第十六代仁徳天皇といえば、何はさておきこの逸話が有名です。
保守派・愛国者からたいへんに人気の高い挿話でもあります。
実のところ「日本書紀」を読むと、仁徳天皇の御代の記述には他にもいろいろと思うところがなくもないのですが、それはさておき、何はともあれ、この逸話を避けて通るわけにもいきません。
動画概要:
2013/08/13 に公開
万世一系の皇位継承 天皇(一) http://youtu.be/X_PenPEn_M0
古事記に記された日本が出来るまでの神話 http://youtu.be/9sNf1ZPtPv4
仁徳天皇は、字の通り「仁」と「徳」で世を治められた天子様。
本来、日本人なら知っているはずの「民のかまど」のエピソードを中心に、その聖の御代について描きました。
代々、皇位を継がれた天皇は、仁徳天皇の「仁」と「徳」をお手本とし、日本国、そして民の為に祈りを捧げておられるのだと。
民のことを思う君がいて、君のことを尊ぶ民がいる。
世界で類のない最長の王朝の基本がここにある。
天皇皇后両陛下、そして皇族方の神々しさの秘密がまさにこれなのです。
この逸話が、かけねなしの史実そのままであったかどうかは、異論もありうるでしょう。
日本を貶めたくて仕方がない反日勢力の皆さんならなおさらです。
しかし、この挿話が事実であるか否かよりもはるかに重要なのは、この挿話が事実として語り継がれてきたというそのこと自体であるとも言えるのではないでしょうか。
こちらで述べた通り、「歴史」とは「語られた歴史」であり、「受容された歴史」です。
遅くとも奈良時代には文書化されたこの逸話は、「天皇とは何か」「天皇はいかにあるべきか」「日本における君民の関係」について理想像を提示し、そしてそれゆえに「規範」として後世の日本人、なかんずく御歴代天皇の意識・行動を左右していったのではないでしょうか。
それら「日本人」たちの行動が、その後の日本の「歴史」を作り、日本という国の国柄をも決定づけていったのだとすれば、この逸話が「事実」であるか否かにかかわらず、日本の「こころ」にとって、この逸話はまぎれもない「真実」なのだと言えるのではないでしょうか。
(そしてもちろん、この逸話が、かけねなしの「事実」でなかったなどと断定する証拠もまた、ありはしないのです)
社会主義者・共産主義者は階級闘争史観という信仰を持っています。
支配階級である権力者と、被支配階級である人民が対立し、殺し合いをくりかえしつづけるべきであるという血まみれの教義です。
「べきである」というのは、彼ら自身のきれいごとには登場ない文言ではありますが、この教義の論理的帰結であると思います。
彼ら自身のプロパガンダでは、人民が権力者を打倒すれば闘争は終わり「平和」が訪れることになっていますが、それこそ何の根拠もない「神話」にすぎません。
階級闘争の結果は、人民が暴力でもって権力者に「取って代わる」というだけですから、当然、それは新たな支配階級の誕生をしか意味せず、必然的にあらたな被支配階級をも析出します。
第二第三のロベスピエールやスターリンがあらわれたとき、階級闘争がこの史観の至上命題である以上、被支配階級は再び新たな支配階級に対して闘争を挑まなければ話がおかしいでしょう。
当然、支配階級はそれを抑圧します。
最終的に支配階級が敗北して「革命」が成就したとしても、上で述べた事情がまたくりかえされ、再び「新たな支配階級」≒第四第五のロベスピエールやスターリンが現れるだけであることは論理的必然でしょう。
結局のところ、階級闘争がアプリオリに必然的な真理であると信仰する狂気の史観においては、弾圧と革命の双方によって引き起こされる虐殺が永遠につづくことが定められ、命じられてさえいることになります。
このような残虐きわまる史観の根底にある左翼の神器のひとつは「権利」という概念ではないでしょうか。
左翼の教義において、支配階級は“権”力者と観念されています。
あらゆる「権利」を独り占めにしている悪い王様に対して、あらゆる「権利」を奪われている奴隷が立ちあがる、という幼稚な三文芝居のような史観です。
左翼の暴力革命は「権利」を錦の御旗として行われます。権利権利とあさましくわめきちらすデモの光景はおなじみでしょう。誰もが声高に「権利」をよこせと要求するだけで、誰一人「義務」を果たそうとしない餓鬼道・畜生道の世界が、サヨクの世界観であるように思います。
その一方、世界の王族や貴族は、その多くが、表現や実践の程度は違えど「高貴なるものの義務」という観念を持っていました。
そこには「高貴な者は義務を果たさなければならない」という観念と、「義務を果たす者は高貴である」という観念が表裏一体のものとして包含されています。
(暴力革命の犠牲になったフランス王家も多くの慈善事業を行っていたことが知られています。パンがなければ云々などの逸話は革命勢力による捏造プロパガンダにすぎません)
であれば、「支配階級」であることとは、「権利」どころか「義務」ばかりを負わされる損な役回りを意味しており、最高“権力”者とは同時に最高“責任”者でもあるわけです。
あたりまえといえばあたりまえの話ですが、権力亡者の左翼には、この区別がつきません。もしくは故意に混同します。「権利をよこせ」「王座をよこせ」「神の座をよこせ」と目を血走らせ涎を垂らして要求するばかりです。
しかしそもそも「権利」と「義務」とは同じコインの表と裏のようなものでしょう。
そのコインの「権利」の一面にばかり重きを置く王様と、「義務」の一面をまず第一に考える王様がいたとして……どちらがよりよい王様だといえるでしょうか?
答えは言うまでもないと思います。
では、歴史をただひたすら人民の「権利」の面からのみ見る教義がすみずみまで行きわたった社会と、君主の「義務」の面から見る伝統が広く行きわたった社会とでは、どちらが住みよい社会になる可能性を持っているでしょうか?
私にはこの答えも明らかであるように思えます。
後者の社会が実際によくなるかどうかは能力的なものもかかわるでしょうから一概には言えませんが、少なくとも前者の権利追及の革命の結果できた社会が住みよい社会になったという例は(フランスでもロシアでも朝鮮でも支那でも)あまり聞いたことがないようです。
仁徳天皇の物語は、国の最高“責任”者が、その義務・責任をお果たしになった物語であり、その物語を道徳的規範として語り継いでこられたのが御皇室です。
「支配者としての権利」ではなく、「統治者としての義務・責任」をこそ強く意識する伝統が、そこにはあるように思います。
そして、そのような“最高統治責任者”のありようは、あらゆる国民道徳の根源に位置する手本・モデルとなりうるのではないでしょうか。
国民もまた、階級闘争だの革命だのといった妄想にとらわれることなく、長年、「君民共治」の実在を、心の奥底で信じつづけ……日本の歴史上、天皇を倒そうとした事実は(何人かの例外的逆賊以外には)存在しなかったのは、まさにそのためではなかったでしょうか。
統治者と国民は、対立関係ではなく、共存関係にある。
あるべきであり、また、ありうるのだ、と……
君と民の双方が信じ、努力してきた歴史。
日本人が真に誇りにすべき歴史とは、その根底に通奏低音のように流れているこの「こころ」そのものであるのではないでしょうか。
歴代天皇で読む 日本の正史
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
現代語古事記: 決定版
日本は天皇の祈りに守られている
皇室はなぜ尊いのか (PHP文庫)
物語 仁徳天皇〈上〉
物語 仁徳天皇〈下〉