2016年03月16日

第十三代 成務天皇


第十三代成務天皇は景行天皇の第四皇子。日本武尊とは異母兄弟にあたらせられます。

崇神天皇の四道将軍、
景行天皇の西征、
日本武尊の東征、
などをへて、朝廷は、このころには、ほぼ日本全国をしろしめすようになっていたようです。
これを受けて、成務天皇は内政、地方行政に注力されたようです。

在位60年にも及ぶにもかかわらず、日本書紀における成務天皇の記事は非常に短く、御治績としては、国県の制をお定めになったことに記述が終始しています。
裏を返せば、それだけ平穏で何事もない、住みよい御代だったのではないでしょうか。
華々しい軍功は誰の目にもつきますが、そうして拡張された領土をいかに治めるか、内政の充実はそれに劣らず、あるいはそれ以上に重要な大業、まさに「鴻業」であろうかと思います。
黎元、蠢の爾くにして野心を悛めず。是れ國郡に君長無く、縣邑に首渠無ければなり。今より以後、國郡に長を立て、縣邑に首を置く。卽ち當國の幹了者を取りて、其の國郡の首長に任け。これ中區の蕃屏と為せ。
地方制度を定め給ふの詔(「御歴代天皇の詔勅謹解」)
wikiによると「先代旧事本紀」の「国造本紀」に載せる国造の半数がその設置時期を成務朝と伝えている、そうです。
学校教科書的な「歴史」では、後世の律令制によって国の制度が定まった、ということばかり強調され、「ちうごくさまのおかげです」とでも言わんばかりですが、その基礎はおおむね成務天皇の御代に確立していたことを忘れることがあってはならないでしょう。

(そもそも律令制の整備期間は、支那崇拝どころか、こちらで述べた通り、支那王朝と対等の独立国家としての気概を示さんとした時代だったのですから、律令制はちうごく様のパクリ、などと言っているだけでは片手落ちもいいところです。脅迫的な唐の使節(後世で言うところの砲艦外交のようなものか)を追い返し、九州に軍事拠点を定めて武備を固め、国号・天皇号を定め、国家の正史を編纂した、一連の歴史の「意味」を明確にすべきでしょう。そもそも「防人」はどこの外国と戦うつもりだったのか、日教組教師にキチンと教えてもらった記憶のある人はどれくらいいるでしょうか? 国防の充実にさいしては、当然、仮想敵国≒侵略者が想定されていたはずです)

神武天皇~開化天皇の御代の御事跡が、大和に王朝を開き、平和裏に勢力を拡大していく、基礎固め、いわば「第一次国家統一事業」だったとすれば、崇神天皇以来の御事跡は、さらにそれを拡張してゆかれる「第二次国家統一事業」だったかもしれません。
とすれば、それが一段落した時点で、今度は内政に力を入れ、地方制度を整備された成務天皇こそは、御歴代の事業を完成された――文字通り、代々の「務」めを「成」就された、と(漢風諡号の出典は、さておき)言っていいのではないでしょうか。

このあと、次の仲哀天皇の御代には、またしても熊襲が(おそらくは半島と通謀して)反乱を起こし、さらに次の代の三韓征伐へとつづいていくのは、こちらで述べた通りですが、その征旅の前に、内政固めの期間が60年以上もあったことは、非常に有益だったように思います。
国内の統治さえままならないというのに、外征などできるはずがありませんから。

物語的な興味をもってしては、先代と次代・次々代の功業の狭間に埋没しがちな天皇であらせられるかもしれませんが、内政の充実という御治績はもっと注目され顕彰されてよい、偉大なものだったのではないでしょうか。

外国の歴史を見ると、内政の失敗を糊塗するために外国に喧嘩を売る暗愚な統治者は、枚挙に暇がありません。
どことは言いませんが皆さんご存知のあの国々などは、現代においても性懲りもなく同じことをくりかえしています。
が、自分の国一つ満足に収められない愚かな統治者が、外征などという大博打に成功する可能性は、どれほどのものでしょうか? 一時の目先の勝利は得られたとしても、いずれ手痛いしっぺ返しをくらうのが関の山のようにも思います。
古代日本は、そうではなかったし、そうであってはならない、というのは、現代にも通じる教訓でありうるように思うのです。
御歴代天皇の詔勅謹解
歴代天皇で読む 日本の正史
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
posted by 蘇芳 at 01:50| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする