2016年03月14日

景行天皇と九州

    

熊襲征伐というと日本武尊の物語が有名ですが、書紀によればそれに先立って、父帝・景行天皇が、御自らご親征、九州一円は平定されています。
しかも征討の理由は、「熊襲がそむいて貢物を奉らなかった」ことにあるとされていますので、それ以前から、熊襲はすでに朝廷に「貢物を奉」るべき立場にあった≒服属していた、ということになります。
そのためでしょうか、景行天皇が九州に入られると、進んで臣下の礼をとる豪族・首長が二人、立て続けにあらわれます。二人が二人とも、女性だったとされています。

まず初めは周芳(山口県)の神夏磯媛。多数の部下を従えた「一国の首長」とされています。
次には碩田国(オオキタ=大分県)の速津媛。やはり「ひと所の長」とされています。
この二人は、それぞれに、自分たちは朝廷に背くつもりなど毛頭ないが、皇命に従わない悪者(土蜘蛛)がいるので退治してほしい、と、天皇に訴えています。
土蜘蛛たちの所在地は福岡県あたりと比定されているようですが、天皇はそれらを次々に討伐されていきます。
その後、行宮をお建てになったのは日向国(宮崎県)。
この時点でもうすでに九州一円のかなり広い範囲が、朝廷の傘下に入っていることになります。
それが可能だったのは、そこが、元から(たとえば崇神天皇の御代の四道将軍などの働きによって)大和朝廷の勢力範囲だったからではなかったでしょうか。

そしていよいよ肝心の熊襲討伐ですが、ここでもやはり二人の女性が登場します。
熊襲梟帥の娘たちですが……
天皇はこの二人を寵愛し、味方につけます。
天皇の歓心を買おうとした姉の市乾鹿文は、実父である熊襲梟帥を殺害。こうして、大きな合戦もなく、最小限の流血で、叛乱は終息します。
市乾鹿文は功労者といえば功労者ですが、裏切り者というのは敵からも味方からも憎まれるものです。ましてこの場合は尊属殺人ですから、その不幸のはなはだしいのをにくんで、天皇は市乾鹿文を処刑。妹の市鹿文は火国造に下賜されてしまいます。

天皇はその後もしばらく九州にとどまられ、日向国(宮崎県)では御刀媛という妃を娶ったりもされています。
皇紀748年(景行天皇18年)には筑紫を巡幸、やはり土地の豪族・首長の類か、諸県君泉媛(またしても女性)が、天皇に御饌を奉ったりしていますし、熊県(熊本県)では、熊津彦という兄弟のうち、兄を戦わずして従わせ、弟を討伐されています(神武東征とは逆に兄が従い、弟が叛いているようです)。
その後も、阿蘇国、筑紫後国(福岡県)など、いくつかの場所に行幸され、ようやく大和に還幸されたのは、皇紀749年(景行天皇19年)、ご親征開始(皇紀742年・景行天皇12年)から、実に7年が経過していました。
日本武尊の熊襲征伐よりも、よほど大がかりな征旅だった、ことになるのではないでしょうか。

ところで……

天孫降臨の地といえば、日向、高千穂。
九州は、元をただせば、天皇・皇室・朝廷の故地だったことになります。
しかし、記紀には、九州を「ゆかりの地」として特段に重視する記述は、ほとんどないようです。
もちろん、何度も反乱する地域ですし、外国との交易や戦争で拠点となる地域ですから、後世の大宰府のように、政治的・軍事的には要地として「重視」されますが……天皇の故郷、というような情緒的・信仰的な思い入れは、非常に薄かったようです。

そもそも、神武天皇は「大和に国を作ろう」と仰せになったのであって、それは裏を返せば、九州は捨てる、ということかもしれません。
つまるところ、神武東征とは、九州の王朝が大和を征服したというよりは、王朝そのものが九州から大和地方へ「引っ越し」をした、といったほうが適当なのではないでしょうか。
そんな「引っ越し」が可能な国が、それほど巨大だったとも思えません。
「神武東征」「東征軍」といえば、ずいぶんと勇ましい大軍だったように聞こえますが……それは後世の誇張ではないでしょうか。
実際、海路、大和へ向かう途中、それほど大きな事件は起きていません。ごく少数、新たに臣従した者がいたほかは、嵐に遭って兄皇子様方がお隠れになったり、など、勇ましい話でもありません。一直線に大和へ向かい、ようやく、土着の豪族たちとの抗争が始まるわけです。
極端な話、神武天皇たちは、九州に居場所を失い、新天地を求めて旅立たれたのだ、と、想定することもできるかもしれません。
どうにか大和に安住の地を手に入れ、先住の豪族たちと、おそらく縁戚なども結び(第五代孝昭天皇の皇后は尾張出身といいますし、第六代孝安天皇の皇后も尾張の豪族の血をひいておいでだったとか。また、第七代孝霊天皇の皇后は神武東征時に兄磯城・弟磯城として登場する磯城氏の姫)、平和裏に影響力を拡大、何代か経て、気がついてみれば、最大の実力者になっていた、というのが、いわゆる「欠史八代」の「平和」の意味なのかもしれません。
そしてあらためて四道将軍を派遣され、いよいよ朝廷の基礎をお堅めになったのが崇神天皇、と考えれば、「御肇國天皇」の御称号も、さらに理解しやすくなるように思います。

以上は、あまりに飛躍した、無責任な想像にすぎないかもしれませんが……

しかし、景行天皇の西征のあと、熊襲はたちどころに再び叛き、日本武尊の討伐を受け、その後も反乱をくりかえし、三韓討伐によってようやく一段落するのは、こちらで述べた通りです。
古代の九州は、相当に物情騒然とした地域であり、だとすれば、神武天皇が故地をお捨てになった理由も納得できるように思いますし、また、この騒然とした九州情勢といい、景行天皇の西征時に複数の女性首長が登場していることといい、古代史ファンが不可解なほど崇め奉っている「魏志倭人伝」の「大乱」や「女王」の記述とも、符合しないことはないように思うのです。
こちらで推測というか想像したように、卑弥呼だの邪馬台国だのというものが実在したとして、それは九州ローカルな存在だったのではないでしょうか。
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
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渡部昇一の古代史入門 頼山陽「日本楽府」を読む (PHP文庫)
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posted by 蘇芳 at 01:59| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする