2016年03月10日

【動画】垂仁天皇 菅原伏見東陵


第十一代垂仁天皇は先帝崇神天皇の第三皇子。
即位事情としては崇神天皇の御代に、夢占いの挿話が見られます。
東に向かって槍や刀を振るう夢をご覧になった兄の皇子、
四方に縄を張り巡らし、穀物を荒らす雀を追い払う夢をご覧になった弟の皇子。
父帝がこれを裁定され、兄皇子に東国(時として武力が必要な辺境)を治めさせ、弟皇子を皇位継承者と定められたというお話。

弟のほうが兄より優れた資質を持つ、というのは、記紀には頻繁に見られるパターンですが、ここで提示されている皇位継承者に相応しい「資質」が、武人的・英雄的なそれではなく、農事・国民生活に心を砕く為政者としてのそれであることは、まさしく「しらす」という日本的統治の精神を物語っているように思います。

もちろん、「夢占い」など後世の創作にすぎないと悪意を以て決めつける反日勢力もありましょう。
が、創作には作者の意図が込められているものであり、記紀編纂の時点で天皇は「かくあるべし」との観念が確立し、宣言されていることに、かわりはないのではないでしょうか。

思えば、父帝・崇神天皇ご自身、「農は国の本なり」と詔された名君でもあらせられたのでした。



動画概要:
2009/11/14 にアップロード
垂仁天皇は、『古事記』・『日本書紀』に伝えられる第11代の天皇。
在位は、紀元前29年から紀元後70年までの42年間。

垂仁天皇の御代には、動画に登場した田道間守の話の他にも、沙穂姫・狭穂彦、相撲節会の起源節話、鳥取造、埴輪の起源など、物語的に興趣のある挿話が豊富です。
しかし、何といっても重要な出来事は、伊勢神宮の創建と、朝鮮半島との交渉がさらに深まっていったことでしょう。

すでに崇神天皇の御代に、新羅、高句麗が建国されていましたが、垂仁天皇12年(皇紀643年)には百済が建国されています。
また「任那」の国名を(父帝・崇神天皇=御間城天皇の御尊名にちなんで)定められたのは、垂仁天皇である、ということになっています(こちらで述べた通り、名を与える/賜る、というのは、主従関係の証ですが、個人どころか国に対してそれが行われています)。
さらにまた、こちらの動画に登場した「倭人」の脱解尼師今や瓠公が、新羅の王や高官になるのも、新羅の王子(脱解尼師今の子)・天日槍が来朝したというのも、垂仁天皇の御代です。

なお、動画に登場した忠臣・田道間守は、天日槍の玄孫とされています。
垂仁天皇一代のあいだに玄孫まで生まれるというのも凄い話ですが、垂仁天皇は在位98年、宝算139歳とも153歳とも言われており、史実と伝承の境が曖昧なところはあります。
が、脱解尼師今や瓠公は、半島の史書にも堂々と登場しているのですし、反日妄想にすがってすべてを否定してかかるのはかえって非科学的でしょう。
この時代、半島の民が喜んで「倭人」の王を戴いていたこと、その王の子孫が朝廷に仕えたことは、見過ごしてよい記述ではないのではないでしょうか。

もっとも、あの半島のことですから、裏表のない友好など期待するほうが無駄というものかもしれません。
この時点ですでに新羅が任那の使節を襲っていることはこちらで述べたとおりですし、三韓があらためて朝廷に服従を誓うには、神功皇后の三韓征伐が必要だったのは周知のとおり。そしてその後も延々と抗争をつづけては日本にすがり、すがったあとでまた騒ぎだし、ついに自滅の道を歩むのは、こちらで述べた通りです。
崇神天皇の御代は、それら一連の歴史がいよいよ本格的に始動した時代でもあったのかもしれません。

と、いうのも……

伊勢神宮の創建についてはこちらで軽く触れましたが、垂仁天皇皇女・倭姫命は、第十二代景行天皇の同母の姉妹。日本武尊からは叔母ということになります。
そして第十四代仲哀天皇は、日本武尊の皇子。その后が神功皇后ですから、応神天皇は日本武尊の孫ということになります。
これを要するに、古代史最大の英雄・ヤマトタケルの物語は、単なる一代記ではなく、子へ孫へとその志が受け継がれてゆく「大河ドラマ」であり、その一応の大団円こそ、三韓征伐だったのではないでしょうか。
何となれば、これら御歴代にとっての一大事業は、熊襲討伐=九州平定だったからです。

九州については、すでに景行天皇の御代には親征が行われていますし、数多くの豪族が戦わずして服属しています。
日本武尊の熊襲討伐については言うまでもないでしょう。
その皇子・仲哀天皇に三韓征伐の神託が下るのも、熊襲討伐の最中でした。
三韓を服従させれば、熊襲もおのずから帰順するであろう……と。

これを合理的に解釈するなら、地理的に近い九州の豪族と半島国家群は、結託していた、ということではないでしょうか。
そう考えれば、景行天皇の御代にすでに帰順していたはずの熊襲がしつこく謀反を起こしつづけたことも、三韓が戦わずして降伏したことも、理解しやすくなるように思います。

要するに、熊襲は三韓を「後ろ盾」と思っていたのでしょう。
しかし、三韓のほうは、安全圏から熊襲を利用しようとしていただけであって、実際には自ら率先して朝廷に歯向かう意志も実力もなかったのではないでしょうか。
そう考えれば、三韓を征伐することによって、熊襲も自動的に戦意を失う、という神託にも筋が通ります。

まあ、実際の史実の究極的な真実は、わかりませんが……

日本の正史を素直に読むのならば、結局のところ、熊襲の反乱とは半島勢力と通謀したうえでの「外患誘致」であり……
熊襲征伐とは、国内平定であると同時に、外交・対外戦争としての側面を併せ持ち、
逆に、三韓征伐は、対外戦争であると同時に、日本の国内平定・反乱鎮圧の一環としての性格を、併せ持っているのかもしれません?
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
現代語古事記: 決定版
歴代天皇で読む 日本の正史
知っていますか、任那日本府
日朝古代史 嘘の起源 (別冊宝島)

追記:
なお、記紀には、崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の宮として磯城瑞籬宮・纏向珠城宮・纏向日代宮の名が伝わっています。
これら宮の伝承地に巨大な纏向遺跡が実在していることは、何を物語っているのでしょう?と……ことあらためてわざわざ問う必要が、本当にあるのでしょうか?
posted by 蘇芳 at 01:59| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする