2016年02月26日

【動画】近衛上奏文 近衛文麿と左翼の敗戦革命


こちらでも触れた「近衛上奏文」の一部抜粋動画です。



動画概要:
2009/05/29 にアップロード
近衛上奏文(このえじょうそうぶん)とは、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)­2月14日に、近衛文麿が昭和天皇に対して出した上奏文である。近衛は昭和天皇に対し­て、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる「近衛上奏文」を奏上し、英米の­世論は天皇制廃止にまでは至っていないとの情勢判断の下、いわゆる「国体護持」には敗­戦それ自体よりも敗戦の混乱に伴う共産革命を恐れるべきであるとの問題意識を示した。­「大東亜戦争」(太平洋戦争)は日本の革新を目的とする軍の一味の計画によるものであ­ること、一味の目的は共産革命とは断言できないが、共産革命を目的とした官僚や民間有­志がこれを支援していること、「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞であ­ること[、米英撃滅の論が出てきている反面、一部の陸軍将校にはソ連軍や中国共産党と­手を組むことを考えるものもでてきていること、近衛は陸軍内に共産主義者が存在し、敗­戦を利用して共産革命を行おうとしている旨を述べた。

近衛文麿は、その行動を客観的に見るかぎり、こちらでも述べた通り、最初から最後まで、徹頭徹尾、日本を、昭和天皇を裏切りつづけた共産主義売国奴以外の何者でもありません。

にもかかわらず、戦後70年、数々の自称識者によって、近衛を免罪しようとする異常なまでの努力が傾注されつづけてきたことには、驚かざるをえません。
その努力に従事する顔ぶれの中には、あからさまな反日売国奴や、大東亜戦争の植民地解放の陽の側面を強調する偽装保守(アジア主義者?)だけでなく、しばしば、ヴェノナ文書等にもとづきソ連の謀略を鋭く論説する人物まで含まれているのですから、なおさらです。
こちらこちらで紹介した落合道夫氏は別の動画で近衛文麿を「民族の英雄」とまで呼んでいますし、こちらのAmazonレビューが指摘する通り「ハル・ノートを書いた男―日米開戦外交と「雪」作戦 (文春新書)」の著者などはハリー・D・ホワイトの正体に切りこみながらソ連の謀略は否定するという有様。山口富永「告発 コミンテルンの戦争責任 近衛上奏文と皇道派」も近衛の免罪についてはこちらで触れた通りです)。

今回の動画のUP主も、近衛自身の責任を追及しながら、最後の一文で、近衛の「贖罪」などと甘いことを言っているようです。
実際、「近衛上奏文」が読む者に混乱をもたらす文書であることは事実でしょう。
私自身、近衛が徹頭徹尾確信犯的な売国奴だったのか、赤い側近に騙され踊らされた愚か者だったのか、判断に迷っていた時期がありました。
しかし、現在では、おそらく、近衛は確信犯だったのだろうと判断しています。

なぜか?

近衛が本心から改悛し、本気で「転向」して上奏をしたとするのなら、当然、その後の近衛の行動は180度旋回し、日本のため、昭和天皇のため、身命を賭したものにならなければ嘘でしょう。
しかし、実際には、彼は何をしたか?

上奏文の中に、ソ連との提携を呼号する左翼軍人を非難する一文があったことを思いだしてください。口でそう言いながら、しかし、その後、終戦の仲介斡旋をよりにもよってそのソ連に依頼する工作のときにかぎって、近衛が無駄にやる気を見せたことは、いったい何のつもりでしょうか? こちらで確認した通り、外相・東郷茂徳も、駐ソ大使・佐藤尚武も、事前にその無益を悟っており、小野寺信ストックホルム駐在陸軍武官に至ってはヤルタ合意さえ察知していたというのに、です。
身辺を赤い側近で固めていた近衛が、その程度のことにも気づかず、スターリンが和平仲介をしてくれるなどと本気で信じていたとは、人並みの思考能力の持ち合わせさえあれば、誰しも信じることは困難ではないでしょうか。

極めつけは、終戦後、GHQに取り入り、その虎の威を借りて、「新憲法起草を直々に依頼された」と主張、戦後日本「再建」の主導権を握ろうとしたあげく、外国人記者たちの前で昭和天皇の戦争責任だの退位論だのを得々とぶち上げたことは、恥知らず以外の何と形容することが可能でしょうか。
ちなみに、戦時中の近衛の日記によると、当時、東條英機を退陣させて近衛を再び総理に、という動きがあったとき、近衛はそれを固辞していますが、その理由たるや「経済政策に疎いから」というものでした。河上肇に師事してマルクス主義(似非経済学)を学んだ人物にしては不自然な理由ですし、そもそも、本気で経済オンチを自認していたというのなら、戦後の疲弊した日本を再建せねばならない重要局面にのこのこしゃしゃりでてきて何ができるというつもりだったのでしょうか?

近衛は「上奏文」のなかでも、自分の責任にはほっかむりしていますが、その卑怯未練の狡猾さは戦後も何ら変わっていません。
そう思うと、気になるのは、この上奏をお聞きになったさいの、昭和天皇の思召しです。
昭和天皇の明晰さには定評があります。近衛に関しても、政権を何度も投げ出した「弱さ」に不満をお持ちだったことや、大政翼賛会成立を得々と上奏した近衛に対して、「それでは昔の幕府が復活するようなものではないか。そんなものを作って上手くいくのか」とご指摘になり、近衛を顔色なからしめられたことが知られています。
何もかも周りが悪いと忠臣面で責任逃れをする「近衛上奏文」をお聞きになって、なお、昭和天皇は、その後も近衛をご信任あそばされつづけたのでしょうか? (実際、その後の対ソ交渉を近衛にお任せになり「(あの近衛も)今度ばかりは本気のようだ」とご満足されたと伝えられています) 
こちらで述べた通り、近衛上奏にかぎって、慣例を破り、藤田侍従長の立ち合いなしに行われたため、密室の中で、近衛とその「相棒」が何をどのように申し上げたのか、木戸のメモを介してしか知ることができないのは、残念なことです。
しかし、近衛たちがこの「密室」を求めたということ自体、彼らの胡散臭さの状況証拠ではありうるかもしれません。
陛下を欺きたてまつり、ご信任を得るための猿芝居が、そこで行われたのだ、と考えるのは、無理な想像でしょうか?

なお、「近衛文麿は憲政史上もっとも凶悪な内閣総理大臣」と題したAmazonレビューには、以下の内容が投稿されているようです。
 近衛上奏文および近衛文麿に対する中川教授の評価が正しいことは、以下の大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌(軍事史学会編/錦正社、1998年)昭和20年6月25日の条によって証明される。

大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌昭和二十年
六月二十五日 月曜
沖縄終戦ニ関スル大本営発表アリ。襟ヲ正シテ自省自奮アルノミ、
右ニ伴フ明日行フヘキ総理談又ハ告諭ニ付内閣ニ於テ討議ノ結果告諭トシテ発表スルコトヽナレリ。
午後五時発小田原山荘ニ近衛公ヲ訪ル(種村)、途中国府津ニテ岡村憲兵ト奇遇スルアリ秘密行ス。政談ヲ一切抜キニシテ専ラ軍事情勢ニツキ公ニ本土決戦必勝ノ信念ヲ与フル如ク力説スルコト三時間公ヲシテ電燈ヲトリテ門前ニ予ヲ送ラシムルニ至ル。
惓モ死児ノ齢ヲ数フルカ如シト前提シテ公三国同盟ノ締結及独「ソ」開戦当時、大東亜戦争前等ヲ思ヒ感慨深ク語ル
食料問題ハ大政治問題化スヘシトテ陸戦隊化シタル海軍ノ整備ヲ論ス。
再会ヲ約シテ去ル、一重臣ヲシテ戦意ニ燃エシメタリトセハ千万人ト雖モ我往カン。
午後十一時三十分徒歩三十分ニシテ湯本吉池旅館ニ永井少将ヲ訪レ同宿御見舞ス。
箱根街道ハ三百年前ノ昔ノ如ク深夜人ナシ。感激深シ。
公曰ク「此ノ次ハ陸軍ノ時代ナリ宜シク御奮闘ヲ祈ル」ト

 近衛文麿と密会した種村佐孝陸軍大佐こそ参謀本部戦争指導班長の松谷誠陸軍大佐とともに一億玉砕を提唱し、東アジア全域をソ連に提供して日ソ支(中国共産党)三国共産同盟の実現を画策した「マルクス主義にかぶれた陸士・陸大卒の赤い軍人たち」の中心的人物であった。近衛はその種村大佐に「此ノ次ハ陸軍ノ時代ナリ宜シク御奮闘ヲ祈ル」と激励し、彼らが主張する本土決戦を煽動していたのである。
近衛上奏は、昭和20年­2月14日、
近衛・種村の密会は、昭和20年6月25日、
付け加えると、上で述べた、近衛が異例の「やる気」を見せた虚妄の対ソ工作が本格化していたのも、同年の5月6月のころでした。
種村佐孝はwiki情報で恐縮ですが、
戦争末期、対米降伏・和平交渉はアメリカの偽装であり、対米戦争の継続のためソ連同盟論を主張、対ソ終戦工作に従事する。
戦後にシベリア抑留に遭い、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」にて、共産主義革命のための特殊工作員として朝枝繁春、志位正二、瀬島龍三らとともに訓練を受ける。
と記述されています。
「対ソ終戦工作」こそ「対米戦争の継続のため」だという、これが事実だとすれば、要するに、共産主義売国奴としての近衛の行動は、上奏以後も何らの変化も見せておらず、「近衛上奏文」はただひたすら陛下の御目を欺き奉るために書かれた卑劣な「偽装転向」の文書にすぎない、ということになるのではないでしょうか。
大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌
近衛文麿の戦争責任
戦争と共産主義 (呉PASS復刻選書12)
歴史の書き換えが始まった!―コミンテルンと昭和史の真相 (日本の息吹ブックレット)
posted by 蘇芳 at 00:48|  L 大東亜戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする