後桜町天皇の御代は、皇統が断絶の危機に際会したとき「宮家」がどのような役割を果たすのかがよくわかる事例です。
即位事情のあらましはすでにこちらで述べましたし、動画でわかりやすく解説されているとおりです。
本来は甥の後桃園天皇へ皇位を“中継ぎ”され、女帝(上皇)は大任をお果たしになったはずでした。
しかし後桃園天皇は22歳の若さで崩御。皇子もお残しにならず、欣子内親王はまだ1歳にも達していませんでした(後桃園天皇崩御は1779年12月、欣子内親王御誕生は1779年3月)。
この危機にさいして、践祚されたのは、閑院宮系の光格天皇でした。
先帝後桃園天皇「直系」の欣子内親王がおいでだったにもかかわらず、この方を女帝としようとする動きは一切無く、「傍系」の閑院宮師仁親王こそが擁立されたことの重要性は、いくら強調してもしすぎることはありません。
皇位継承のコモン・ローにおいては、直系の女子よりも、傍系の男子が優先されること、また、女性天皇は常に皇位を継承すべき男系男子継承者が予定されている場合に(=「中継ぎ」として)しか践祚されえないことを、この事例は明確に物語っています。
(なお、欣子内親王は光格天皇の中宮となられます)
これまでにも、天智天皇の皇女方が天武天皇のご子孫の男子継承を“中継ぎ”されたり、孝謙・称徳天皇の御代にその天武天皇系の継承者が事実上絶えると、再び天智天皇系の光仁天皇が践祚されたり、といったことはありました。
日本の皇統とは「“支系”の統合(積分)(中川八洋)」であり、本来、何代前に枝分かれしていようと、宮家男子もまた皇位継承の潜在的資格を失うことはなく、むしろ失うことはできないはずです。
なんとなれば、皇位は天孫瓊瓊杵尊~初代神武天皇の「男系血統」にのみ、受け継がれるべきものであり、男系男子継承の掟を守りつづけるかぎり、宮家においても皇室のy染色体は保存されるはずなのですから。代を経ればその血が「薄まる」という発想こそ(メンデルの法則的に)迷信でしょう。
(なおこのあたりのAmazonレビュー
同じく天皇を祖とするといっても、世襲宮家は、正式に勅許・勅命を賜り、氏姓を賜って臣籍に下り、養子縁組を含む双系相続を行ってきた平家や源氏とは、その根本が違っています。
「宮家名」は氏姓ではありませんし、双系相続も行っていません。
そもそも臣籍降下の勅許・勅命など、影も形もありません。
皇統断絶の危機に備えて、天皇・直宮と同じ男系男子継承の掟を守り、血統のリレーの伴走者として数百年の時を送ってきた、由緒あるれっきとした「皇族」、それが世襲宮家です。
この事実を否定し、歪曲し、即位後の結婚・出産を前提とした(女系天皇の誕生を意味する)「直系」女性皇族への皇位継承という、反日勢力の陰謀は、単に日本のコモン・ローへの反逆であるにとどまらず、「傍系」から即位された光格天皇(≒今上陛下の直接の御先祖)を侮辱する企てでもあることは、こちらでも述べた通りです(明治天皇は光格天皇の曾孫)。
日本を取り戻す、と、訴えた政権が誕生した今。
それでは取り戻すべき「日本」とは何なのか?
国体への正しい知識・認識の普及が、急務でしょう。
後桜町天皇、光格天皇の御治績を知ることは、その一助にもなるのではないでしょうか。
なんとなれば、光格天皇は、こちらで軽く触れたとおり、やがて幕末における朝威の回復に大きな足跡をお残しになることになります。
幕府の経済政策の行き詰まりによって国民生活が窮乏したとき、国民が自然発生的に救い主として仰ぎ見たのが、他でもない、天皇・朝廷でした(wiki:御所千度参り)。
明治維新においては「大政奉還」が行われますが、「奉還(返還)」が可能だったということは、つまり幕府の政治権力はあくまで「借り物」にすぎない。天皇こそが真の大君であり、あらゆる権威権力の源泉であり、臣下である徳川将軍に政事を「委任」されているにすぎない、という筋論が、この御代を境に興隆し、幕府自身、その筋論に立つことで、自らの権威・権力を建てなおし、補強しようとしていくようです。
それがなおさら朝廷の権威をいや増しに増していき、孫の孝明天皇の御代の、尊皇攘夷運動へと続いてゆくことになります。
そういう意味では、閑院宮系の血統的にも、政治的、思想的にも、光格天皇こそは、近代皇室の祖ともいえる御存在、時代の転換点に君臨あそばされた天皇だったかもしれません。
少なくとも、孝明天皇は、そのことを強く意識しておいでだったようです。
何となれば、明治天皇の御称号を「祐宮」と申し上げますが、光格天皇の御称号もまた「祐宮」なのです。偉大な祖父と同じ称号を、皇子に授けた孝明天皇の大御心が、拝察できるのではないでしょうか。
身のかひは 何を祈らず 朝な夕な 民安かれと 思うばかりぞ(光格天皇)光格天皇を守りお育てになり、結果的に近代皇室の礎をお築きになったともいえる後桜町天皇は、現代の私たちから見ても、まさに「国母」と申し上げるべき女帝ではないでしょうか。
澄ましえぬ 水にわが身は 沈むとも 濁しはせじな 四方の民草(孝明天皇)
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皇統断絶―女性天皇は、皇室の終焉
悠仁天皇と皇室典範
幕末の天皇 (講談社学術文庫)