2016年03月04日

【動画】よくわかる日本と朝鮮半島の古代史【学校やNHKでは教えてくれない事実】


日本と朝鮮半島の交渉がいつ頃から始まったのか詳細は不明ですが、「日本書紀」神代巻にはすでに素戔嗚尊が半島にわたった記述があったりもします。さすがにそれは神代の「一書に曰く」ですから、文字通りに受け取る必要はないでしょうが。
しかし、第十代崇神天皇のころには、半島関連の記述が増えはじめ、かなりの消息が伝えられるようになります。
ある国の正史、とは、当然、その国自身の歴史を記すものですが……
「日本」の正史である日本書紀に、こうも朝鮮半島に関する記述が多いのはなぜなのか?
最もシンプルな答えは、その地域が「日本の一部」だったから、というものになるのではないでしょうか。

実際、神功皇后の三韓征伐後は明確に半島各国は日本の朝貢国となり、人質や調を奉っていますし、「倭人」が半島国家の高官や王になったこともあります。
それは「日本書紀」の側が一方的に言っていることではなく、半島の史書「三国史記」にも同様の記述があるそうです。



動画概要:
2015/04/03 に公開
【学校やNHKでは教えてくれない事実】
多くの朝鮮人が、古代の朝鮮人が日本を支配したと妄信しています。
しかし、東アジアの歴史書(朝鮮の歴史書でさえ)は、倭(日本)が朝鮮半島の南部に強 い影響を持っていたことを示しています。
なぜ彼らは誤解するのでしょうか?
なぜなら韓国政府が、彼らから不都合な情報をずっと隠しているからです

例えば、韓国のソウルには独立門があります。
ほとんどの朝鮮人は、朝鮮が日本から独立した時に、その門が建てられたと信じています ­。
しかし、その門は1897年に建てられました。
当時、まだ朝鮮は存在していました。
韓国政府は、日本が朝鮮を清から独立させたことを、ずっと隠しています。(下関条約第 ­1条を読んでください)
驚いたことに、朝鮮人は「歴史を歪曲するな!」と日本人々に言います。
笑っちゃうね。

オープニング&エンディングテーマ: 閉ざされた世界
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オープニング&エンディングイメージ: 東京国立博物館
画像提供:東京国立博物館
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ナレーター: iSpeech (US English male & female)
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『三国史記』新羅本紀
「瓠公者、未詳其族姓。本倭人。初以瓠繋腰、度海而来。故称瓠公。」
  「瓠公は、その族姓は未詳。本は倭人。
  初めは腰に瓢箪をぶらさげて海を渡って来たことから、瓠公と称される。」

『三国史記』新羅本紀 
 「脱解本多婆那國所生也。其國在倭國東北一千里。」
 「脱解、本来は多婆那国で生まれた。その国は倭国の東北一千里に在る。」

『隋書倭人伝』
 「新羅 百濟皆以倭為大國 多珎物 並敬仰之 恒通使往來 」
 「新羅と百済は倭国を大国で珍しい物が多い国だとしており、ともに倭国を大国として
 敬い仰ぎ、つねに使いを送り、往来している。」

『広開土王碑文』
百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民
「そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯の年(391年)に海を渡り、百残・■■新羅を破り、臣民となしてし まった。」

英語が読めないので確認できませんが、「歴代天皇で読む 日本の正史」によれば、
コロンビア大学のオンライン百科事典や米議会図書館には「古朝鮮は紀元前十二世紀に、支那の殷王朝の政治家・箕子が、韓半島北部に建てた国だ、その当時、韓半島南部は日本の大和政権の支配下にあった」と書かれている。
コロンビア電子百科事典は複数のサイトで公開されているようです。
神武天皇即位=皇紀元年が西暦紀元前659年ですから、紀元前12世紀といえばそれよりさらに500年前ということになりますw そういう意味では「大和政権」はまだ存在していないともいえるわけですが、米国的には細かいことはどうでもいいのでしょう。天孫降臨の舞台は九州ですから、大和朝廷と完全に無関係ではなかった可能性もなくはないのかもしれません。ちょっとソースを知りたくなる記述ではありますね。
また、同書によれば、中華人民共和国でも、上海人民出版社が出版している教科書「世界史講」は、
新羅は、半島南方で早くから長期間にわたって倭人の基盤となっていた任那地区を回復した
とあるそうです。
上海とはいえ残念ながら現在は言論統制独裁国家の支配下にある地域ですから、教科書記述にもどこにどんな政治的意図が潜んでいるか知れたものではありません。が、古代朝鮮半島南部が「倭」の勢力圏であったことを、歴代支那王朝が事実として認識していたことは、歴代王朝の史書から明らかであると思われます。

なお、半島南部の「狗邪韓国(『隋書』に登場)」や任那に相当する地域は、皇紀500年代中頃(崇神天皇の御代)、従来の半島の土器とはまったく様式の異なる日本の弥生式土器が急増するそうで、これは後に任那となる地域に「倭人」が移り住んだことを意味しているとも解釈できるようです。
「半島から来た」のではなく、逆に、「半島へ行った」のであり、当時の半島南部は、「倭人」の勢力圏だったことになります。
時期的にも、このころから「日本書紀」に半島に関する記述が増え始めることと、符合しています。
唐古・鍵遺跡や纏向遺跡の例といい、考古資料は、反日勢力が顔を真っ赤にしそうなくらい、日本書紀の記述が好きなようです。

なお、任那日本府の起源は、「新撰姓氏録」に、崇神天皇の御代、塩乗津彦命が任那鎮守府将軍として派遣され、その地を治めたことであると記述されているそうです。
「日本書紀」にも、崇神天皇65年(皇紀628)年、任那国が蘇那曷叱知を遣わして朝貢した記述があります(将軍派遣云々の記事はないようですが、とりあえず時期は符合しています)。

いずれにせよ、このときの将軍派遣ももとをただせば任那国の側から助けてくれと頼み込んできたことになっているそうで……これ以後、「日本書紀」に嫌になるほど多数の記録がある、「困ったときの日本頼み」ともいうべき半島諸国の他力本願な姿勢が、「新撰姓氏録」の記述には、早くも現れているようです。

実際、これ以降、日本は、数百年にわたって半島統治という厄介なお荷物を背負うことになり、「日本書紀」を読んでいるだけでウンザリさせられます。
半島各国は、百済も新羅も高句麗も頻繁に日本に朝貢していますが、頻繁にお互いを攻め合い、奪い合い、殺しあい、そのたびに日本に泣きついてくるというありさまです。
正直、「日本書紀」を読んでいると、白村江の敗戦は、かえって半島と縁切りができたと慶賀したくなるくらいです。
しかもその戦いの後でさえ……

白村江の戦いについて一言しておきますが、大きな敗因の一つは、百済の内輪揉めです。
百済の滅亡を受けて、日本の援助で再興の兵を起こしたのは、鬼室福信・黒歯常之ら遺臣たちでしたが、百済王豊璋は、讒言を信じて鬼室福信を処刑します。豊璋はもともと人質として日本に滞在していたのを、鬼室福信らの請いを入れて朝廷が帰国を許したものでした。百済滅亡後も復興のために戦っていた忠節の良将を、帰国したばかりで現地の情勢に疎い百済王が処刑するという、愚かななりゆきでした。
新羅軍はこの機を逃さず攻勢に出、百済救援のため日本から遣わされていた安曇比羅夫も討ち死にします。
白村江の戦いは、この不利な形成のなかで行われました。
無能な味方ほど恐ろしいものはありません。

しかしてこの敗戦後、日本が半島から距離を置くようになったあとまでも、新羅は頻繁に日本に朝貢し、顔色をうかがっていますが……

その裏事情を知ると、正々堂々を貴ぶ馬鹿正直な日本人の気質からすれば、かなりの……何といいますか「基本的価値観の不一致」を感じざるをえないのではないでしょうか。

この半島の戦乱のあと、唐は半島に出先機関を起き、撤兵、かわりにまったく正反対の西方で、チベットとの戦争を始めたようです。
半島が手薄になった隙をついて、唐の出先機関を急襲、半島を「統一」したのが、新羅でした。
恩を仇で返すだまし討ちであり、チベットとの戦争のドサクサを狙った火事場泥棒とも言えるでしょう。
唐の怒りを買うのは当然です。
新羅が頻繁に日本に朝貢してきたのは、要するに、今度は日本を後ろ盾にしようという虫のいい考えです。

天武天皇は、その卑しい計算をお見通しだったのでしょうか。
当初、都まで迎え入れていた新羅の朝貢使を、あるときから、筑紫に留め置かれ、そこで応対させ、入京はお許しにならないようになっているようです。

日本に見捨てられた新羅は唐の属国への道を歩むほかなくなり、一方の日本は、唐と直接対等外交をくりひろげるようになっていきます
支那が勝手につけた「倭国」の侮蔑的呼称を拒否し「日本」を国号としたのは白村江敗戦後の天智天皇9年(皇紀1330年)、初の「天皇」号を使用されたのは天武天皇5年(皇紀1336年)、また国号もあらためて「日本」と定められています。
唐からの使者も(新羅の朝貢使と同様)入京を許さなかったり、と、複雑な戦後処理外交が行われていた形跡があるようです。
文武天皇5年(皇紀1361年)には国旗・日の丸の原型といわれている「日像」が登場するなど、律令制の整備と歩調を合わせて、日本の国家意識はかえって強まっていくように見えます。
この一連の流れを見ると、白村江で一敗地にまみれたとはいえ、唐の属国・柵封国になどならない、という、独立国としての気概を示したもののようにも感じられます。天武天皇が記紀編纂をお命じになったことの意味も、あらためて鮮明になるのではないでしょうか。
やがて大宝2年(皇紀1362年)、32年ぶりの遣唐使が復活、日本と支那の国交が回復されます。

唐と正々堂々の戦いをくりひろげた独立自尊の国・日本と、日本と唐の両方に媚びへつらうコウモリ外交を長年展開し続けたあげく、その両方を裏切り、その両方から見捨てられ、歴代支那王朝の属国の道を歩む新羅。
白村江の戦いが分けた命運は、とても大きなものだったのではないでしょうか。

以上は「日本書紀」そのものというより、上記「歴代天皇で読む 日本の正史」を通してみた歴史ですが……
頭ごなしに偏向と決めつける理由は特にありません。
細部はともあれ、日本の側から見た日朝古代史は、だいたい、以上のようにならざるをえないものと思います。

何が古代史の真実なのか、本当の本当のことは、もちろん、容易にわからないかもしれません。
ただ、正史「日本書紀」のすべてが寸分たがわず正確であるとまで主張するのは不合理ですが、「日本書紀」のすべてが寸分たがわず虚偽であると主張することは、それ以上に常軌を逸したデタラメであり政治的悪意によるプロパガンダにすぎない、ということは、言えるのではないでしょうか。
何を信じるべきか……
じっくり考えてみるためにも、日本人なら、「日本書紀」くらいはシッカリ読んでおくべきではないかと思うのです。
歴代天皇で読む 日本の正史
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
日本書紀(下)全現代語訳 (講談社学術文庫)
知っていますか、任那日本府
日朝古代史 嘘の起源 (別冊宝島)
歴史を偽造する韓国―韓国併合と搾取された日本
posted by 蘇芳 at 03:16| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする