められたのは、末子の菟道稚郎子でした。
しかし、皇太子・菟道稚郎子は、父帝の遺詔に背かれ、兄である大鷦鷯命に皇位を譲ろうとなさいます。
しかし、大鷦鷯命は、父帝の定めたもうた皇太子こそが即位すべきであると主張され、決してそれを受けようとはなさいません。
ここまでは、記紀に多数の例のある、兄弟間の皇位の譲り合い、であり、何ら異とするにはあたりません。

しかし、そこから先の展開は、従来のパターンから大きく逸脱していきます。

譲り合いの決着はつかず、政治的空白がつづき、その間にはついに異母兄・大山守皇子の謀反と討伐なども起きてしまいます。
このまま天下をわずらわせつづけることはできない、と、皇太子・菟道稚郎子はついに決心され、皇位を…………大鷦鷯命に譲るため、自害して果てられます。
そして弟の死を嘆き悲しみつつ、やむなく即位されたのが、大鷦鷯命≒第十六代仁徳天皇であらせられる、というわけです。

記紀伝統の「皇位の譲り合い」が、ついに「兄」の即位で決着がついた珍しい事例であり、しかもその手段たるや「弟」の自殺という極端な方法です。
ドラマチックというより、エキセントリックな印象さえ持つのは私だけでしょうか。
長幼の順という観念自体は神代のころから自然の感情として存在していたはずですし、それらしい発言も多々ありました。
弟が兄を立てようとすること自体は、誰しも了解可能ですが、その結果として、兄を悲しませ、そのうえ、父帝の思召しには背いているわけですから……かえって不孝にもなりかねない話ではないでしょうか。

記紀は皇室にとって都合の悪い出来事でも平気で収録している率直な「歴史書」ですから、皇太子の自殺という出来事も史実であるのかもしれません。
が、それを語り伝えるときの「語り口」には、道徳観念の微妙な動揺が反映されているような気がしないこともありません。
「朝鮮腐儒」という言葉を思い浮かべるのは、さすがに牽強付会でしょうか……?


また、仁徳天皇は、難波の治水事業を興された帝でもあらせられ、「大阪の父」とでも申し上げるべき偉大な業績をお残しになっています。
が、書紀には、このときの治水工事において、人柱=人身御供のエピソードが収録されています。
茨田堤の工事が難航したときとき、天皇の夢に神があらわれ、「武蔵の強頸」と「河内の茨田連衫子」の二人をイケニエにせよ、とおつげがあったといい、天皇はさようはからえとお命じになります。
これまでも弟橘姫が海神の怒りを鎮めるために自ら犠牲となったり、埴輪を作って殉死の風習を廃止したり、といった形で人身供犠の存在が暗示されることはありましたが……だからといって、神ご自身がイケニエをお求めになるというのは血を最大のタブーとする神道の感覚からは違和感がありますし、罪もない領民≒大御宝を平気でイケニエにしようとされる「仁徳天皇」というのも、なにやら不思議な気がしないでしょうか。

ちなみに、このとき人柱にされた二人は、強頸のほうはあえなく死亡しましたが、茨田連衫子のほうは、あらためて神意を問い直す占いのようなことをして、命を長らえています。書紀はこれを「衫子の才智でその身が助かった」のであるとしています。
つまるところ、「人身供犠の説話」、というよりは、「才智で危機を乗り切る説話」といったほうが適切であるようでもあります。
天皇が治水事業に取り組まれ、大阪の発展の礎を築かれ、その過程で殉難者もあっただろうことは事実でしょうが、その史実にことよせたこのエピソード自体は、「物語性」が強いもののように思います。

実際、仁徳天皇の御代は、「物語」「説話」「怪異譚」の宝庫です。

死後に大蛇と変じて仇を報じた武夫の話、
飛騨の両面宿儺、
大虬退治の話
などなどは、特にファンタジー色が強いでしょう。

その背景にある、
半島の不服従的な態度や、蝦夷反乱、
飛騨の(半島系帰化人か?)騒乱、
吉備の賊徒の類?
などなどは事実だったとしても、その「語り口」はずいぶんと説話的で、また、従来の書紀の記述からは(感覚的な物言いで恐縮ですが)異質な印象があります。

たとえば「大虬」についてですが、「ミツチ」と読んで水の精霊、大蛇・龍の類だそうですが、名義抄には「音球 竜」とあるそうで。この「竜」という文字一つとってみても、八岐「大蛇」などとは違いが感じられます。
また、その退治方法についても、虬の棲み処に「瓠」を投げ入れて、「汝、是の瓠を沈めば、余避らむ。沈むること能はずは、乃ち汝が身を斬さむ」と云々、この「瓠」の使い方は上の茨田堤に登場した神意の問い方と共通しており、両説話に共通の出自がありそうな気配も感じられるのではないでしょうか。

仁徳天皇の御代にはなぜ、こんなにも怪異な「説話」が多いのか?

民のかまどの物語において、書紀本文は、仁徳天皇が「聖帝」と呼ばれておいでだったことを明記しています。
偉人・名君には、注目の的であり、話題の主役でもあるでしょう。
仁徳天皇が偉大であるとされればされるほど、その御治績にさまざまな尾ひれがつき、時にはまったく根も葉もない物語が創作されたり、民間伝承が関連付けられたりしたとしても、驚くには当たらないように思います。
そして、それら「民間伝承」のなかには、大陸にルーツを持つものや、その影響を受けたものも、あったのかもしれない、という気もしなくはないのです(難波での治水事業・土木工事には、新羅の朝貢民が動員されていますから、なおさらです)。
何といっても、冒頭に述べたように、御歴代の悲願、九州統一、三韓征伐が成就し、一区切りがついた時代に登極された天皇であり、しかも「聖帝」であらせられたというのですから、玉石混交の多くの物語が語られたとしても、自然ななりゆきというべきでしょう。
おそらく、記紀の記述は、即位事情や治水事業、半島統治、蝦夷討伐、飛騨平定などなど、収録されているのは明確な御事跡にことよせた説話ばかりですから、これでも、相当に整理されているほうなのではないでしょうか。

そんな仁徳天皇の陵墓とされるのが有名なこちら↓の御陵。


世界最大の前方後円墳です。
そしてこの時代、半島諸国は日本の属国でした。
半島諸国は日本の属国でした(大事なことなので以下略)。
ので、同じ様式の前方後円墳は朝鮮半島でも作られています。
つまり、日本から朝鮮に文化が伝来したわけですが……
そういう証拠が出土するたびに、見えないニダ聞こえないニダ埋めるニダ、と、半島の皆さんが大騒ぎするのは有名な話。


なお、皇紀1013年(仁徳天皇41年)には、紀角宿禰を百済に派遣し、国郡の境の分け方や、それぞれの郷土の産物を記録させています。百済の服従ぶりがよくわかる話です。
が、そうかと思えば、このときの百済王族の一人(酒君)の態度が無礼であったり、紀角宿禰がそれを責めると平身低頭したり……
新羅もまた、朝貢をサボって貢を奉らなかったかと思えば、それを責められるとすぐに平身低頭して貢を奉ったり、と……
媚びては叛き媚びては叛き、この当時から、半島というのはそういう場所だったようです。
歴代天皇で読む 日本の正史
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
日朝古代史 嘘の起源 (別冊宝島)
知っていますか、任那日本府
韓国の妄言−韓国・朝鮮人はなぜこんなに尊大なのか?
posted by 蘇芳 at 02:04| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする