2016年02月17日

【映画】「禅 ZEN」

   

こちらで書いた通り、初期の仏教は、敵勢力による間接侵略の道具のようなものでした。
しかし、一度入ってきてしまった以上、今さら完全に駆除しつくすこともできません。
外交的には利用価値もあったでしょう。
仏教と折り合いをつけ、飼いならしていくために、以後、日本人は多大な労力を払っていくことになるようです。

こちらで書いた通り、仏教の「原理」というのは現世否定的な契機を含んでいると思いますが、社会と折り合いをつけていくためには、この「原理」こそが難問でしょう。
日本で広く普及した仏教の宗派は、それぞれの方法で、この難問を解決しようとし、その結果、また別の問題に逢着し、それに対する批判が、また新たな宗派を要請し……ということをくりかえしてきたのではないでしょうか。

玄昉や道鏡の跳梁を生んだ奈良時代が終わると、桓武天皇の御代には平安遷都が行われましたが、平安京の鬼門を封じる寺といえば比叡山延暦寺です。寺の縁起には神道の神々も登場しますし、宗派としてもいわゆる密教=現世利益を謳っています。これなら多少は俗世間と折り合いがつけられそうなものですが……それは当然、仏教の「原理」から逸脱する危険をも孕んでいます。後に白河法皇がお嘆きになった「山法師」を生み、叡山といえば求道の庭というよりは世俗的な政治勢力・武装勢力の代名詞と化してしまった時期が長かったのは、周知の通りでしょう。

では、究極の「他力本願」とも言うべき、念仏宗はどうでしょうか? 大乗仏教の極北というか、念仏さえ唱えればオールOKという世俗化・大衆化の極みです。こちらで書いたような意味で「社会」と折り合いをつける上で、その手軽さ・安直化はかなりの成果をあげたでしょう。実際、一向宗などは一般庶民をまきこむ大流行を生みます。
しかし(門徒物知らずとはよく言ったものですが)それはやはり、カルト的な思考停止に結びつきやすく、愚民化した信徒を食い物にする売僧の跳梁を呼びやすいという面もあったのではないでしょうか。
しかも浄土思想の「原理」自体は、極楽往生という現世否定の権化でもありますので、この「原理」が、カルト的思考停止とアジテーションに結びつくとき、死を恐れないテロ集団が成立してもおかしくはありません。一向一揆というのは、信長あたりにとってはISILのような存在に見えたのかもしれません。

すべての宗派について詳しく知っているわけではありませんので、知ったかぶりもホドホドにしますが……

それでは最後に、鈴木大拙らの啓蒙もあって、世界的にイメージが流布された禅宗はどうでしょうか?
禅の伝来自体はかなり古く、奈良時代の飛鳥寺にはすでに禅房があったことが「続日本紀」に見えています。
しかし、禅が、「宗派」として存在感を増すのは、やはり、道元以降、鎌倉時代のことでしょうか。

道元といえば、何年か前にたまたま「禅 ZEN [DVD]」という映画を見たことがあります。
その映画の冒頭、幼い日の道元と母との会話に、「この世が浄土にならなければ意味がない」というやりとりが登場します。
六道輪廻の苦界からの解脱という仏教の原理が現世否定的なものに思える私にとって、これはなかなか面白い問題提起であり、興味を惹かれる導入でした。
仏教が、仏教としての「原理」を失わないまま、現世を肯定することは、できるのでしょうか? できるとすれば、いかにして?

映画はあくまで映画ですが……製作にあたっては「道元禅師の映画を作る会」なる有志団体がかかわっているほか、永平寺なども積極的に協力しているようですので、ある程度は曹洞宗の宣伝映画のような性格も持っているのかもしれません。わりと真面目な映画ではあります。禅仏教のイメージくらいはつかめるかもしれません。

ということで、今回は少しその映画の感想など書いてみます。
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偉人の偉大さを描くためには、通常、その業績を描けばいいわけですが……
その「偉人」というのが、宗教上の偉人であった場合、どのような業績に注目すれば、その偉大さが理解できるのでしょうか。
そもそも、宗教家の「業績」とは何なのでしょうか?
政治家や軍人や事業家や慈善家や思想家や芸術家等々の業績と区別して、宗教家固有の業績、といえるものは何があるのでしょう?

俗世間の偉人・英雄ならその「業績」というものがハッキリしています。
政治家なら善政を敷いた、国を栄えさせた、
軍人なら戦争に勝った、国を守った、
思想家、哲学者ならその思想・哲学と、その実践や著述活動があるでしょう。
慈善家なら、事業家なら、革命家なら、芸術家なら~
という具合です。

宗教家にもいろいろな業績をあげた人はいます。
しかし、そういうわかりやすい「業績」の多くはあくまで地上的なものにすぎません。
宗教家が土地の人々に慕われていろいろなアドバイスを求められた――それはコンサルタントやカウンセラーの業績とどこが違うのでしょう?
宗教家が生活困窮者の救済に尽力した――それは慈善家・篤志家の業績とどこが違うのでしょう?
宗教家が神仏の教えを著述して広めた――それは哲学者・思想家の業績とどこが違うのでしょう?

宗教家はそれらのすべてを兼ねることもできるでしょう。
しかし、では宗教家とは、それら地上的活動家の総体にしかすぎないものなのでしょうか?
偉大な慈善家や偉大な思想家や偉大な統治者や偉大な教育者と、偉大な宗教家の区別は、どこでつければいいのでしょう? 
他の何者にも置換できない宗教家の宗教家たる由縁は何なのでしょう?

道元禅師にもいろいろな地上的「業績」はあるのでしょう。
が、この映画はそれら業績については、あまり描いていません。
この映画の道元は、どちらかといえば、地上的には無力にさえ見えます。

腕っぷしが強いわけでもなく、狼藉者から自力で身を守ることもできません。
医学の心得があるわけでもなく、病気の赤子を救ってやることもできません。
裕福でもないので、貧者に施しをしてやれるわけでもありません。
学問・知識を重視しないので、教理問答を挑まれても、応じること自体に意味を見出していないようです。「正法眼蔵」を執筆するシーンなどもなくはありませんが、それがどういった反響を呼んだなどということが描かれるわけでもありません。
現実的な意味での「業績」などというものは何も描かれていないのですね。

この映画で道元が言っていることといえば、
「仏性は万人の中にある。ただ気づいていないだけ。心の曇りを払ってそれに気づけば万事OK。瞑想せよ。すべてはありのままで良い」
というだけで、内容自体はスピリチュアル系のブログ本と大差ありません。
もっとも、そのこと自体、驚くべきことかもしれません。
それはつまり、この映画の道元が、教条的な意味での仏教の「原理」から、それだけ大きく逸脱していることを意味し、しかもその映画に永平寺が全面協力しているというのですから……
そもそも、人間が本来神聖な存在であり、曇りを「祓い」「清め」れば、内なる聖性を再発見できる、というのは、こちらで見た神道の「祓え」のシステムによく似ています。
ここではない浄土を目指すのではなく、この世を浄土にする、という導入部のやりとりとあわせて、現世と現世の生命に対して肯定的な思想が、垣間見えるのではないでしょうか。
そういえば、教理問答≒学問仏教を重視しない姿勢も、「さかしら」を嫌う神道に似ていなくもありません。

もちろん、神道への接近は、仏教からの逸脱でもあり、既成仏教の反発を招くでしょう。

この映画が上のように描きだす道元に出会ったとき、当然ながら、感化される人間もいれば、まったく感化されない人間もいます。
この映画が単なる禅宗のプロパガンダ映画ではなく、本質的な意味で「宗教映画」たりえているとすれば、それは、道元自身よりむしろ、この感化される/感化されない相手の存在にこそ起因しているようにも、私には思えました。

比叡山の僧兵(上で述べた山法師≒時の権力が手を焼き続けた政治的武装勢力の最たるもの)たちは、道元に問答を挑みますが、道元には彼らを言い負かすに足るだけの御大層な教理・教義の持ち合わせはありません。僧兵たちが道元を斬ろうとしたとき、道元は斬りたくば斬れというだけです。道元が斬られなかったのは単に助けが現れたからであって、陳腐な漫画的な「無抵抗主義の勝利」でも何でもありません。後には僧兵たちは道元の寺を焼き払ったりもするくらいで、まったく感化などされていません。

しかし、時の執権・北条時頼は、わけのわからぬ文字通りの禅問答にはやはり説得されなかったものの、斬りたくば斬れという道元の前には、その太刀を投げ捨てます。

両者に対するとき、道元の態度自体には、さしたる違いがありません。
斬りたくば斬れ、ただそれだけです。
にもかかわらず、結果はまったく違いました。
その違いは何に由来するのでしょう?
道元? ではないでしょう。
道元のやることはいつも同じ。意味不明の戯言で煙に巻いた後、相手が刀を抜くと、斬りたくば斬れと身を投げ出すのみです。

違ったのは相手のほうです。
粗暴な僧兵と、繊細な青年。
馬の耳に念仏、猫に小判、人を見て法を説けと言いますが、所詮、相手次第。道元の感化を受けるだけの資質が、僧兵の中にはなく、時頼の中にはあった、としか言いようがありません。
もしもその資質を仏性というのなら、この場合、道元が偉いというよりも、仏性を蔵してそれを発揮した時頼こそ偉かったというべきかもしれません。
しかし、その時頼も道元との出会いがなければその資質に気づくことはなかったでしょう。
とすれば、やはり偉大なのは道元か。
道元が時頼を変えたのか、時頼が自ら変わったのか……
これはまさに禅の公案そのままです。

手を打ち合わせれば音が鳴る、鳴ったのは右の掌か、左の掌か。

偉大な人、という言葉には、一方的に何かをしてくれる人、というニュアンスを感じます。
が、この映画の道元に、そういう一方通行のサービス性は感じられません。
道元は偉大な業績によって一方的に人を救うヒーローではなく、頓智やペテンめいた言動によってかえってある人がその人自身を救うきっかけを作る、トリックスターなのかもしれません。
この映画における道元の教えが「仏性は万人の中にある。ただ気づいていないだけ。心の曇りを払ってそれに気づけば万事OK。瞑想せよ。すべてはありのままで良い」という現代のスピリチュアル系・電波系のようなものだと言いましたが、畢竟、瞑想するのは本人であって、道元が代わりに瞑想してあげられるわけではないのです。
つまるところ、道元と時頼は「他者」なのですから。

おや?

コミュニケーションを可能とする「他者」性の尊重といえば、やはり神道について、こちらで考えてみたことのあるモチーフです。
しかし同時に、一方的に教えを説くのではなく、「気づき」を促す、「気づく」ための方法をすすめる、というこの映画における道元の方法が、相手にある程度の「自力」を要請するとすれば、それはむしろ「小乗仏教」に近いものであるようにも思えなくはありません。
どうも、仏教の原理を保持したまま、神道的な現世肯定に接近するというアクロバットが、おぼろげに、見えてきそうな予感を感じさせる、これはそんな展開ではないでしょうか。

それだけではありません。
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり
道元がこの有名な歌を詠んだとき、時頼は「あたりまえではないか」と一蹴し、道元は「いかにも、あたりまえ」と莞爾として笑います。
この映画の道元がこの現世の「あたりまえ」を否定しているようには、私には見えませんでした。
とすれば、それは、こちらで述べた神道のトートロジー、
大切なものは大切だから大切にするのだ
にさえ、接近するのではないでしょうか。

ここで、冒頭の「偉大」さという設問に戻るとすれば、この映画の中で描かれていないだけで、道元にもいろいろな「業績」はあるのでしょう。しかしそれら個々の業績とはつまるところ、著述家としての業績であったり、慈善家としての業績であったり、経営者としての業績であって……宗教家の聖性や霊性といったものは、そうした「業績」ではかれるような「偉大さ」とはどこか別のところにある。むしろ「偉大」という尺度自体が聖性や霊性をはかるには不適当なのではないか。
この映画を見ていると、そんな気分になってきます。
もっとも強くそれを感じ、情緒さえ揺さぶられたのは、個人的には、終盤近くの「雨が降ってるから」という少女の一言でした。
未見の方には意味が分からないと思いますが、視聴済みの方の中にはあるいは同意してくださる方もいるのではないかと期待します。

あの頑是ない少女の言葉を「偉大」であるというのはそもそも適当ではないでしょう。
「偉大」という言葉にはどこか「強さ」のニュアンスがあります(一神教の神が暴「力」による征服・虐殺を大好物とするように)。
が、あの一言を口にした少女は、どこまでいってもか弱い子供です。複雑怪奇な教理教義を理知的に理解して発した言葉でもなかったでしょう。
しかし、それでは、腕っぷしの強い無法者や、教理問答が得意なお利口なインテリが、彼女より偉いのかといえばそれは必ずしもそうではない。
そう感じさせるだけの、「強さ」や「頭の良さ」やそれに類する尺度とは違った値打ちが、あの一言にはあります。
あえて言うなら、あの一言は「偉大」というよりも「尊い」のではないでしょうか。

それがユダヤ・キリスト教の妄想するような全知全能の「偉大」な神ならば、卑小な人間が小賢しく守ってやる必要などないでしょう。
しかし、無力でか弱い「尊い」ものは、力を持つ誰かが守ってやらなければなりません。

この世にある、あたりまえの、ありふれた、はかない、か弱い、尊いもの……

もしも、そのような「尊さ」が現世においてありうるのだとすれば、そんな現世を、「穢土」として厭離したり、解脱したりする必要が……あるでしょうか?
もしこの現世にあるすべての生命が、六道輪廻だの苦界だの解脱だのと無関係に、存在の本質から尊いのだとすれば……
その「尊さ」の発見は、映画の導入部で予告されていた「この世における浄土」を予感させるに足るものなのではないでしょうか。

私たちの先人が、仏教という外来の悪性ウイルスのような思想をさえ、最終的には日本化し無害化することに成功したとすれば、それを可能にした日本人の宗教性の根ざすところは、こうした「尊さ」への感受性にあるのではないか、と……
どうも、これ以上うまく言語化する自信がなくて恐縮ですが、抹香臭い外来の仏教、蘇我氏の昔からその行状を歴史的に見ていると嫌悪感しか感じられなくなりそうな仏教、その仏教の徒・道元に、不思議なほど日本的な「こころ」を感じさせられてしまう、これはそんな映画だったのです。

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ラベル:仏教
posted by 蘇芳 at 03:25| 仏教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする