2016年02月27日

【動画】吉野ヶ里遺跡


関白だったのは山城守の信長であって、ある日、猟に出たところが木の下に寝ているやつがある。びっくりして飛び起きたところをつかまえて問いただすと、自分は平秀吉といって、薩摩の国の下男だという。すばしっこくて口がうまいので、信長に気に入られて馬飼いになり、木下という名をつけてもらった。
この↑噴飯物のデタラメは『明史』に実際にある記述だそうです。ソースは渡部昇一「皇室はなぜ尊いのか (PHP文庫)」。
明といえば西暦1368年~1644年という“つい最近”の支那大陸の王朝です。
その王朝のれっきとした正史がこのありさま。
支那人がどれほど日本について知らなかったか、ということがよくわかるのではないでしょうか。
まして、2000年以上前の古代においてをや。
「日本書紀」を偽書扱いする一方で、支那の史書だけをありがたがって無理やりに古代日本にあてはめ・コジツケた自称「歴史」「古代史」に、はたしてどれほどの意味があるでしょうか?
邪馬台国がどうのこうのという「学説」の大半は、あるいは、「信長公記」や「太閤記」を無視して『民史』のみに依拠して記述された安土桃山史、のようなものにすぎないのではないでしょうか。



動画概要:
2011/02/20 にアップロード
佐賀にある吉野ヶ里遺跡。卑弥呼九州説を後押しする遺跡として注目を集めている。卑弥­呼がいたにせよ、いなかったにせよ、貴重な弥生時代の遺跡として各地からの観光客で賑­わっている。早めの時間に来場すると勾玉作成や農機具体験など様々なイベントも準備。­近くには背振温泉もあり、一度訪れてみては如何だろうか。

wikiによれば吉野ケ里の集落が形成され始めたのは西暦紀元前4世紀ごろ、最盛期を迎えたのは西暦3世紀ごろだといいます。地層や放射性同位元素は史書のような嘘はつきませんから、この年代測定にはそれなりの根拠があるのでしょう(吉野ケ里歴史公園:吉野ヶ里の歴史)。
これを皇紀になおせば、皇紀260年~960年、でしょうか?
すなわち、吉野ケ里では、第六代考安天皇の御代以降に集落が形成されはじめ、最盛期を迎えたのは神功皇后~第十五代応神天皇の御代ということになります。

古代大和朝廷の都はもちろん大和地方にありました。
畿内一円は朝廷の勢力範囲だったとしても、その勢力が大きく広げられていくのは、第十代崇神天皇が四道将軍を派遣されて以後のことですから、考安天皇の御代にはまだ九州は大和朝廷に服属してはいなかっただろうことが、「日本書紀」の記述からは推測できます。
吉野ケ里集落は朝廷とは無関係に発生し、初期の発展を見た、地方豪族の勢力範囲と見なすのが妥当であるように思えます。

しかし、第十二代景行天皇の御代、皇紀742年には、熊襲が謀反を起こして貢を奉らなかったので、天皇御自らこれを討伐された、と正史は伝えています。
「謀反」ということは、家来が主君に歯向かう反乱の意味ですから、このころにはすでに熊襲(熊本あたりか?)は朝廷に服属していたことになります(景行天皇の皇子である日本武尊の熊襲征伐も、要は反政府テロ組織の鎮圧ということであり、小規模反乱だったから天皇親征ではなかったということかもしれません)。
吉野ケ里遺跡のある佐賀県ではありませんが、このころにはすでに熊本あたりまで大和朝廷の勢力範囲になっていたということが「日本書紀」からは読み取ることができます。

吉野ケ里集落が全盛期を迎えたという神功皇后~応神天皇の御代は、三韓征伐の時代でもあり、容易に海を渡れたということは、すでに北九州一円も朝廷に帰属していたと考えたほうが自然でしょう。

要するに、遺跡の年代測定と、「日本書紀」の記述を素直に照らし合わせれば、朝廷とは無関係に発展した九州地方の諸豪族が、やがて朝廷に服属し、そのあとに(大和朝廷の統治下においてこそ)全盛期を迎えているという展開が、ごく自然に見えてくる、ということになります。

吉野ケ里遺跡はむやみやたらと卑弥呼や邪馬台国と結びつけられることが多く、一時は反日マスゴミによってちょっとしたブームがでっちあげられましたが、もしこの地方に一時期そういったクニや豪族が存在したとしても、大和朝廷の「正史」に登場しない卑弥呼や邪馬台国は、あくまでも地方史・郷土史に属する存在であると考えたほうが妥当であり、邪馬台国畿内説や東遷説などは、頭の体操程度の意味しかないのではないでしょうか。
景行天皇の熊襲討伐のときには、地元の豪族たち(しばしば女性)が服従の印を手にして登場しますが、邪馬台国や卑弥呼というのも、そうした無数の存在の一つだったのではないでしょうか(そして正史にその名が登場しないということは、大和朝廷にとって重要な存在ではなかった。またはすでにそのころには「クニ」としては存在しなくなっていた、滅んだか、朝廷の支配下に入っていた、ということかもしれません)。

そのような地方豪族の一つが、大和朝廷に服属する以前に(あるいは服属した後も)、独自に大陸と交渉を持ち、それを支那王朝の史書が誇大に描きだしたということは、十分に考えられることです。
なんとなれば、そもそも、歴代支那王朝にとって「歴史」とはあくまで「政治」に従属し、捏造されるべきフィクションにすぎなかったことは、自明なのですから。
支那地域の伝統は易姓革命です。
ある王朝が栄え、滅び、次の王朝が取って代わる。なぜそうなったのかといえば、古い王朝が腐敗し、「悪」になったので、新しいより良い王朝ができることを、天が命じたのだ、と、説明するのが易姓革命の思想です。
すなわち滅びた王朝は常に悪でなければならず、新しい王朝は常に善でなければならない。この思想的・政治的要請が何より優先されるのが歴代支那王朝の「歴史」であり、要するに、支那大陸の史書とは常に現王朝の存在を正当化するためのプロパガンダ以外の何物ではなく、事実などは二の次です。
そして、「倭国伝」をはじめとする周辺諸国に関する書もまた、そのような「正義」の現王朝が、どれほど偉いのかを自慢するための宣伝文書であり、あの国が朝貢に来たあの国が家来になった、と、誇張して言い触らしているだけのことです。
実際に、朝貢してきた使節はいたでしょう。しかし、その使節の実態が、周辺諸国を実際に統治している正統王朝の派遣したものだったと決めてかかる根拠などどこにもありません。支那にしてみれば、朝貢に来たのが地方豪族だろうと海賊だろうと、地方官僚だろうと、反政府組織だろうと、何でもかまいません、勝手に王だの何だのと大げさな称号を与えればすむ話です(「明史」でさえ尾張中村の百姓がいつのまにか平氏になっているくらいですからね?)。

こちらで述べた通り、北九州の吉野ケ里遺跡からは、矢じりによって傷ついた人骨や、頭部の無い人骨など、戦乱の痕跡が発見されている一方、近畿地方の唐古・鍵遺跡や纏向遺跡からはそうした戦乱の跡は発見されていないといいます。
北九州の戦乱が、地方豪族同士の争いだったのか、大和朝廷との戦いでもあったのか、時期によって想定はかわってくるでしょう。
が、大和朝廷の支配地域こそが平和であり、朝廷の「教化」が及ばない辺境こそが戦乱の巷だったという考古学的知見は、「日本書紀」の記述と符合しているように思われます。
あるいは、出雲神話における、地方豪族による「うしはく」支配と、天皇による「しらす」統治との違いを、ここに見ることもできるのではないでしょうか。

「奥ゆかしい」というより、自虐的な戦後の日本人には、そうした史観は「身内びいき」と感じられるかもしれません。が、それこそ、「厚かましい」反日勢力の思う壺です。

「倭国伝」を無視しろとまではいいませんが、外国の正史を尊重するなら、当然、それと同等かそれ以上の価値を、日本の正史にも見出すべきだという主張が、自明の理以外のそもそも何でありうるのでしょうか?
皇室はなぜ尊いのか (PHP文庫)
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
歴代天皇で読む 日本の正史
倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本 (講談社学術文庫)
中国が憧れた理想の国 日本―学校では教えない本当の歴史

追記:
ちなみに「東夷伝」に記述のある、いわゆる「倭国大乱」の期間は、皇紀換算で806年~849年頃のこととされ、三韓征伐(皇紀860年~)の10年ほど前にあたるそうです。これをもって卑弥呼を神功皇后であるとする説もなくはないようですね。
しかし、もちろん、信憑性のない大陸の史書のいうことですから、大まかな時期以外は矛盾の山です。
また、もしも神功皇后が卑弥呼だというのが本当だったとしても、それは、それこそ文字通り、「吉野ケ里は大和朝廷の下でこそ全盛期を迎えた地域だった」ということを、なおさらはっきりさせるだけのことでしょう。
日本古代を考えるさい、支那大陸の似非歴史書に振り回される必要はない、という結論は、やはり不変であると言っていいように思います。
ラベル:日本書紀
posted by 蘇芳 at 02:13| 「日本書紀」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする