2016年03月19日

【動画】三韓征伐

    

記紀には、皇室はもちろん、他のさまざまな氏族の系図・血縁関係が、事細かに記載されています。
素人が通読すると眠くなる記述とも言えますが、その系譜が見えてくると、歴史の意味がより鮮明になる面があるのもまた事実。
たとえばこちらで述べた「敏達天皇」のお血筋などはとても重要に感じられます。

そもそも皇統が万世一系の「血統」である以上、系図・系譜が大切なのは、記紀の時代に限らず、本来は当たり前です。
現代の皇室について言うなら、こちらで述べた「閑院宮師仁親王=光格天皇」のお血筋の意味を知っておくことは、私たち臣下にとってもとても重要なことのように思います。
なんとなれば、戦後、意図的に仕組まれた忘却・無知のせいで、多くの国民が、反日勢力の嘘に騙され、それが彼奴らの「皇統断絶計画」をあわや成功寸前にまで推し進めさせた遠因だったかもしれないのですから。

古代史最大の「英雄」日本武尊についても同様です。
こちらで述べた通り、昨今は、不自然なほど「古事記」のバージョンのみが流通し、兄殺しや父帝との不和など「日本書紀」にはかけらも記されていない家庭悲劇的な側面ばかりが強調される嫌いがあるばかりか、そもそも、日本武尊一代のみで完結してしまってはその英雄譚も尻切れトンボな印象になってしまいます。
こちらで述べた通り、景行天皇から日本武尊に受け継がれた熊襲討伐は、さらに次世代にも受け継がれていく一大事業でしたし、その背後に半島勢力の蠢動があったとすれば、その因縁は崇神天皇垂仁天皇の御代にまでさかのぼることさえできるかもしれないのです。

第十三代成務天皇は日本武尊の異母兄弟にあたらせられますが、後継者に恵まれず、皇位は甥の足仲彦命へと継承されます。すなわち第十四代仲哀天皇――日本武尊の第二王子です。

皇紀853年(仲哀天皇2年)三月、またしても熊襲が叛乱を起こし、貢を奉らなかったので、天皇は、皇后・気長足姫命(神功皇后)と共に、討伐に向かわれます。

このとき、神功皇后が神がかりされ、次の神託をお告げになったと記紀は記しています。
天皇はどうして熊襲の従わないことを憂えられるのか、そこは荒れて痩せた地である。戦いをして討つのに足りない。この国よりも勝って宝のある国、譬えば処女の眉のように海上に見える国がある。目に眩い金・銀・彩色などが沢山ある。これを栲衾新羅国という。もしよく自分を祀ったら、刀に血ぬらないで、その国はきっと服従するであろう。また熊襲も従うであろう。
(宇治谷孟訳)
……現代の私たちから見れば、ずいぶんと余計なことをおっしゃる神様だという気がしないでもありませんが、そういうことを言うと危険なのでやめたほうがいいでしょう。
というのも、天皇はこの神託をお信じにならず、海の向こうに国などみえないではないかと誹られたため、たちどころに崩御された、と、記紀は伝えています。
遺された神功皇后(このとき、すでに皇子を身ごもっておいででした)は、あらためて神意を占い、その神託のままに、半島征伐を敢行される、というのが、記紀の伝える歴史です。


動画概要:
2010/07/19 にアップロード
English version---http://www.youtube.com/watch?v=Ft95NwK6FEw

このような「神託」が登場する「歴史」は、戦後左翼の唯物論的思考停止からは、作り話にしか見えなかったかもしれません。また、「野蛮」な「後進国」日本に、朝鮮半島の「先進国」が戦わずして屈服するなどということがあるはずがないという、根拠のない妄想・願望があったかもしれません。

しかし、こちらで述べた通り、半島南部は日本、半島、大陸の史書が等しく認める「倭人」の勢力範囲でしたし、半島諸国が日本に服属していたことは、文書史料はもちろん、考古資料によっても裏付けられる歴史的事実以外の何物でもありません。

「神託」についても、合理的に解釈することはいくらでも可能でしょう。
新羅を討てば自動的に熊襲も帰順する、ということは、常識的に考えれば、両者が通謀していたということを意味しています。
そのことを見抜かれた皇后が、「神託」という形で奏上された、あるいは、皇后の献策が、後に「神託」という形で物語化された、と考えれば、何の不都合もありません。
もちろん、皇后の奏上には、その背後にさらにブレーンとして働いた臣下がいたのかもしれません。
いずれにせよ、三韓征伐は、単なる突拍子もない神話・伝説としてではなく、合理性のある「戦略」として見ることが、十分に可能な内容なのです。
つけくわえると、その文脈でとらえるのなら、三韓征伐はそれ自体が目的というよりも、熊襲征伐の「手段」でしかなかった、とも言えるわけで……熊襲の「ついで」にたやすく制圧できるくらい、当時の新羅は弱く、日本は強大だった、ということになります。

いずれにせよ、新羅はもちろん、新羅の屈服を見た他の半島諸国も、進んで日本への服属を誓い、以後、長きにわたって朝貢国となったことは、半島の「三国史記」、大陸の「三国志」「後漢書」「魏志」「隋書」などなどの記述からも裏付けられる史実ではないでしょうか。
大陸の史書の信憑性などたかがしれているのはこちらで述べた通りですが、地続きの半島情勢については多少なりとも知っていたでしょうし、さすがに三か国の史書すべての一致によって裏付けられるのなら、無視するわけにはいかないでしょう。


動画概要:
2015/04/03 に公開
※隋書編纂は唐代. 隋書 巻81-14 列伝46 「新羅百済皆似倭為大国多珍物並敬仰之恒通使往来」 「新羅・百済、皆倭 を以て 大国にして珍物多しとなし、並びに これを敬仰し、恒に通使往来す。」Book of Sui, Vol. 81, Liezhuan (Biographies) 46" states 'Silla and Baekje respect Wa(Japan) as a big power with unusual cultural products and send envoys to Wa(Japan).'

つけくわえると、有名な国宝・七支刀も、(銘文が不鮮明なため時期については諸説あるようですが)、皇紀912年(神功皇后52年)に、百済王が朝廷に「献上」したものと書紀は伝えています。
このとき、百済の肖古王は、孫の枕流王に、
今わが通うところの海の東の貴い国は、天の啓かれた国である。だから天恩を垂れて、西の地を割いてわが国に賜った。これにより国の基は固くなった。お前もまたよく好を修め、産物を集めて献上することを絶やさなかったら、死んでも何の悔いもない。
と語ったとか。

なお、皇紀907年(神功皇后47年)4月には、百済・新羅両国の使節が、揃って日本に朝貢したことがあります。
皇后と皇子(後の応神天皇)は大いに喜ばれ、先帝(仲哀天皇)のお望みが今こそかなった、在世にならなくて誠に残念であると仰せになり、群臣百寮、涙せぬ者はなかった、と、書紀は伝えています。
後世、頼山陽は以上の出来事を次のような漢詩に詠いました。
東征、冥勃を渉り
吾が妻 我に先ちて没す
西伐 嶢コツ(山に兀)に入り
吾が児 妻に先ちて沒す
何ぞ知らむ娘子軍を摂して巣窟を擣くを
両つながら社稜に死して其の後を昌にす
患難 家を持するに健婦あり
胎中天皇 腕肉凸し
乃父祖に肖たり母に肖たるに非ず
龍顔涙垂れて 侍臣哀しむ
先皇目せず三韓の来るを
ここで「吾」というのは日本武尊、「吾が妻」は弟橘媛。「我が児」は仲哀天皇、その「妻」「娘子」は神功皇后。「胎中天皇」は応神天皇を指します。
すなわち全編の主語は日本武尊で、その目から、子孫の功業を詠っているのがこの漢詩。
頼山陽は、三韓征伐を、世代を超えた「大河ドラマ」としてとらえているわけで、ここで終わっていれば、まことに大団円というべき結末でした。

でしたが……
何せかの半島のことですから、実は彼ら「らしい」オチがついています。
二国の献上品を調べると、新羅のものは立派でしたが、百済のものはひどく粗末でした。
事情を問い詰めると、百済の使者は航路に迷い、新羅に入り、捕らえられ、貢物は横取りされたとのこと。
こちらで述べたとおり、かつて任那の朝貢使も、新羅の略奪にあっており、この新羅が後に蝙蝠外交によって半島の命運を堕落させていくわけですから、個人のみならず、民族・国の性状というものも、「三つ子の魂」なのかもしれません。

いずれにせよ、やがて成長された、仲哀天皇と神功皇后の皇子(日本武尊の孫)は、つつがなく践祚され(第十五代応神天皇)、半島との交渉はいよいよ盛んになってきます。
半島の名誉のために言っておくと、数多くの技術者が渡来し、日本の発展に寄与したことも、ある程度までは事実でしょう。
労働力として「献上」された者たちはもとより、かなり後の時代まで、半島からの移民・難民が日本に移り住んで定着しています。
裏を返せば、それだけ、半島よりも日本のほうが住みやすかった、祖国を捨てて移り住みたい国が日本だった、という、現代と何ら変わらない事情があったのかもしれません。
歴代天皇で読む 日本の正史
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
渡部昇一の古代史入門 頼山陽「日本楽府」を読む (PHP文庫)
日朝古代史 嘘の起源 (別冊宝島)
物語 神功皇后〈上〉
物語 神功皇后〈下〉
知っていますか、任那日本府
韓国の妄言−韓国・朝鮮人はなぜこんなに尊大なのか?
posted by 蘇芳 at 02:01| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする