2016年02月24日

天下布武


天下人・信長を生んだ織田家のルーツについては三つの説があり、結論は出ていないと仄聞します。
・藤原氏説
・平氏説
・忌部氏説
乱世のことですから、どこぞの馬の骨が成りあがって、権威づけのために名家名門の名を騙ったということも十分にありうるでしょう。

ただ、人間の行動を左右する要因は、その人物が「何者であるか」という客観的事実よりも、その人物が自分を「何者であると思っているか」、また周囲から「何者であると思われているか」という主観的事実・観念的環境のほうである、ということも、言えるように思います。

名家名門を名乗るということは、名家名門に相応しい行動を引き受ける、ということと裏腹です。
そして、日本における名家名門とは、そもそも何でしょうか?
日本が天壌無窮の神勅というコモン・ローによって立つ国である以上、あらゆる権威の源泉は常に天皇・皇室・神道であり、名家名門も例外ではありません。

上の織田家の始祖の三説についてもそうです。
藤原氏の始祖は天児屋根命。侍殿防護の神勅・神籬磐境の神勅を授かった、天皇にお仕えして神々を祀る氏族です。
平氏の始祖はズバリ天皇。元をただせば臣籍降下した皇族です。
忌部氏の始祖は天太玉命。天児屋根命と共に同じ神勅を授かった、もう一つの神祇氏族です。

日本において名家名門を名乗り、その名に恥じない働きをするということは、結局のところ、尊皇・敬神の士としてふるまうことを、意味せざるをえないように思えます。
となれば、織田家のルーツが三説のいずれであったとしても、信長の自己規定もまた、最終的には、尊皇敬神という同じ一つの結論に行き着かざるをえないのではないでしょうか。

織田信長といえば、比叡山延暦寺、石山本願寺、高野山、一向一揆など、仏教勢力としばしば抗争したことはよく知られています。
それに加えて、反日メディアの製作した映画やドラマなどでは、キリスト教との関係が、異常に歪曲・美化されて描かれることもあるようです。
しかし、信長と神道とのかかわりとなると、注目される機会が極端に減ってしまうのは、いささか不当であるように思います。

桶狭間の戦いの前に熱田神宮を参拝した、というエピソードは比較的有名ですが、その他にも神社参拝、寄進の挿話はいくつもあります。
熱田神宮には信長が寄進したという信長塀が現存しますし、伊勢神宮にも参宮しています。上賀茂・下鴨神社の祭礼には神事の競馬に愛馬を出場させていますし、石清水八幡宮も修築しています。
何より重要な挿話は伊勢神宮への多大の寄進でしょう。
伊勢神宮の式年遷宮は、戦国乱世のため、長年実施することができないままでした。
慶光院の尼僧たちが諸国を勧進して寄進を集め、遷宮を再興した、という話は、観光ガイドにも載っていることがありますが、勧進だの寄進だのといっても、一般庶民に托鉢して回った……というわけではなく、有力者に援助を乞うて回ったのです。
もちろん、飛ぶ鳥を落とす勢いの天下人・信長の元へも、寄進の依頼はありました。
そして信長は、千貫というその要請に、「それではとても足りないだろう」と、三倍の額(三千貫)をポンと気前よく出しています。
それだけではありません。
その後も必要に応じて寄進すると決めて、平井久右衛門・上部貞永を担当官に任命。
さらには森長定(蘭丸)を嫡男・信忠のもとへ派遣し、岐阜城に蓄えてあった一万六千貫を、神宮から申し出があれば渡してやれと申しつけています。
以上、ソースは「信長公記」ですが……ちなみに「現代語訳 信長公記 (新人物文庫)」の訳注には「千貫≒一億~一億五千万円」とあります。
天下人・信長がこうして範を示せば、他の大名小名も、我先に後に続いたであろうことも、想像に難くありません。

こういうエピソードも押さえておかなければ、「天下統一」の意味も、不透明になってしまうのではないでしょうか。
信長の行動原理は何だったのか、推測する材料は、多いに越したことはないはずです。、

そもそも「天下」を取る、というのは、単に私利私欲に基づくだけの行動なのでしょうか?
反日メディアの製作する映画やドラマは視聴者にそう思いこませたい下衆な下心が透けて見えるようにも思いますが……
では、そもそも天下を取るとはどういうことを言うのでしょう。何を以てすれば、天下を取ったことになるのでしょうか?

「信長公記」を紐解いて信長の行動を追ってみると、朝廷や幕府に対して、基本的には従順です。
(太田牛一の作為もあるかもしれませんが、「解釈」はともあれ、記録された「事実」については、信憑性の高い史料として定評があるのですから、無下にすることはないでしょう)

信長の最初の上洛は皇紀2228(永禄十一)年、将軍義昭を奉じてのことでした。
元をただせば皇紀2225年(永禄八)年、三好三人衆と松永久秀が十三代将軍足利義輝を謀殺(永禄の変)したのが事の起こりでした。三好たちは傀儡の十四代将軍を立てますが、一度も京に入ったことがない、という名ばかりのお飾り。
これに対して、義輝の次男義昭が、諸国の大名を頼って上洛を果たそうとするも、口約束ばかりで相手にされず、最後に頼ったのが信長。
そして信長は、見事新将軍を奉じて畿内を平定、以後は臣下の礼を取ることになります。
つまるところ、下剋上を起こした謀反人どもを、足利将軍のために討伐する立場に立ったのが信長で、信長自身は下剋上どころか、既存の権威権力を守る側です。

その十五代将軍足利義昭は、やがては信長に敵意を抱くようになり、結局、室町幕府は信長の手によって滅ぼされることになりますが……
「信長公記」において、太田牛一は、義昭が信長を敵視するようになったことに、なかなか面白い理由付けをしています。
もちろん、信長の家臣だった太田牛一のいうことですから、話半分に聞いておくべきかもしれません(信長の冠位は、義昭のそれを上回るようになっていました。義昭が面白くないのはむしろ当然だったでしょうから)。
太田牛一によると、義昭が信長に敵対したのは、信長が義昭の不行跡を諫めたためだと言うのですが……信長が指摘したというその不行跡の数々のなかに、朝廷への不敬行為とも思われるものがいくつか見られるようです。
いわく、参内の回数が少なく、怠っていること。
いわく、信長が進言し宮中から催促した改元のための費用を出し惜しみ、献上していないこと。
いわく、公卿の懲戒につき、不都合なやりようをしたこと。
他にも、家臣・幕臣に対する不当な措置など、太田牛一が挙げている事例は多々ありますが、そのすべてが太田の創作ということもないでしょう。信長があれこれと義昭に注文をつけたことは事実だったのではないでしょうか。
その注文のなかに「皇室を敬え」という姿勢がほの見えることは、押さえておいてもいいように思うのです。

天照大神が皇室の祖先神である以上、敬神の士は、同時に、尊皇の士でもなければ理屈に合わないことになりますが、先にあげた神社参拝・寄進のほか、朝廷への貢献の業績も、信長はいくつも残しています。
内裏の修築、二条邸の建築と献上(東宮御所になります)、公家領についての徳政令、宮中の節会の復活、などなどです。
また、信長は石山本願寺など仏教勢力と何度も戦いましたが、何度も和睦もしています。その和睦が、単なる戦局の都合や信長の一存ではなく、しばしば、正親町天皇の勅命によっていたことは、見落とすべきではないでしょう。
信長は勅命に従っていたのです。
そもそも、足利幕府なきあと、信長は参議、権大納言、右近衛大将、右大臣などなどを歴任、冠位も正二位に至るなど、基本的には、天皇・朝廷の臣下として行動しています。

もちろん、晩年の信長の行動には、唐突な右大臣・右近衛大将辞職や、左大臣への推任に対して皇太子への譲位を条件とする返答をしたこと、三職推任問題など、不可解な点もあります。(つけくわえると、嫡男信忠は天正十年、甲斐武田を亡ぼすさい、諏訪大社を焼き払ったりもしています)。
信長は、畢竟、自己の権力を確立するために朝廷を利用しただけであって、本心からの尊皇家ではなかったのだ、と、勘繰ることは可能でしょう。
しかし、同時に、朝廷を利用しなければ権力を確立することができない、という、日本独自の国体のあり方が信長においても不変である、と見ることもできるはずです。

藤原氏だろうと、平家だろうと、源氏だろうと、足利だろうと、天皇・朝廷なくして、その権力はありえませんでした。
秀吉もまた太閤・関白として朝廷に出仕することで天下に号令し、家康もまた征夷大将軍として朝廷に仕えることで徳川300年の繁栄を築いたのです。
信長においても、それは例外ではなかった、というだけのこととも言えるのではないでしょうか。

したがって、天皇・朝廷・神道を無視して、いたずらに信長のイメージを悪魔的に肥大させようとする、低俗反日メディアの傾向には、注意すべきであるように思えるのです。
むしろ、私たちは、それほどに絶対的な天皇・皇室の権威・御稜威を、ただ賛嘆し、敬仰すべきなのではないでしょうか。

最後に。
尾張の大名、織田信長が、熱田神宮に参拝し、寄進もしていることはすでに述べた通りですが、熱田神宮の御祭神・ご神体が、何よりもまず、草薙之剣(天叢雲剣)であることは、よくできた符号であると感じられます。
草薙之剣。それは当然、日本武尊の東征の記憶を喚起するべきものです。
私利私欲のためではなく、ただただ天皇のため、天下万民のため、生涯を戦い抜いた古代の英雄・日本武尊……
(ちなみに、こちらで述べた通り、長年、「古事記」よりも権威ある正史として尊ばれたのは「日本書紀」でしたが……「日本書紀」における日本武尊の物語は、家庭悲劇的な情感の漂う「古事記」のそれとは違って、ストレートな英雄譚であり、父・景行天皇との関係もすこぶる良好です)
日本武尊が剣を忘れた迂闊さのために胆吹山の神によって道半ばにして薨去されたように、信長もまた京都を手薄にした虚を家臣の謀反につかれるという「迂闊」によって、道半ばで生涯を閉じた……とまで言ってしまうと、牽強付会がすぎるかもしれませんが。
あるいは「天下布武」とは、日本武尊の事跡を意識したスローガン、天皇のための天下統一を掲げた宣言ではなかったか、と想像してみるのも、一興ではないでしょうか? 
それが本心からのものであったにせよ、自己の正統性を主張するプロパガンダにすぎなかったにせよ、単語を暗記するだけの戦後教科書的な捏造左翼史観にとどまるよりは、生産的であるように思います。
現代語訳 信長公記 (新人物文庫)
歴代天皇で読む 日本の正史
伊勢神宮―常若の聖地
ラベル:戦国 織豊
posted by 蘇芳 at 03:17| 戦国~織豊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする