2016年03月15日

日本書紀に見る日本武尊

    

日本武尊の物語といえば、古事記のバージョンが有名ですが、当然、日本書紀にも記述があります。
その内容は、両書でかなり趣が異なっています。
大筋は同じでも「日本書紀」のほうがストレートでわかりやすい「英雄伝説」になっていると思います。

両バージョンの異同について軽く触れてみると、「日本書紀」には大碓皇子殺害の場面がありません。
したがって、父帝(景行天皇)が小碓皇子の乱暴さに戦慄するという展開にもなりませんし、父帝と小碓皇子の不和を思わせる展開は一切ありません。

「日本書紀」では大碓皇子は臆病者として描写されています。東征に誰を遣わそうかと議論になったとき、怯えて逃げ出してしまうのが大碓皇子。天皇は皇子を宥めて、美濃へ派遣され、要は地方官とするわけで……大碓皇子の処遇はそれで終わりです。
大碓皇子が父帝から后候補を横取りする挿話はありますが、特に報いを受けることはありません。ただ父帝との不和が暗示されているのは、小碓皇子ではなく、大碓皇子のほうである、とは言えます。

反対に、「日本書紀」における小碓皇子は、父帝にとって、徹頭徹尾、頼れる皇子として描かれており、小碓皇子のほうも心から父帝の信頼に応えています。
当然、皇子が倭姫命の前で嘆き悲しむという場面も、「日本書紀」にはありません。
そんな女々しいまねはせず、勝ってくるぞと勇ましく出立していくのが「日本書紀」バージョンの日本武尊です。

さらには、日本武尊の没後、「古事記」では妻子が嘆き悲しんだことが書かれているばかりで、父帝(景行天皇)の御心中は描写されていません(それどころかほとんど登場さえされません)が……「日本書紀」においては、景行天皇のお嘆きがはっきりと描かれています。
天皇はこれをお聞きになり、安らかに眠れなかった。食べてもその味もなく、昼夜むせび泣き、胸をうって悲しまれた。大変嘆いて「わが子小碓皇子、かつて熊襲の叛いたとき、まだ総角もせぬのに、長く戦いに出て、いつも私を助けてくれた。東夷が騒いで、他に適当な人がなかったので、やむなく賊の地に入らせた。一日も忘れることはなかった。朝夕に帰る日を待ち続けた。何の禍か何の罪か、思いもかけずわが子を失ってしまうことになった。今後だれと鴻業を治めようか」といわれた。 (宇治谷孟・訳)
付け加えると、能褒野の地に日本武尊の陵を築いて葬るようお命じなったのも景行天皇、白鳥になって飛び立った皇子を追いかけたのも、古事記では皇子の妻子ですが、書紀では天皇が「使いを遣わして」追わせたことになっています。当然、琴弾原、古市邑の陵(三か所を合わせて白鳥陵)を造ったのも、天皇の命、ということになるのでしょう(書紀の主語は明示されていない場合、天皇ですから)。
そして皇紀783年(景行天皇53年)には、「自分の愛した子を思いしのぶことは、何時の日に止むことか。小碓王の平定した国々を、巡幸したいと思う」と仰せになり、東国を巡幸されました。

同じ日本武尊といっても、「古事記」に見られた兄殺しや父帝との不和という家庭悲劇的な色彩は、「日本書紀」には毛筋ほども見られません。
もっとはるかにストレートな英雄譚であり、強調されているのは家庭不和どころか、父子の絆です。

反日勢力的には、日本書紀のほうを、国威発揚のプロパガンダでありデッチアゲだと決めつけるのかもしれません。
しかし、歴代天皇の治世を語っているはずの中つ巻において、肝心の景行天皇が途中から完全にお姿をお隠しになり、皇子のことしか語られない「古事記」のほうが、整合性という点ではよほど不自然であるとも言えるのではないでしょうか。
書紀に年号まで明記されている景行天皇の東国御巡幸は、それでは何のためだったというのでしょう?

記紀両バージョンの相違には、確かに両書の性格の違いが反映されているとは思いますが、その相違とは「嘘」と「真実」などではなく、やはり、「歴史」と「文学」というべきではないでしょうか。
売国奴司馬遼太郎の捏造ファンタジー小説がいい例ですが、物語を面白くするために「悪役」をデッチアゲるのは、歴史家よりむしろ小説家の専売特許であるはずです。

あと、もう一点。

「古事記」に見られるイズモタケルの物語は、日本武尊が、イズモタケルと偽りの友情を結び、刀を偽物にすりかえて殺害する……というどうにも正々堂々とはいいかねるだまし討ちのような物語ですが、このエピソードも「日本書紀」には見られません。
だまし討ちの物語は、そもそも英雄・日本武尊の事跡としては違和感がありますし、その違和感は、必ずしも、現代的な感覚からの決めつけとは言えないと思います。
何となれば、これとまったく同じ、刀のすり替えによるだまし討ちの物語は、「日本書紀」においては崇神天皇の御代に、悪役の所業として収録されていますから。
すでにこちらで述べた振根(フルネ)・飯入根(イイイリネ)の兄弟の物語がそれです。

皇紀623年、崇神天皇は、出雲大社に収められているという神宝を見たいと詔され、勅使を派遣されますが、その神宝を管理していたのが、振根(フルネ)・飯入根(イイイリネ)の兄弟。
弟の飯入根は素直に勅命に従い、兄・振根に無断で、神宝を奉ったために、振根が飯入根を憎み、殺害。その後、振根は、飯入根の遺族の訴えによって、天皇に討伐されるというお話です。
このときの弟殺しの手口が、まさに、イズモタケルの物語と同じ、「刀のすり替えによるだまし討ち」です。

この時点で、出雲も朝廷に服属していたわけですから、出雲振根の所業は明確に謀反人のそれなわけで……そんな悪役の卑怯なだまし討ちが、英雄の功業譚として相応しいとは、さすがに当時の人も思わなかったのではないでしょうか。
さらに言うなら、すでに朝廷に服属しているはずの出雲を、どうして日本武尊が再度制圧しなければならないのかも、謎です。
熊襲は、まあ、何度も反乱を起こしていますが、出雲までそんなレベルの面従腹背のやからだったのでしょうか? 大国主命という、天照大御神からも親戚筋にあたる立派な神様をお祀りしているにしては、ずいぶんとさもしい根性ですし、そもそも熊襲とは違って、出雲の反乱など、この後には記紀両方においで、まったく記述がないのですから……このときにかぎってとってつけたように出雲を制圧する必要があったという古事記の展開のほうが、やはり、不自然ではないでしょうか。

しかも、振根・飯入根の物語も場所は出雲で、その点も、イズモタケルの物語と符合しています。
どうも、出雲地方の物語が、いつのまにか、日本武尊の物語ということにこじつけられてしまったのが、「古事記」のイズモタケルのエピソードではないでしょうか。神話・伝説におけるその種の牽強付会は世界的に見ても珍しくないですからね。
そもそも「イズモタケル」という名前からして、「出雲の勇者」というほどの意味で、固有名詞というよりは称号に近い物でしょうから、かなり抽象的な“お話”であることが感じられます。

そういう意味でも、「古事記」の文学性は顕著であるのではないでしょうか。
もちろん、文学には文学なりの「真実」の表現法があるのでしょうが……
「忠臣蔵」だけで上野や赤穂の歴史をわかった気になるのは危険であることも、確かではないでしょうか。
本居宣長の薬が効きすぎたのか何か知りませんが、自称保守派の皆さんが「古事記」を偏重する一方で、「日本書紀」を軽視する傾向なきにしもあらずだとすれば、それはそれで、やはり不健全ではないかと思うのです。

「正史」だけあって、「日本書紀」には「古事記」に比べると論理的に辻褄のあう(それだけに現代人の感覚でも納得がいきやすい)記述が多いように感じます。
古事記は古事記で大事ですが……たまには「日本書紀」バージョンのストレートな英雄譚も思いだしてあげてください、といったところです。
兄殺し・父子の不和、というギリシア悲劇ばりの神話的モチーフは進歩的知識人()の好みには合うかもしれませんが……そういう悲劇への酔い方というのはちょっと中二病が入っているような気がしないでもないですし……
そもそも、7年がかりで九州を制覇された景行天皇を無視して、日本武尊だけを語るのは、「文学」としてはともかく「歴史」としては、やはり本末転倒ではないでしょうか。


動画概要:
2013/04/14 に公開
英雄が眠る地は、烈しく、悲しく、美しい歴史ロマンを今に伝えます。

古代の英雄ヤマトタケルが眠る地、能褒野(のぼの)

亀山市は、「日本書記」、「古事記」に登場する古代の英雄ヤマトタケルの終焉の地であ­り、愛する妻オトタチバナヒメが生まれた地でもあると伝えられています。
12代景行天皇の皇子ヤマトタケルは、兄をも殺す荒々しさから父に恐れられ、西国のク­マソ兄弟の討伐を命じられました。強者を倒して故郷の倭(やまと)に戻ると、父はすぐ­さま東国遠征を命じます。
ヤマトタケルは父に疎まれ、さらには道中でオトタチバナヒメを失い、悲しみに打ちひし­がれながらも、勇敢に戦い続けましたが、倭へ戻る途中、伊吹山の神の怒りにふれ、病と­なり、伊勢国の能褒野(亀山市北東部一帯の古称)で国偲歌を詠み亡くなります。
「倭は 国のまほろば たたなずく 青垣 山隠れる 倭しうるわし(大和は国の中で最もすぐれた土地である。幾重にも重なり青い垣根のよう­になった山々に囲まれ、美しい)」。
ヤマトタケルの魂は、大きな白鳥となり、天高く飛んで行きました。ここ能褒野の地には­、古代の英雄が眠る墓があり、緑深い静かな雰囲気の中、今も歴史ロマンを感じることが­できます。

GoogleMap
http://goo.gl/maps/h7lDz

Present by 岐阜県(制作2013年2月)
概要を見ればわかりますが、こういう↑一見日本を讃えるように見える動画でさえ、やはりどうしても「兄殺し」≒古事記のほうばかり協調したいのですね……

ちなみに、愛知県豊田市の猿投神社社伝などでは、大碓命は美濃に封じられてのち現地の開拓に尽くした≒殺されてなどいない(「日本書紀」に準拠)ことになっているそうです。


動画概要:
2013/01/18 に公開
愛知県豊田市の猿投神社は、豊川市の砥鹿神社、知立市の知立神社に並ぶ、三河国の三宮­のひとつ。猿投まつりが行われるなど、地域の人たちを中心に古くから崇敬を集めてきた­神社です。
 御祭神・大碓命は、景行天皇の第一皇子で、小碓命(おうすのみこと=日本武尊)とは同­胞双生児にあたります。
 日本書紀には「大碓命が東征を欲せられなかった為に、美濃国(現・岐阜県)へ封ぜられ­、三野国造の祖神の娘二人を妃とし、ニ皇子(押黒兄彦、押黒弟彦)を生む」とあり、ま­た縁起書には、「景行天皇52年(122年)猿投山中にて蛇毒の為に薨ず。御年42歳­。即ち山上に斂葬し奉る」という記述があります。
歴代天皇で読む 日本の正史
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
現代語古事記: 決定版
日本武尊 (人物叢書 新装版)
posted by 蘇芳 at 01:28| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする