のど元をすぎたのか最近はあまり話題にならなくなりましたが、少し前には日本でも例のISILがいろいろと話題になっていました。
こういう場合、判で押したように一般のイスラム教徒は善良だの、イスラム教自体は平和的だのという主張も聞かれますが……
イスラムに限らず、一神教のいわゆる「原理主義」が、なぜああも愚劣で凶暴で邪悪なのかを、彼ら自身が説明し、自浄作用を示さないかぎり、不信の目で見られ続けることも、現実問題として、やむをえないところでもあるのではないでしょうか。
「我々は彼らと違う」というのなら、そう言い張るだけでなく、その違いを説明し、証明すべきでしょう。
こちらのシリーズをはじめ、宗教について語るさいは、「世俗化・大衆化をわきにおいてその「原理」においては~」という言い方を、してきました。
キリスト教にせよイスラム教にせよ、仏教にせよ、国境を越えて伝播された創唱宗教が、固有の信仰を持った先住民の抵抗を排して受け入れられていくためには、単に力による強制≒侵略によるのみならず、先住民の信仰と折り合いをつけて自ら変化していかざるをえなかったであろうことは、推測できます。
しかし、そのような順応の努力が必要である、ということ自体が、それら創唱宗教が、そのままでは人々に受け入れられない性質・原理を持っている、ということを、問わず語りに明らかにしているとも言えはしないでしょうか。
もともと、それら創唱宗教は、既存の信仰では飽き足りない人々によって、既存宗教(キリスト教ならユダヤ教やギリシア・ローマ神話、イスラム教ならキリスト教、仏教ならヒンズー教、ユダヤ教なら……他の一切のあらゆる神々)への批判・否定として出発したのでしょうから、それら既存宗教によって立つ「社会」に対して否定的、反(既存)社会的であるのは、むしろ当然でしょう。
つまるところ、それらは古代における「革命思想」だったのですから(共産主義がユダヤ・キリスト教の鬼子のようなものであることは、つとに指摘されることですが、むべなるかなというべきでしょう)。
イスラムに限らず創唱宗教のいわゆる「原理主義」がなぜ反社会的になるのか、といえば、結局のところ、それらが元々反社会的な「原理」を孕んでいるからではないか。
水で薄めて中和させて世俗化させて、ようやく社会と折り合いをつけているだけで、そもそもそういう中和化を必要とするということ自体が、それら「宗教」の問題点ではないか、とも、思えるのです。
(とすれば、冒頭で述べた自称平和的ムスリムは、危険な原理を薄めるための「水」を保持していることをこそ、証明すべきであるように思います。わかりやすいところで言えば、トルコにおけるアタチュルクの世俗主義のような。……もっともトルコのそれさえもエルドアン政権によって廃絶の危機に瀕しているとも聞きますが)
一神教よりはましとはいえ、これは実は、「原理的」には、仏教でも同じではないでしょうか。
「日本書紀」や「続日本紀」が、親外国勢力・仏教勢力の侵略に対する、尊皇・敬神の志士の戦いの記録とも思えることは、こちらやこちらで考察しましたが、南都仏教とのとりあえずの決別を果たした平安遷都以後も、桓武天皇は仏教に対して、「国法を守れ」という厳しいお叱りの勅語をくりかえしくりかえし渙発されています。神道に対しても、一度や二度はお叱りがなかったわけではありませんが、その頻度は比較にもなりません。
御歴代の天皇によって導入され、唐や渤海との交渉においても必要な共通言語だったであろう仏教を、いまさら禁教するわけにもいかなかったでしょうが、その後も朝廷が、仏教勢力の浅ましい政治的欲望に手を焼き続けたことは、忘れるべきではないでしょう。
意のままにならぬものは、鴨川の水と双六の目と山法師、とは、有名な白河法皇のお言葉です。(ソースが平家物語なのはご愛敬ですが、それがそれだけ広く自然に受け入れられたということには、相応の意味があるようにも思います)
神仏習合もけっこうですが、その前に、「神」「仏」の違いを理解しておくことも大事だと思います。
最初から何の差異もないまったく同じものだというのなら、わざわざ「習合」などと言う必要もないのですから。
「習合」しなければならないという時点で、それらは根本的かつ「原理的」に、異質なのです。
こちらやこちらで述べたように、死後の「救済」を志向する仏教は、やはり、その「原理」においては、現世否定的でありつまるところ反社会的です。
それは、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教と同じく、“ここではないどこか”を目的とする思想=来世信仰を本質的に内在させています。
仏教の原理は、現世を「苦界」と見ます。
その「苦」は死んでも終わりません。
死者はまた生まれ変わり永遠に「苦界」にとらわれ続けます。
これを「六道輪廻」と言います。
釈迦が説いた「解脱」とは、この「六道輪廻」からの脱出・エクソダスであり、二度と現世に生まれ変わらなくてすむ「浄土」に到達するための方法論が、本来の仏教=小乗仏教であり、その手法を「自力本願」と言います。
「小乗」とは「小さい乗り物」のことで、この方法を実践して救われるのは、実践した本人一人だけです。
しかもその「救い」とは、厭離穢土・欣求浄土、この世を憎み離れてただ一心に浄土=あの世を望む、ということを意味します。
現世(≒善良な一般市民が一生懸命生きている社会・世界)を全否定して、自分だけが救われればそれでいい、などという思想が蔓延し、誰もがそんなことを始めれば、社会は崩壊するに決まっています。
しかもこの思想にかぶれて修行している人間は、ただ自分一人が救われればいいというだけで、社会に何ら貢献しないことになりますから、社会的な尊敬を要求するほうが間違っているでしょう。
これでは仏教が広く普及するわけがありません。
そこで登場したのが大乗仏教。
「大乗」とは「大きな乗り物」のことです。
そもそも仏陀は自分一人が救われればいいと思ったわけではなくて、万人が等しく救われる方法を見つけたい、という「衆生済度」の「本願」を立てていたわけですから、そうそう一般庶民をみすてるわけがないではないか、と、安直化・世俗化したのがこれであり……「自力本願」によって解脱した一人が、ついでに他の一般庶民も救ってくれるのだ、という、「他力本願」の信仰です。
こうなると仏教僧も「自分一人」ではなく「衆生」のために修行をしている偉い人ということになるわけで、素朴な尊敬や崇拝を得られやすくもなるでしょうし、一般の帰依者も細かいことはお釈迦様におんぶにだっこでありがたやと拝んでいればすみますから、社会生活の妨げにもなりません。
要するに、人間が実際に生きて社会を営んでいる現世を否定して捨てろ捨てろとアジビラを蒔く、反社会的新興カルト宗教のようなものが、普及のためにいろいろと俗世間と妥協して折り合いをつけていった≒大衆化・世俗化した、という経緯が、そこにはあったのではなかったでしょうか。
しかし、大衆化・世俗化は、当然、「原理」からの逸脱と紙一重です。
なまじ真面目で純粋な宗教者が、そんな安直なことではいかん、本来の「原理」に戻れ、と、言いだすことは、必然的ななりゆきでしょう。
しかし、そうして戻ってゆくべき「原理」とは、縷々述べてきたように、現世否定的・反社会的な「救済」思想なのですから……結局、同じ問題の蒸し返しにしかなりえません。
ヒンドゥーの神々さえも救済の対象とする仏教ならまだしも、他のあらゆる神々とその信者を殺し尽くせと呼号する凶暴なユダヤ系の一神教の場合、この蒸し返しが現世にどれほどの害悪をもたらしたとしても、不思議ではないでしょう。
こちらでもこちらでもこちらでも述べましたが、ユダヤ系の一神教の「原理」は、平和的でもなければ、謙虚でもなければ、合理的でさえありません。「不合理ゆえにわれ信ず」
旧約聖書においてはこの世というのはそもそも原罪を犯した罪人が楽園を追放されて追いやられた流刑地のようなものです。
あらゆる人間は罪人であり徒刑囚であり、唯々諾々と奴隷のように屈従しつづけるための世界が一神教的な意味での現世です。
やがて何千年か後、あらゆる人間が死に絶えたあとに、あらためてGODによるテストが行われ、合格した人間だけが神の国=楽園に入れる、釈放されるという寸法で。。。
一神教の「原理」からすれば、価値があるのはあくまで来世の楽園のみであって、流刑地でしかない現世には本質的な価値はないことになります。
(ちなみに、彼らが科学技術を極度に発達させたのは、逆説的ですが、彼らが現世の価値を認めず、敬意を持たないため、勝手放題に利用することに抵抗がないからだと見ることもできるかもしれません)
もちろん、現世を否定しているだけでは現世で生きていけませんから、成功した一神教(この場合はキリスト教)は、仏教同様に、何らかの形で妥協・世俗化しています。
聖母やセイントへの信仰など、彼ら自身の与太話を無視すれば事実上の多神教ですし、ハンガリーの聖堂には中央に飾られているのはイエス・キリストではなく初代国王イシュトヴァーンの像だといいます。サンタクロースが聖書と何の関係があるでしょうか? そもそも偶像崇拝の禁止はどこへ行った、という具合です。
しかしそういう世俗化に失敗して、あるいは世俗化自体を否定して、これではダメだ「原理」に戻れなどと言いだす無駄に真面目な狂信者が現れれば、その「原理」が旧約時代の大量虐殺を現代に復活させようとするのは、むしろ当然の成り行きではないでしょうか。
要するに、くりかえしになりますが、一神教のいわゆる「原理主義」はなぜ反社会的になるのか、といえば、元々反社会的な「原理」を孕んでいるからではないか。
水で薄めて中和させて世俗化させて、ようやく社会と折り合いをつけているだけで、そもそもそういう中和化を必要とするということ自体が、それら「宗教」の問題点ではないか。
そうした現世否定の来世信仰・救済思想というのは、そもそも現世と相反する契機をその本質・原理とする以上、常に争いの種になるしかないのではないか。原理化すればするほどそうなのではないか。
と、思えるのです。
とすれば……
私たちは、それら創唱宗教の害悪を薄めるための「水」を発見し、手に入れ、決して失わないように保持しつづける必要があるのではないでしょうか。
そして、創唱宗教の害悪の根源が「現世否定」の原理にこそあるのだとすれば、その解毒剤としての役割は、当然ながら、「現世肯定」の原理にこそ求められるはずではないでしょうか。
となれば、わが国において、神仏習合が可能だったのは、仏教が創唱宗教の中ではまだしも穏健な思想を持っていたことにくわえて、そのような「解毒剤」たりうる現世肯定の信仰を保持しつづけてきたからではないか、と考えるのは、自然なことのように思います。
人工的な創唱宗教と違って、自然発生的な民族宗教の面影を色濃く残す神道の「原理」には、現世否定の契機がカケラも含まれていないように思います。
こちらの記事でも書きましたが、常若の思想は、最終目的地たる「来世」への信仰を持ちません。せいぜい「他界」があるだけです。
目的地を持たない、ということは、今いるここが目的地だということで、今さらどこへも行く必要がない。
そして「ここ」とは何かといえば、修理固成の神勅にもとづき伊邪那岐・伊邪那美の二柱が国産みされた、神々の子ともいうべき神聖な土地です。
人間もまた、泥人形ではなく神々の子孫であり、罪びとではなく神々と同じ清らかな本質を持つ存在です。
天皇の治世は天地と共に窮まりがなく、意地糞悪いGODのテストなど永遠に受ける必要がありません。私たちは罪人ではないのですから。
したがって、現世はそれ自体あるがままに尊く清らかで、その現世の万物に敬意を持って接し、それを壊さず維持しつづける、「保守」することが、日本人の使命ということになります。
あるいは、それが「中今」を生きる、ということでもあるのでしょうか……
現世否定の来世信仰では、あらゆる価値の源泉はこの世ではなく来世であって、現世の行いの良し悪しさえも、来世の物差しではかって定義されなければならなくなります。
仏教もキリスト教も、現世で行いを慎め、善根をつめと言いますが、それはなぜかといえば、来世の役に立つからです。現世で善行を積めば来世でイイコトがある、という、究極的には自分一個の損得に帰着するのが戒律です。そこにおいて、現世は、来世という目的のための手段にすぎません。
しかし、神道には来世についての一貫した教義はありません(他界はありますが)。
現世で善行を積んでも、だからといって最後の審判の役に立つということはありません。
なぜならそもそも最後の審判自体が存在しないのですから。
「だったらどうして善行をつむんだ!?」と驚愕するのがあるいはガイジンなのかもしれませんが……
何のことはない、神道においては、現世そのものが尊く清らかで、現世を生きる他者もまたすべからく清らかで尊いことになるのですから……清らかで尊い存在が善を行うことも、清らかで尊い存在に対して善を行うべきことも、自明の理ということにならざるをえません。
(もちろん、人は罪や過ちを犯すことはあります。が、その罪がユダヤ・キリスト教の原罪のごとき「存在」の「本質」としての罪でないことはこちらで考察しました。神道の罪観念は、払ったり清めたりすることができる「穢れ」にすぎず、人間存在の本質としての神聖さは毀損されません)
すなわち、日本人が現世で善行を積むのは、来世の利益のような利己的な動機によるのではなく、現世や現世の生命が最初から大切なものだからです。むしろ、そのような「動機」の必要性そのものを無化してしまうのが神道の世界観ではないでしょうか。
大切なものは大切だから大切にするのだ
と、要約してしまうと、何やら脳内お花畑のマンガのようなセリフですが……
驚くべきことに、「神道原理主義」というものがもしありうるとすれば、この現世肯定のトートロジー(同語反復)に帰着するのではないか、とも思えるのです。
正直、こんな性善説でよく2000年以上も生き延びてこられたものだと不思議なほどですし、実際、日本以外の多くの国々ではこれに類する土着の信仰は凶悪な一神教の侵略によって次々に滅ぼされていったわけですが……
この21世紀になってあらためて猖獗する、あらゆる意味での「原理」主義の醜態の数々を見るにつけ、意外と、このトートロジーは偉大なのではないかとも思えるのです。
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追記:
つけくわえると、さかしらな理性にとって、神道の「こころ」をかえって見えにくくしているものこそ、このトートロジーの自明性なのかもしれません。
自明なものは自明であるがゆえに、失われやすく、また、ひとたび失ってしまえば、取り戻すことは容易ではありません(キリスト教社会では一神教に違和感を持ちサムシング・グレイトを求めるムーブメントがしばしば勃興しますが、胡散臭いオカルトの領域にとどまる場合が大半ですし、成功すればしたで一神教の文脈にとりこまれるのがオチでしょう)。
奇跡的に、一神教に侵されず、仏教を飼いならし、古代の多神教を保持しえた日本は、この自明性を決して見失ってはならないように思いますが……それが困難な隘路であることも確からしく思えます。
ラベル:神道